2023年3月28日火曜日

お花見日和かな?

天気予報では「お花見日和」だとか(*´▽`*)
出掛けると日影だと寒さを感じるほどでしたが
日向は歩いてるとポカポカして一枚脱ぎました。
気温が上がったので花が一斉に咲き
タケノコもニョキッと伸び上がっていました。
朝ドラ「舞いあがれ!」で貴司君が歌を詠むことできなくなって苦しんでいるのですが

俵万智さんが3月20日のTwitter

第一歌集は神さまからの贈り物。
第二歌集は勢い。
第三歌集からが、難しいんだよね。
リュー北條も、それをわかってる表情だったなあ。
貴司くん、無理せんでええよ。
 #舞いあがれ
先日紹介した俵万智さんの本の「あとがき」に
私は、まだ見ぬ第三歌集に向って、気持ちも新たに走り始めます。
本文中には、貴司君の苦しみを代弁するかのように

Ⅲ 短歌を考える
 「心派」の子規


…前略…

 私自身、短歌を作りはじめたときの大きなテーマは、青春そのものだった。
そして四年で歌集を出版してしまった。
まぎれもない素人歌人だ。
それからさらに四年がたって、第二歌集を出版した。
たぶんこれからが「苦節何年」のはじまりなのだろう。
「玄人の時代」はデビューするまでが「苦節何年」だった。
が、「素人の時代」は、デビューしてからが大変なのだ。
 歌人になることは、比較的やさしい。
が、歌人でありつづけることは、とてもむずかしい。
そんな時代なのだと思う。
(『短歌をよむ』俵万智 岩波新書 1993年)

第三歌集は「チョコレート革命
 「ごんごろ鐘」つづき

 三月二十三日
 ひるまへ、南道班子供常会(みなみみちはんこどもじやうくわい)をするために尼寺へいつた。
 いつも常会をひらくまへに、境内をみんなで掃除することになつてゐるのだが、けふは僕はひとつみんなの気のつかないところをしてやらうと、御堂の裏へまはつて、藪と御堂の間のしめつた落葉をはいた。
裏へまはつていいことをしたと思つた。
それは僕の好きな白椿が咲いてゐるのを見つけたからだ。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
 何といふよい花だらう。
白い花べんがふかぶかとかさなりあひ、花べんの影がべつの花べんにうつつて、ちよつとクリーム色に見える。
神さまも、この花をつつむには、特別上等の澄んだやはらかな春光をつかつていらつしやるとしか思へない。
そのうへ、またこの木の葉がすばらしい。
一枚一枚名工がのみで彫つてつけたやうな、厚い固い感じで、黒と思へるほどの濃緑色は、エナメルをぬつたやうにつややかで、陽のあたる方の葉は眼に痛いくらゐ光を反射するのだ。
 じつにすばらしい花が日本にはあるものだ。
いつかお父さんが、日本ほど自然の美にめぐまれてゐる国はないとおつしやつたが、ほんとうにさうだと思ふ。
 掃除が終つて、いよいよ第二十回常会を開かうとしてゐると、きこりのやうな男の人が、顔の長い、耳の大きい爺さんを乳母車にのせて、尼寺の境内にはいつて来た。
 きけばその爺さんは深谷の人で、ごんごろ鐘がこんど献納されるときいて、お別れに来たのださうだ。
乳母車をおして来たのは爺さんの息子さんだつた。
 深谷といふのは僕たちの村から、三粁(キロ)ほど南の山の中にある小さな谷で、僕たちは秋きのことりに行つて、のどがかはくと、水を貰ひに立寄るから、よく知つてゐるが、家が四軒あるきりだ。
電燈がないので、今でも夜はランプをともすのだ。
その近所には今でも狐や狸がゐるさうで、冬の夜など、人が便所にゆくため戸外に出るときには、戸をあけるまへに、まづ丸太をうちあはせたり、柱を竹でたたいたりして、戸口に来てゐる狐や狸を追ふのださうだ。
 お爺さんは、ごんごろ鐘の出征の日を、一日まちがへてしまつて、つひにごんごろ鐘にお別れが出来なかつたことを、たいへん残念がり、口を大きくあけたまま、鐘のなくなつた鐘楼の方を見てゐた。
「きのふ、お別れだといつて、あげん子供たちが、ごんごん鳴らしたが、わからなかつただかね。」
と庵主さんも気の毒さうにいふと、
「ああ、この頃は耳の聞える日と聞えぬ日があつてのオ。きんのは朝から耳ん中で蠅が一匹ぶんぶんいつてやがつて、いつかう聞えんだつた。」
と、お爺さんは答へるのだつた。
 お爺さんは息子さんに、町までつれていつて鐘に一目あはせてくれ、と頼んだが、息子さんは、仕事をしなきやならないからもうごめんだ、といつて、お爺さんののつた乳母車をおして、門を出ていつた。
 僕たちは、しばらく、塀の外をきゆろきゆろと鳴つてゆく乳母車の音をきいてゐた。
僕はお爺さんの心を思ひやつて、深く同情せずにはゐられなかつた。
 それから僕たちの常会がはじまつた。
するとまつさきに松男君が、
「僕に一つ新しい提案がある。」
といつた。みんなは何だらうかと思つた。
「それは、今のお爺さんを町までつれていつて、ごんごろ鐘にあはしてあげることだ。」
 みんなは黙つてしまつた。
なるほどそれは、誰もが胸の中でおもつてゐたことだ。
いいことには違ひない。
しかしみんなは、昨日、町まで行つて来たばかりであつた。
また今日も、同じ道を通つて同じところに行つて来るといふのは面白いことではない。
 しかし、
「賛成。」
と、紋次郎君がしばらくしていつた。
「僕も賛成。」
と勇気をふるつて僕がいつた。
すると、あとのものもみな賛成してしまつた。
「本日の常会、これで終りツ。」
と松男君が叫んで、たあツと門の外へ走り出した。
みんなそのあとにつづいた。
 亀池の下でお爺さんの乳母車に追ひついた。
僕たちはお爺さんの息子さんにわけを話して、お爺さんをこちらへ受けとつた。
お爺さんは子供のやうに喜んで、長い顔をいつそう長くして、あは、あは、と笑つた。
僕たちもいつしよに笑ひ出してしまつた。
 何も心配する必要はなかつた。
昨日通つたばかりの道でも、少しも退屈ではなかつた。
心に誠意をもつて善い行ひをする時には、僕らはなんど同じことをしても退屈するものではない、とわかつた。
それにお爺さんがいろいろ面白い話をしてくれた。
 ただ一つ困つたことは、乳母車のどこかが悪くなつてゐて、押してゐると右へ右へとまがつていつてしまふことだつた。
だから押す者は、十米(メートル)ぐらゐすすむたびに、乳母車のむきをかへねばならなかつた。
僕たちはこのやつかいな乳母車をかはりばんこに押していつたのである。
 正午じぶんに、僕たちは町の国民学校についた。
昨日のところになつかしいごんごろ鐘はあつた。
「やあ、あるなア、あるなア。」
と、お爺さんは鐘が見えたときいつた。
そうして、触(さは)りたいからそばへ乳母車をよせてくれ、といつた。
僕たちは、お爺さんのいふとほりにした。
 お爺さんは乳母車から手をさしのべて、なつかしさうにごんごろ鐘を撫でてゐた。
 僕たちは弁当を持つてゐなかつたので腹ぺこになつて、村に二時頃帰つて来た。
それから深谷までお爺さんを届けにいつてくるのは楽な仕事ではなかつた。
が、感心なことに誰もいやな顔をしなかつた。
僕らはびつこをひきひき深谷までゆき、お爺さんをかへして来た。
 夕御飯のとき、けふのことを話したら、お父さんが、それはよいことをした、とおつしやつた。
「ん、さういへば、あのごんごろ鐘は深谷のあたりでつくられたのだ。いまでもあの辺に鐘鋳谷(かねいりだに)といふ名の残つてゐる小さな谷があるが、そこで、鋳(い)たといふことだ。その頃の若いもんたちは、三日三晩、たたらといふ大きなふいごを足で踏んで、銅(かね)をとかす火をおこしたもんださうだ。」
 それでは、あのお爺さんもまたごんごろ鐘と深いつながりがあつたわけだ。
 僕は又しておもひ出した、吉彦さんが鐘をつくとき言つた言葉を――「西の谷も東の谷も、北の谷も南の谷も鳴るぞ。ほれ、あそこの村もここの村も鳴るぞ。」
 ちやうどそのとき、ラジオのニュースで、けふも我が荒鷲が敵の○○飛行場を猛爆して多大の戦果を収めたことを報じた。
 僕の眼には、爆撃機の腹から、ばらばらと落ちてゆく黒い爆弾のすがたがうつつた。
「ごんごろ鐘もあの爆弾になるんだねえ。あの古ぼけた鐘が、むくりむくりとした、ぴかぴかひかつた、新しい爆弾になるんだね。」
と僕がいふと、休暇で帰つて来てゐる兄さんが、
「うん、さうだ。何でもさうだよ。古いものはむくりむくりと新しいものに生れかはつて、はじめて活動するのだ。」
といつた。
兄さんはいつもむつかしいことをいふので、たいてい僕にはよくわからいのだが、この言葉は半分ぐらゐはわかるやうな気がした。
古いものは新しいものに生れかはつて、はじめて役立つといふことに違ひない。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
今朝の父の一枚です(^^)/

【視】お花見」つづき

 その一方で、以前からちょっと気になっている桜がありました。
それは、奈良県の「吉野山の桜」。
 「吉野山の桜」は、歌舞伎の「義経(よしつね)千本桜」や古い屏風(びょうぶ)絵など繰り返し登場し、たくさんの歌にも詠まれてきた、有名な花なのです。

  白雪の降りしくときはみな吉野の山下風に花ぞ散りける 紀貫之
  吉野山去年(こぞ)のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ 西行
  よし野にて桜見せふぞ檜(ひ)の木笠(かさ) 芭蕉
 
 それほど人々が心を動かされてきた桜の風景には、なにか秘密があるはず。
ぜひ、一度は「吉野山の桜風景」をこの目で見たい、と私は願ってきました。
吉野山という土地のイメージそのものが、日本の文化の根底に眠っている、一枚の重要なカードではないか、と想像したのです。
 ある年、四月の花の時期に吉野を訪ねるチャンスがめぐってきました。
本物を自分の目で見るのは初めて。
私はドキドキしながら現地に向かいました。
…つづく…
(『年中行事を五感で味わう』山下柚実 岩波ジュニア新書 2009年)