2023年3月24日金曜日

昨日の雨で…

昨日の雨でスモモの花が一気に散っていました。
その一方、楽しみにしていた桜が咲いています。
2018年の台風21号で折れた枝に今年も咲いてくれました(^^)v

9月4日、近畿地方に暴風や高潮をもたらした台風21号について」(ウエザーニュース 2018年9月7日)
そして、いつ咲くかなと楽しみにしていたキランソウが咲いていました。

 キランソウ シソ科

このキランソウは切り傷から胃腸病までいろんな薬効があるといわれ、
そんなところから九州地方で「医者殺し」と呼ばれたり、
「地獄の釜のふた」(みなの病気を治してしまい、死んで地獄に行く人をなくしてしまう)との別名があったりもします。
(『花のおもしろフィールド図鑑(春)』 ピッキオ編著 実業之日本社 2001年)
3月24日 昭和7年(1932) 〔忌〕梶井基次郎(かじいもとじろう)( 32、小説家)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

 『のんきな患者

 昭和6年10月、実家に戻り、近くに家を借りた。
病気は重く、家族との同居も無理になっている。
母親が看病に通ってくれる。
 発熱と呼吸困難にみまわれながら梶井は書く。
死を賭して書く。
看病の母親とユーモラスな会話を交わす主人公の「のんきな患者」ぶりを書く。
目に入ってくる大阪下町の庶民の、迷信にすがってでも結核と闘う愚かだが懸命な姿を書く。
自分から世間へ、そして社会の客観的な認識へと主人公の視野が開けてゆく作品である。
(『新潮日本文学アルバム 27 梶井基次郎』新潮社 1985年)
 作品は「中央公論」昭和7年1月号に載った。
はじめて中央文壇誌に発表の場を得、原稿料をもらった。
直木三十五と正宗白鳥が新聞の時評でとりあげた。
「中央公論」2月号には、新進の小林秀雄が嘉村礒多とならべて、梶井基次郎を論じた。
 昭和7年2月、絶対安静の床で『のんきな患者』の続稿を考える。
友人たちが見舞いにくる。
 3月13日、日記。
「狂人ノヨウニ苦シム、スイミン不足、極度ノ疲労」
 3月23日、深夜、頓服を要求。
弟がやっとのことで求めてきた薬を飲む。
苦しむ基次郎を母親が諭した。
「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」合掌して、弟に無理をいったことを詫びた。
 午前2時、永眠。
(『新潮日本文学アルバム 27 梶井基次郎』新潮社 1985年)
ごんごろ鐘」つづき
 
 三月二十二日
 春休み第二日の今日、ごんごろ鐘がいよいよ「出征」することになつた。
 兎にたんぽぽをやつてゐると、用吉君が、今おろすところだよ、といつて来たので、遅れちやたいへんと、桑畑の中の近道を走つていつた。
四郎五郎さんの藪の横までかけて来ると、まだ三百米ほど走つたばかりなのに、あつくなつて来たので、上衣をぬいでしまつた。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
  尼寺へ来て見て、僕はびつくりした。
まるでお祭のときのやうな人出である。
いや、お祭のとき以上かも知れない。
お祭には若い者や子供はたくさん出て来るが、こんなに老人までおほぜい出て来はしないのだ。
杖にすがつた爺さん、あごが地につくくらゐ背がまがつて、ちやうど七面鳥のやうなかつかうの婆さん、自分では歩かれないので、息子の背におはれて来た老人もあつた。
かういふ人たちも、みなごんごろ鐘と、目に見えない糸で結ばれてゐるのだ。
僕はいまさら、この大きくもない鐘が、じつにたくさんの人の生活につながつてゐることに驚かされた。
 老人たちは、ごんごろ鐘に別れを惜しんでゐた。
「とうとう、ごんごろ鐘さまも行つてしまふだかや。」といつてゐる爺さんもあつた。
なんまみだぶ、なんまみだぶといひながら、ごんごろ鐘を拝んでゐる婆さんもあつた。
 鐘をおろすまえに、青年団長の吉彦さんが、とてもよいことを思ひついてくれた。
長年お友だちであつた鐘ともいよいよお別れだから、子供たちに思ふぞんぶんつかせよう、といふのであつた。
これをきいて僕たち村の子供は、わつと歓呼の声をあげた。
みなつきたいものばかりなので、吉彦さんはみんなを鐘楼の下に一列励行させた。
そして一人づつ石段をあがつてつくのだが、一人のつく数は三つにきめられた。
お菓子の配給のときのことをおもひ出して、僕はをかしかつた。
だが、ごんごろ鐘を最後に三つづつ鳴らせてもらふこの「配給」は、お菓子の配給以上にみんなに満足をあたへた。
 最後に吉彦さんがじぶんで、大きく大きく撞木を振つて、がオオんん、とついた。
わんわんわん、と長く余韻がつづいた。
すると吉彦さんが、
「西の谷も東の谷も、北の谷も南の谷も鳴るぞや。ほれ、あそこの村も、あそこの村も、鳴るぞや。」
と、謎のやうなことをいつた。
「ほんとだ、ほんとだ。」
と、樽屋の木之助爺さんと、ほか二三人の老人があひづちをうつた。
 僕は何のことやらわけが分からなかつたので、あとでお父さんにきいて見たら、お父さんはかう説明してくれた。
「ごんごろ鐘ができたのは、わたしのお祖父さんの若かつたじぶんで、わたしもまだ生まれてゐなかつた昔のことだが、その頃は村の人達はみなお金といふものを少ししか持つてゐなかつたので、村中がその僅かづつのお金を出しあつても、まだ鐘を一つつくるには足りなかつた。そこで西や東や南や北の谷に住んでゐる人たちやら、もつと遠くのあつちこつちの村まで合力(ごうりよく)してもらひにいつたんださうだ。合力といふのは、たすけてもらふことなのさ。さうしてやうやくできあがつた鐘だから、四方の谷の人や向かふの村々の人の心もこもつてゐるわけだ。だからごんごろ鐘をつくと、その谷や村の音もまじつてゐるやうに聞えるのだよ。」
…つづく…
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
今朝の父の一枚です(^^)/
カワラヒワを写していました。
父は、コンデジで野鳥を写すことを楽しみにしています。
一方、σ(^^;)はマクロレンズで草花や虫たちを写すことが多くなると思います。

第3章 里の桜
 枝垂れ


…前略…

 ところで、‘八重紅枝垂’は枝垂れ性をもったエドヒガンの八重咲きの栽培品種である。
樹高は高くても8メートルぐらいであまり大きく育たないことから、小さな庭園などでも植えることが可能で、人気がある。
この‘八重紅枝垂’の遺伝子を分析すると、純粋なエドヒガンであるとともに、いくつかある‘枝垂桜’の系統と近縁であることが示されている。
どうやら‘枝垂桜’の種子増殖を繰り返しているうちに偶然生まれた八重咲の突然変異ではないか、と想像される。
ところが、野生のエドヒガンには八重咲きのものは見つかっておらず、八重咲きの突然変異はきわめて稀ではないかと考えられる。
八重咲きの純粋なエドヒガンがあれば、それと‘枝垂桜’が交雑して生れたと考えられる。
しかし、そのようなサクラはないので、どのようにして‘八重紅枝垂’が生まれたのか、たいへん興味深い。
(『 桜 』勝木俊雄 岩波新書 2015年)