2023年3月31日金曜日

3月も終わり…

3月も終わりですね…
曇り空でも花粉の飛散が多いとか…(-_-;)
花粉が舞いあがるのは困るけど
俵万智さんのTwitter

見たいもの
ほんまに見られるその日まで
螺旋描いて舞いあがる人

この道一直線じゃないところが新鮮なヒロインだった。
寄り道に見えたことも、彼女のなかでは大事につながっていた。
そうか、舞いあがるって螺旋(らせん)だよね。
#舞いあがれ #最終回

雨が降っていなかったけどマクロレンズで出かけました。
というのはキランソウ(地獄の釜の蓋)を別の場所で見つけました(^^)v
奈良を歩いていた頃、出会った野草(薬草)です。
去年だったかな?
キランソウが咲いていると喜んでいたらゴソッと盗られてしまっていました。
今まで写していたのは人通りの少ない場所なのですが
今回は、人通りが多いのでどうなるか?
カラスがカナリーヤシの繊維をむしっていました。
巣材にするようです。
その側でソッポを向いているようなのですが…
最初のカラスがむしった繊維をくわえて飛び立った後、
そしらぬ素振りだったカラスがガサッと…
しばらくすると最初のカラスかな?
戻ってきたら「ナイ!」といったように辺りをキョロキョロ…(*´▽`*)
 ◆オレンジとレモンの日(3月31日) Oranges and Lemons Day

 英国のマザー・グース(伝承童謡集)にはこんな遊び歌がある。

「オレンジとレモン」
聖クレメントの鐘が鳴る
「おまえに五ファージングの貸しがある」
聖マーティンの鐘が鳴る……


 この歌(歌詞には多数の異形あり)のメロディーを鐘の音に使い、また、年に一度この歌にちなんだ礼拝を行なっているのが、ロンドンのストランド街にある聖クレメント・デーンズ教会(イングランド聖公会)だ。
 この礼拝はある牧師が考案したもので、同教会の鐘を修復したのをきっかけに、1920年3月31日、第1回の礼拝が行なわれた。
このときから鐘の音は「オレンジとレモン」のメロディーになり、地元の子どもたちが参加してオレンジとレモンが配られた。
子どもたちがかなでるハンドベルの音色も呼び物のひとつとなった。
戦争で教会が被災したのちしばらく礼拝は中断されたが、1959年に復活した。
 現在、この礼拝につどうのは、聖クレメント・デーンズ小学校の児童たちである。
3月の第3木曜日の午後、礼拝堂で「オレンジとレモン」にちなんだ劇やダンス、暗誦などを披露したあと、子どもたちは扉の外で司祭たちからオレンジとレモンを受けとり帰途につく。
ちなみに、ロンドンにはイーストチープに聖クレメント教会があり、そちらのほうを童謡の本家として有力視する向きもある。
(『キリスト教の歳時記 知っておきたい教会の文化』八木谷涼子 講談社学術文庫 2016年)
  オレンジとレモン

オレンジとレモン
セント・クレメントのかねはいう

おまえにゃ五ファージングのかしがある
セント・マーティンのかねはいう

いつになったらかえすかね?
オールド・ベイリーのかねはいう

おかねもちになってから
ショアディッチのかねはいう

それはいったいいつのこと?
ステプニーのかねはいう

わたしにゃけんとうもつかないね
バウのおおきなかねはいう

さあろうそくだ ベッドにつれていくぞ
さあまさかりだ くびちょんぎるぞ
(『よりぬきマザーグース』 谷川俊太郎 訳 、鷲津名都江 編 岩波少年文庫 2000年)
解説 オレンジとレモン

(英文省略)

「ロンドンばし」と同様の遊び方をする歌ですが、まずはじめにアーチ役の子ども2人がそれぞれ「オレンジ」か「レモン」かをひそかに決めておきます。
そしてつかまった子にオレンジとレモンのどちらかを選(えら)ばせ、それぞれのアーチ役の子の後につかせます。
さらに全員がオレンジ組とレモン組に分かれたら、引っぱりっこをするのです。
この詩に登場する鐘(かね)は、ロンドンの下町を中心に点在する教会の鐘です。
我こそが「オレンジとレモンの教会」と主張する教会がいくつもあることからもわかるように、イギリスでは「ロンドンばし」以上に親しまれているマザーグースですが、教会の名前になじみがないからか、アメリカではそれほど知られていません。
ファージングは、今は使われていないイギリスの硬貨で、1/4ペニーにあたります。
(『よりぬきマザーグース』 谷川俊太郎 訳 、鷲津名都江 編 岩波少年文庫 2000年)

鷲津名都江さんは、わたしにとって懐かしい「小鳩くるみ」さんです。
“小鳩くるみ”から大学教授へ~鷲津名都江さん」(NHK番組発掘プロジェクト通信 2016.10.28)
枯野抄」つづき

 芭蕉はさっき、痰喘(たんせき)にかすれた声で、覚束(おぼつか)ない遺言をした後(あと)は、半(なか)ば眼を見開いたまま、昏睡(こんすい)の状態にはいったらしい。
うす痘痕(いも)のある顔は、顴骨(かんこつ)ばかり露(あらわ)に痩(や)せ細って、皺(しわ)に囲まれた脣(くちびる)にも、とうに血の気はなくなってしまった。
殊に傷(いたま)しいのはその眼の色で、これはぼんやりした光を浮べながら、まるで屋根の向うにある、際限のない寒空(さむぞら)でも望むように、徒(いたずら)に遠い所を見やっている。
「旅に病んでは夢は枯野をかけめぐる。」――事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三、四日前に彼自身が、その辞世の句を詠じた通り、茫々(ぼうぼう)とした枯野の暮色が、一痕(いっこん)の月の光もなく、夢のように漂ってでもいたのかも知れない。
(『或日の大石内蔵之助・枯野抄』芥川竜之介 岩波文庫 1991年)
 「水を。」
 木節はやがてこういって、静(しずか)に後(うしろ)にいる治郎兵衛を顧みた。
一椀(いちわん)の水と一本の羽根楊枝(はねようじ)とは、既にこの老僕が、用意して置いた所である。
彼はその二品を、おずおず主人の枕元へ押し並べると、思い出したよううにまた、口を早めて、専念に称名(しょうみょう)を唱え始めた。
治郎兵衛の素朴な、山家(やまが)育ちの心には、芭蕉にせよ、誰にもせよ、ひとしく彼岸(ひがん)に往生(おうじょう)するのなら、ひとしくまた、弥陀(みだ)の慈悲にすがるべきはずだという、堅い信念が根を張っていたからであろう。
 一方また木節は、「水を」といった刹那(せつな)の間、果たして自分は医師として、万方(ばんぽう)を尽(つく)したろうかという、何時(いつ)もの疑念に遭遇したが、すぐにまた自(みずか)ら励ますような心もちになって、隣にいた其角(きかく)の方をふりむきながら、無言のまま、ちょいと相図(あいず)をした。
芭蕉の床を囲んでいた一同の心に、いよいよという緊張した感じが咄嗟(とっさ)に閃(ひらめ)いたのはこの時である。
が、その緊張した感じと前後して、一種の弛緩(しかん)した感じが――いわば、来るべきものが遂に来たという、安心に似た心もちが、通りすぎた事もまた争われない。
唯、この安心に似た心もちは、誰もその意識の存在を肯定しようとはしなかったほど、微妙な性質のものであったからか、現にここにいる一同の中では、最も現実的な其角でさえ、折から顔を見合せた木節と、際どく相手の眼の中に、同じ心もちを読み合った時は、さすがにぎょっとせずにはいられなかったのであろう。
彼は慌(あわただ)しく視線を側(わき)へ外(そ)らせると、さり気なく羽根楊子をとりあげて、
 「では、御先へ」と、隣の去来に挨拶(あいさつ)した。
そうしてその羽根楊子へ湯呑(ゆのみ)の水をひたしながら、厚い膝(ひざ)をにじらせて、そっと今はの師匠の顔をのぞきこんだ。
実をいうと彼は、こうなるまでに、師匠と今生(こんじょう)の別(わかれ)をつげるという事は、さぞ悲しいものであろうな位な、予測めいた考(かんがえ)もなかった訳ではない。
が、こうしていよいよ末期(まつご)の水をとって見ると、自分の実際の心もちは全然その芝居めいた予測を裏切って、如何(いか)にも冷淡に澄みわたっている。
のみならず、更に其角が意外だった事には、文字通り骨と皮ばかりに痩せ衰えた、致死期の師匠の不気味な姿は、殆面(ほとんどおもて)を背(そむ)けずにはいられなかったほど、烈(はげ)しい嫌悪の情を彼に起させた。
いや、単に烈しいといったのでは、まだ十分な表現ではない。
それはあたかも目に見えない毒物のように、生理的な作用さえも及ぼして来る、最も堪えがたい種類の嫌悪であった。
彼はこの時、偶然な契機によって、醜き一切(いっさい)に対する反感を師匠の病躯(びょうく)の上に洩らしたのであろうか。
あるいはまた「生」の享楽家たる彼にとって、そこの象徴された「死」の事実が、この上もなく呪(のろ)うべき自然の威嚇(いかく)だったのであろうか。
――とにかく、垂死(すいし)の芭蕉の顔に、いいようのない不快さを感じた其角は、殆(ほとんど)何の悲しみもなく、その紫がかったうすい脣に、一刷毛(ひとはけ)の水を塗るや否や、顔をしかめて引き下った。
(もっと)もその引き下る時に、自責に似た一種の心もちが、刹那に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じていた嫌悪の情は、そういう道徳感に顧慮すべく、余りに強烈だったものらしい。
 其角(きかく)に次いで羽根楊子(はねようじ)をとり上げたのは、さっき木節(もくせつ)が相図(あいず)をした時から、既に心の落着きを失っていたらしい去来(きょらい)である。
日頃(ひごろ)から恭謙の名を得ていた彼は、一同に軽く会釈をして、芭蕉の枕(まくら)もとへすりよったが、そこに横(よこた)わっている老俳諧師(ろうはいかいし)の病みほうけた顔を眺める、或(ある)満足と悔恨との不思議に錯雑した心もちを、嫌でも味(あじわ)わなければならなかった。
しかもその満足と悔恨とは、まるで陰と日向(ひなた)のように、離れられない因縁を背負(せお)って、実にこの四、五日以前から、絶えず小心な彼の気分を掻乱(そうらん)していたのである。
というのは、師匠の重病だという知らせを聞くや否や、すぐに伏見(ふしみ)から船に乗って、深夜にもかまわず、この花屋(はなや)の門を叩(たた)いて以来、彼は師匠の看病を一日も怠ったという事はない。
その上之道(しどう)に頼みこんで手伝いの周旋を引き受けさせるやら、住吉大明神(すみよしだいみょうじん)へ人を立てて病気本復を祈らせるやら、あるいはまた花屋仁左衛門(にざえもん)に相談して調度類の買入れをしてもらうやら、殆(ほとんど)彼一人が車輪になって、万事万端の世話を焼いた。
それは勿論(もちろん)去来自身進んで事に当ったので、誰に恩を着せようという気も、皆無だった事は事実である。
が、一身を挙げて師匠の介抱に没頭したという自覚は、勢(いきおい)、彼の心の底に大きな満足の種を蒔(ま)いた。
それが唯、意識せられざる満足として、彼の活動の背景に暖い心もちをひろげていた中(うち)は、元より彼も行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に、何らのこだわりを感じなかったらしい。
さもなければ夜伽(よとぎ)の行燈(あんどん)の光の下で、支考(しこう)と浮世話に耽(ふけ)っている際にも、ことさらに孝道(こうどう)の義を釈(と)いて、自分が師匠に仕えるのは親に仕える心算(つもり)だなどと、長々しい述懐はしなかったであろう。
しかしその時、得意な彼は、人の悪い支考の顔に、ちらりと閃(ひらめ)いた苦笑を見ると、急に今までの心の調和に狂いの出来た事を意識した。
そうしてその狂いの原因は、始めて気のついた自分の満足と、その満足に対する自己批判とに存している事を発見した。
明日にもわからない大病の師匠を看護しながら、その容態をでも心配する事か、徒(いたずら)に自分の骨折(ほねおり)ぶりを満足の眼で眺めている。
――これは確(たしか)に、彼の如き正直者の身にとって、自ら疚(やま)しい心もちだったのに違いない。
それ以来去来は何をするのも、この満足と悔恨との扞格(かんかく)から、自然と或(ある)程度の掣肘(せいちゅう)を感じ出した。
(まさ)に支考の眼の中に、偶然でも微笑の顔が見える時は、かえってその満足の自覚なるものが一層明白に意識されて、その結果いよいよ自分の卑しさを情(なさけ)なく思った事も度々ある。
それが何日か続いた今日、こうして師匠の枕もとで、末期(まつご)の水を供する段になると、道徳的に潔癖な、しかも存外神経の繊弱な彼が、こういう内心の矛盾の前に、全然落着きを失ったのは、気の毒ではあるが無理もない。
だから去来は羽根楊子をとり上げると、妙に体中が固くなって、その水を含んだ白い先も、芭蕉の脣(くちびる)を撫(な)でながら、頻(しきり)にふるえていた位、異常な興奮に襲われた。
が、幸(さいわい)、それと共に、彼の睫毛(まつげ)に溢(あふ)れようとしていた、涙の珠(たま)もあったので、彼を見ていた門弟たちは、恐(おそら)くあの辛辣(しんらつ)な支考まで、全くこの興奮も彼の悲しみの結果だと解釈していた事であろう。
…つづく…
(『或日の大石内蔵之助・枯野抄』芥川竜之介 岩波文庫 1991年)
今朝の父の一枚です(^^)/
桜が散り、花びらの絨緞が敷きつめられていました。

【視】お花見」つづき

 一方、ソメイヨシノの栽培の歴史は新しく、江戸末期に染井(現在の東京都豊島区)の植木屋がエドヒガンザクラ系品種とオオシマザクラを交配して作り出し、「吉野」の名で売り出したとされています。
吉野山のヤマザクラと間違えやすいので、明治期に「ソメイヨシノ」という名前に改められたわけです。
 いわば、「吉野山の桜」への憧(あこが)れからその名が付いた、都会の桜がソメイヨシノ。
そのご先祖様に、吉野山でついに出会えた――そんな感動がありました。

 「吉野の花見」といえば、あの豊臣秀吉も足を運びました。

 年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな

 秀吉の歌です。
彼が絶頂の勢力を誇っていた1594(文禄3)年、徳川家康、宇喜多(うきた)秀家、前田利家、伊達政宗(だてまさむね)ら錚々(そうそう)たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちをともない、総勢5000人で吉野山を訪れたと言います。
 ところが……。
なぜか天気が悪く、雨続き。
秀吉が吉野山に入って三日間、雨は降り続きました。
秀吉はいらだち、「雨がやまなければ火を放つ」と言うので僧侶たちは大あわて。
必死に晴天祈願をしました。
その結果、空はみごとに晴れ上がったそうです。
…つづく…
(『年中行事を五感で味わう』山下柚実 岩波ジュニア新書 2009年)