2023年3月14日火曜日

雲一つない青空

 昨日と違って雲一つない青空が広がっていました。
霜注意報が出るほど気温は低かったのですが
日向はポカポカしていました。
私には爪切りが必要だった 経験者だからこその「すごい」備え〟(NHK 3月13日)
タイトルを見たときは???だったけど
体験から得た備えの数々が紹介されていました。

杉山さんは、
いつどこで災害が起こり、避難生活が何日続くかは予想できないものだと思っています。……」
子どものミルクやナプキンがない不安の中で、周りの人に助けてもらった当時の体験は忘れられません。
みんなで分け合えるように多めに用意しているんです


小野さんは
水や食料、衣服は支援物資で届いたんですが、細かいものはそうもいかないので。
長い避難生活では爪切り1つをとっても人に借りるのって面倒だし、衛生的にも気になりました。
だから自分で用意できたらいいなと思って。
食事をしたら歯を磨きたいし、手が汚れたらティッシュで拭きたい。
少しでもきれいにしておけるものがあれば避難生活の中でも気持ちが落ち着くかなと思います


NPO「ママプラグ」理事の宮丸さんのアドバイスが参考になります。
二章 鬼を見た人びとの証言
 3 百鬼夜行を見た人びと
 瘤取りの鬼


 つぎに、百鬼夜行の鬼のなかでは、きわめて特異な悦楽と団欒の場を見せる<瘤取り鬼>について述べてみたい。
 このお話の筋は、わが国の主要なお伽話の一つとして多くの人びとの熟知するところである。
「物羨みはせまじことなりとか」という結論がついているが、太宰治はこの俗悪な結論に反論して、『お伽草子』のなかの一篇に「瘤取り」をかいた。
この一篇における太宰の、<鬼>との出会いは、これを書いた昭和二十年三月以降の、敗戦に歩一歩とのめりこむ時代状況と併せて考えるとき、その鬼への近親の情は、鬼そのものの性格を考える上にも役立つように思われる。
(『鬼の研究』 馬場あき子 ちくま文庫 1988年)
 太宰はこの鬼の話を四国剣山の鬼の話として語ろうとした。
剣山は、柳田国男氏が「山人外伝資料」にあげられた四国山人の中心をなした地である。
太宰は温順な四国の山の奥処に、みずからに疎外者の生き方を課しつつ生きた山人の集団に、ほろにがい、ほのがなしい共鳴を感じていたのであろうか。
『宇治拾遺物語』はいう。
「赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を着、褌(たふさぎ)にかき、大方目ひとつある者あり、口無き者など、大方いかにもいふべきにあらぬ者ども百人ばかりひしめき集りて、火を天の目のごとにともして――」鬼の描写として典型的な描写である。
着衣の色彩などもバラエティーに富んで工夫がこらされ、華やかである。
そのうえ、かの津国の修行者の目前に集会した鬼が何の会合かを明らかにせぬのに反し、この陽気な怪物らはこの山中に派手な酒宴を張るために集まったらしいのも注目すべきである。
なぜなら、天狗その他の妖怪の集会といえば、多くは天下を傾ける悪企みとか、憎むべき驕慢者の誅殺とか、いずれにしても怨念・私憤を晴そうための相談事であるのがおきまりである。
瘤取りの鬼の特異性は、この酒宴がしかも単なる悦楽・友好・団欒の目的以外をもっていなかったことにある。
右頰に瘤のある翁の「すぢりもぢり、えい声を出して、一庭を走りまはり舞ふ」という熱演に感激して「多くの年ごろこの遊びをしつれでも、未だかかる者にこそ逢はざりつれ」という賞讃のことばのかげには、「多くの年ごろ」にわたって、かかる集団の愉悦の場がつづいていたことがほのめかされ、太宰ならずとも世の秩序を脱出した隠者の集りを考えてみたくなる。
名誉や財産、中傷や贅言、そして過去の怨念や現在の私憤まで、まるで捨てきってしまった無用者の集団のようなこの夜宴する百鬼は、そうした、純粋な心の和楽だけを目的とした宴をもっていることによって、ずばぬけて特色的であるといえる。
 その第二に、これもまた無類に特色的であるのは、右頰に瘤ある翁に何の危害を加えるこをも思いついていないことである。
太宰はその原因を、翁の生活のなかに、性格のなかに見出すことのできるこれらの鬼との同類性、つまり、きわめて逆説的にきこえるかもしれないが、人間的な弱さややさしさに帰して考えようとしている。
それは、たんに性格悲劇を描こうとしたいう以上に、昭和二十年という時点での、太宰のささやかないいわけであり、厭戦の情であったといえよう。
このような捉え方のなかに、<鬼とは何か>の答えのひとつが浮かんでくる側面がある。
 常行を、師輔を、あれほど畏れつつしませた百鬼夜行の鬼は、この<瘤取りの鬼ども>のなかにはいない。
ここには、集まって楽しむ一刻の愉楽によって心をのべ齢をのべるような庶民的な異形のものがある。
それは、まったく新しい鬼のイメージである。
これらはむしろ<隠れ里>に通じる雰囲気をもっており、そのゆえに隣家の左頰に瘤ある翁も、何らの危うさを感ずることもなく、「我その定(じょう)にして取らん」と、鬼との交わりに出向くのである。
このような鬼と人との交わりの成立には、ながい時間をかけて民衆の内側に棲みついた<畏れ>としての鬼とともに、日常のなかに空想しうるある種の<期待>に似た鬼の横顔がある。
それは、直接に福をもたらす鬼のイメージにはなお遠かったとしても、よこしまでない心を喜ぶ鬼のイメージ、苦しい民衆の労働に手をかしてくれるような鬼のイメージが求められていたことを示す説話のひとつである。
お伽話として「瘤取り爺さん」が今日に伝わる魅力の大半は、もちろん勧善懲悪の教訓などにあるはずはなく、語り手としてのおとなの心が、この鬼の酒宴の場に引きよせられるからである。
怪奇にして、しかもある和(やわ)らぎのなつかしさ嬉しさを漂わせる翁の舞の場面に、ふしぎな興奮を感じるとき、明るく解放的な鬼の笑いが、生活の側面を衝いて問いかけやまないのである。
太宰の「瘤取り」の一篇は、そうした長年代にわたってつづいた<瘤取りファン>としてのおとなの心が解明されたものといえよう。
爆撃下の防空壕のなかで、一人の文学者の心を支えた『宇治拾遺物語』の鬼は、今日また別な表情をもって<鬼>とは何なのかを考えさせてくれるのである。
(『鬼の研究』 馬場あき子 ちくま文庫 1988年)
 太宰治の「瘤取り」の前に前書きを転記します( ..)φ

お伽草紙 前書き

「あ、鳴つた。」
 と言つて、父はペンを置いて立ち上る。
警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。
既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)
 母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子がもう壕から出ませう、と主張しはじめる。
これをなだめる唯一の手段は絵本だ。
桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
 この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。
物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
 ムカシ ムカシノオ話ヨ
 などと、間(ま)の抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながら、その胸中には、またおのづから別個の物語が醞醸(うんじょう)せられてゐるのである。
 瘤取り

   ムカシ ムカシノオ話ヨ
   ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
   コブヲ モツテル オヂイサン


 このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。
といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。
もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。
この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられているし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遙などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。
私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払ったりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。
それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。
私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。
さうして、私の膝の上には、一冊の絵本をひろげられてゐるだけなのである。
私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。
いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。
などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙な人物は、
   ムカシ ムカシノオ話ヨ
 と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。
 このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。
酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。
孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。
とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。
と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。
お婆さんは健在である。
もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。
昔は、なかなかの美人であつたさうである。
若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だね。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
 お爺さんは浮かぬ顔になる。
…つづく…
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ヒヨドリがシダレヤナギに群がっていました。
一休みしているのではなく、咲き出したを食べているみたいでした。

3月
 ヒヨドリとの出会い


 そこで、都会にもいろいろな野鳥がすんでいるということを、最近都会の鳥に加わったヒヨドリの生活をとおして紹介してみましょう。
 私(柚木修)が野鳥観察をはじめたのは、小学校5年のときです。
そのころのノートを見ると、ヒヨドリは秋にやってきて、春になると山へ帰る〝漂鳥(ひょうちょう)〟だったことがわかります。
夏の間はヒヨドリを観察したという記録は書かれておらず、9月の終わりころになって、はじめてヒヨドリのことが登場しはじめるからです。
 じつはそのころ、ヒヨドリという種名を知りませんでした。
しかし、葉を落した校庭のプラタナスの梢で「ピーヨロロ、ピーヨロロ」とかん高い声で鳴く、スマートな鳥には気がついていました。
自分で勝手にピーヨ鳥と名づけていました。
 そして飛ぶときは、直線的な飛び方ではなく、はばたいては休み、はばたいては休む、波型の飛び方をすることに気がついていました。
しかし、いつもシルエットでしか見ることができないため、色や模様がわからず、図鑑を調べることもできません。
 ところがある日、校庭のアオキの実をついばむのに夢中なピーヨ鳥を間近かで見ることができたのです。
長く鋭いくちばし、ほおの栗色、体の色は灰色ですが全身に細かな斑紋(はんもん)がちりばめられているのが、印象に残りました。
尾が長いなとも感じました。
…つづく…
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)