しばらくすると日ざしが突き刺さるようになり、一気に気温が上がりました(^_^;
それにしても梅雨入りした途端雨がふらなくなったなぁ…
「17日は近畿各地で午前中から30度超え 熱中症に十分注意を」(関西NHK)先週の朝ドラ「あんぱん」で『厄除け詩集』が重要なきっかけをつくっていました。
井伏鱒二の詩(訳詞)と言えば
勧 酒 于武陵
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
(昭和10年3月「作品」掲載「中島健蔵に」)
(『厄除け詩集 特装版』井伏鱒二 講談社 1994年)
先日、訪ねた子安観音に関連して?(^_-)「17日は近畿各地で午前中から30度超え 熱中症に十分注意を」(関西NHK)先週の朝ドラ「あんぱん」で『厄除け詩集』が重要なきっかけをつくっていました。
井伏鱒二の詩(訳詞)と言えば
勧 酒 于武陵
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
(昭和10年3月「作品」掲載「中島健蔵に」)
(『厄除け詩集 特装版』井伏鱒二 講談社 1994年)
石地蔵
風は冷たくて
もうせんから降りだした
大つぶな霰(あられ)は ぱらぱらと
三角畑のだいこんの葉に降りそそぎ
そこの畦みちに立つ石地蔵は
悲しげに目をとぢ掌(て)をひろげ
家を追ひ出された子供みたいだ
(よほど寒さうぢやないか)お前は幾つぶもの霰を掌に受け
お前の耳たぶは凍傷(しもやけ)だらけだ
霰は ぱらぱらと
お前のおでこや肩に散り
お前の一張羅(いつちやうら)のよだれかけは
もうすつかり濡れてるよ
(昭和8年2月「尺牘」)
(『厄除け詩集 特装版』井伏鱒二 講談社 1994年)6月12日に杉浦日向子さんの説を一部紹介していました。
これまでにも何度か書いていますが、
杉浦日向子さんの本を読んで江戸時代に対する見方・考えが変わりました。
文庫本など手に取りやすい本が出ています。
参 江戸の食事情
カレーライス隆盛の秘密
新しい食が定着する背景には、必ずそれを受け入れる下地の存在が考えられます。
江戸時代、禁忌とされていた肉食が明治以降急速に広まったのも、「薬喰い」と称するジビエ食(熊、鹿、猪、狸、兎、猿、鯨、鴨など野生の動物を食べること)が、秘かに行なわれていたからにほかなりません。
それは、カレーライスにもあてはまるはずです。
カレーライスが「国民食」といわれるまでに広まった背景には、江戸期の「ぶっかけ飯」とか「かけ飯」といわれた食事があったからでしょう。
(『うつくしく、やさしく、おろかなり——私の惚れた「江戸」』杉浦日向子 ちくま文庫 2009年) この「ぶっかけ飯」は、つまり何かをご飯にかけて食べる習慣で、室町時代に武将が好んで食べたなどともいわれる戦時の急ぎ飯です。
こういう習慣がなかったら、カレーをライスにかけて食べるというアイデアは生まれなかったし、その大発展もなかったかもしれません。
室町の「かけ飯」は名のある方々が食べたので記録にも残りましたが、記録には登場しない名もなき庶民も「かけ飯」を食べていたのでしょう。
庶民の暮らしが記録されはじめるのは江戸時代からですので、ともあれ文献を頼りにカレーライス隆盛の背景を求めて江戸の町を歩いてみましょう。 まず、江戸の町には「胡椒飯(こしょうめし)」というぶっかけ飯がありました。
カレーライスとスパイシーという点で共通するのが、この胡椒飯でしょう。
胡椒は当時、口中清涼剤として歯磨き売りや生薬屋で売られていました。
主に粒胡椒ですが、カリッと嚙んで爽快感を楽しんでいたのでしょう。
胡椒飯はご飯の上に魚のヅケの薄切りや、ちりめんじゃこなどをのせて割胡椒をまぶし、だし汁をかけるものです。
これはどちらかというとオツな食べ物でした。
そこへいくと「奈良茶飯」というぶっかけ飯はポピュラーで、よく食べられていました。
これは現在でも奈良にある緑茶で炊いた茶がゆとほぼ同じもの。
夕方になると町のあちらこちらに屋台が出て、一杯飲んだ後に腹ごしらえする若衆でにぎわいました。
人気の秘密は味のよさだけではなく値段の安さ。
夜鳴き蕎麦より安いのです。
蕎麦が十六文という時代に奈良茶飯は八文からありました。 それから、江戸中期に開発が始まって漁師が住み着きはじめた深川にもぶっかけ飯が登場します。
今でも残る「深川飯」です。
現在の深川飯は浅蜊(あさり)をご飯にまぜて炊く炊き込みご飯ですが、江戸時代の深川飯は根深ねぎをざくざく入れた浅蜊の味噌汁を、ご飯にぶっかけてじゃぶじゃぶ食べるものでした。
そのほかとろろ汁のぶっかけ飯など、江戸のかけ飯の大半は「汁もの」です。
かつおでだしをきかせた醤油汁を使うのがぶっかけ飯の王道で、味噌汁をかけるのは急場しのぎ。
また、お茶漬けはぶっかけ飯とは別のものとして楽しんでいたようです。 こうしたぶっかけ飯がカレーライスの育ての親の「ひとり」だと考えられます。
そして、もう「ひとり」忘れてはならないのが「あんぺい」という江戸時代のあんかけ料理。
これは汁に小麦粉を混ぜたものです。
この「あんぺい」がカレーライスのとろみを生んだのだと思います。
ちなみに「あん」は飴状のものという意味。
ただ、このあんかけは麵料理になじみ深く、逆にご飯を使った料理はありません。
そうなると日本初のあんかけご飯がたぶんカレーライスで、それは江戸の汁かけ飯とあんかけ麵との家庭にきた養子といえるのではないでしょうか。 この子どもの本当の親は明治維新以後の西洋文化。
もっというならインドからスパイスを手に入れてカレー粉を作ったイギリスの食文化です。
後年カレーライスが成長して時代の寵児となると、実の親にはたびたびスポットが当たりました。
しかし、育て親あってのカレーライスなのに、残念ですが世間はカレーライスの里親のことを忘れてしまったのです。
それではせっかくできのいい子を世に出した育ての親は報われません。
なかでもぶっかけ飯はとくに忘れられていますので、あらためてその功績をたたえたいものです。 江戸時代、ぶっかけ飯は男のものでした。
それも職人衆や商家の小僧などの独身男だけでなく、貧乏長屋の所帯持ちは家庭でも食べました。
長屋の食卓は目刺(めざ)しがあればいいほうでした。
普通は味噌と漬け物だけ。
「味噌さえあれば飯は何杯でも食べられる」というのが、長屋の男たちの自慢だったのです。
そんな食卓にときどき味噌汁やだしで溶いたとろろ汁などのおかずが加われば、彼らはぶっかけ飯にしました。 江戸っ子は気が短いから、おかずとご飯を別々に食べるなんてまどろっこかったのでしょう。
それと、ぶっかけ飯はおいしいです。
だしのきいた汁を吸ってご飯がふくらみ、ご飯の甘みとだしの塩気が馴染んでこたえられません。
だから、たとえおかみさんに「犬じゃあるまいにそんな食べ方はおよしよ」などといわれても、亭主たちはいっこうにやめません。
一方の娘衆は「ぶっかけ飯を食べると嫁入りの日に雨が降る」といわれたものです。
はしたないから女の食事ではないというのです。
けれども、止められればなおさら食べたくなるのが人情。
そんなときは味噌汁椀のほうへご飯を入れてしまえばいいのです。
そうすれば、ぶっかけ飯ではなくて飯入り汁になるからです。
…つづく…
(『うつくしく、やさしく、おろかなり——私の惚れた「江戸」』杉浦日向子 ちくま文庫 2009年)今朝の父の一枚です(^^)/
ソテツを写していました。
〝緑化植物でなく「救荒作物」〟(奄美新聞 2023年9月10日)
「奄美島民にとっては身近で大切な『命の植物』」
世界には、飢餓で苦しむ人たちが大勢います。
4章 ● 世界の半分が飢えるのはなぜ?
□「飢餓」:その現状
…前略…
『世界の半分が飢えるのはなぜ?』には飢餓の現状として、アフリカで人口35%、東南アジアで18%、ラテンアメリカとカリブ海地域で14%の人びとが飢えており、「深刻な栄養不良」の状態にあるといわれる人びとの75%が農村に住んでいると書かれています(ジャン・ジグレール『世界の半分が飢えるのはなぜ?』)。
素朴な疑問として、食べものを生産するのが農業のはずで、「農村に住んでいるのに、どうして飢えるの?」と思うでしょう。
これは、すでに農業が工業の原材料としての売るため・輸出するための商品作物を生産する産業となり、長年の政治経済が、農業より工業を、農村より都市部を優遇してきたツケとも考えられます。
そのため農業が生活できるだけの金額も稼げず、人びとの食や生活を支えられなくなっていると考えられます。
豊かな国にも飢えが存在している現実も無視できません。
米国や日本でも実は満足に食べられていない人がかなりいます。
日本でも「子ども食堂」や「フードバンク」など、聞いたことがあるでしょう。
また、国としては農業がさかんで食料を大量に輸出している国でも、国内には飢餓が残っていることも珍しくありません。
例えば、ブラジルは世界的な大豆生産国で畜産もさかんで今や食料の大輸出国ですが、国内には飢えている人が存在しています。
…後略…
(『食べものから学ぶ世界史―人も自然も壊さない経済とは?』平賀緑 岩波ジュニア新書 2021年)