2023年3月22日水曜日

ひこうき雲が

今朝は、ひこうき雲が何本も青空をつらぬいていたので、明日は、下り坂かな?
天気予報では、近畿地方では20度を超えて「夏日」になるところがあるとか…(^^;
1943年(昭和18)3月22日、新美南吉は、
日本の敗戦を知らずに亡くなっています(新美南吉記念館
新美南吉の作品に「ごんごろ鐘」(昭和17年)があります。
読んでいると当時の日本の状況が伝わってきます。
大半の寺院が梵鐘供出-銘文 今に戦時伝え」(三重県 歴史の情報蔵)

母は、日本軍の飛行機が飛んできたと思って手を振ったら米軍の艦載機だった。
と言うのも朝礼で、校長先生が話されるのは
大本営発表の日本軍の勝利ばかりだったそうです。
父は、日本軍の飛行場を建設するためにかりだされていました。
代用燃料に「ヒマ(トウゴマ)」から種子から油をとったり
海から海藻を火薬の材料にするために集めていたそうです。

岸田首相がウクライナを訪問しましたが、ロシア国民は知らされていないでしょう。
 ごんごろ鐘

 三月八日
 お父さんが、夕方村会からかへつて来て、かうおつしやつた。
「ごんごろ鐘を献納することにきまつたよ。」
 お母さんをはじめ、うちぢゆうのものがびつくりした。
が、僕はあまり驚かなかつた。
僕たちの学校の門や鉄柵も、もうとつくに献納したのだから、尼寺のごんごろ鐘だつて、お国のために献納したつていいのだと思つてゐた。
でも小さかつた時からあの鐘に朝晩したしんで来たことを思へば、ちよつとさびしい気もする。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
 お母さんが、
「まあ、よく庵主(あんじゆ)さんがご承知なさつたね。」
とおつしやつた。
「ん、はじめのうちは、村の御先祖たちの信仰のこもつたものだからとか、ご本山のお許しがなければとかいつて、ぐづついてゐたけれど、けつきよく気まへよく献納することになつたよ。庵主だつて日本人に変りはないわけさ。」
 ところで、このごんごろ鐘を献納するとなると、僕はだいぶん書きとめておかねばならないことがあるのだ。
 第一、ごんごろ鐘といふ名前の由来だ。
樽屋の木之助爺さんの話では、この鐘をつくつた鐘師がひどいぜんそく持ちで、しよつちゆうのどをごろごろいはせてゐたので、それが鐘にもうつつて、この鐘を叩くと、ごオんのあとに、ごろごろといふ音がかすかに続く、それで誰といふとなく、ごんごろ鐘と呼ぶやうになつたのださうだ。
しかしこの話はどうも怪しい、と僕は思ふ。
人間のぜんそくが鐘にうつるといふところが変だ。
それなら、人間の腸チブスが鐘にうつるといふこともあるはずだし、人間のヂフテリアが鐘にうつるといふこともあるはずである。
それぢや鐘の病院も建たなければならないことになる。
 僕と松男君はいつだつたか、ろんよりしようこ、ごんごろ鐘がはたしてごんごろごろと鳴るかどうか試しにいつたことがある。
静かなときを僕たちは選んでいつた。
鐘楼(しゆろう)の下にあぢさゐが咲きさかつてゐる真昼どきだつた。
松男君が腕によりをかけて、あざやかに一つごオん、とついた。
そして二人は耳をすましてきいてゐたが、余韻(よいん)がわあんわあんと波のやうにくりかへしながら消えていつたばかりで、ぜんそく持ちの痰(たん)のやうな音はぜんぜんしなかつた。
そこで僕たちは、この鐘の健康状態はすこぶるよろしい、と診断したのだつた。
 また紋次郎君とこのお婆さんの話によると、この鐘を鋳(い)た人が、三河の国のごんごろうといふ鐘師だつたので、さう呼ばれるやうになつたんださうだ。
鐘のどこかに、その鐘師の名が彫りつけてあるさうな、と婆さんはいつた。
これは木之助爺さんの話よりよほどほんとうらしい。
 しかし僕は、大学にいつてゐる僕の兄さんの話が、いちばん信じられるのだ。
兄さんはかういつた。
「それはきつと、ごんごん鳴るので、はじめに誰かがごんごん鐘といつたのさ。ごんごんごんごん鐘といつてゐるうちに、誰かが言ひちがへてごんごろ鐘といつちまつたんだ。するとごんごろ鐘の方がごんごん鐘よりごろがいいので、とうとうごんごろ鐘になったのさ。」
 僕は小さかつたときには、ごんごろ鐘をずゐぶん大きいものと思つてゐた。
しかし国民六年にもうぢきならうといふ現在では、それほど大きいとは思はない。
直径が約七十糎(センチ)だから周囲は 70cm×3.14=219.8cm といふわけだ。
お父さんが奈良で見て来た鐘といふのは、直径が二米ぐらゐあつたさうだから、そんなのにくらべれば、ごんごろ鐘は鐘の赤ん坊にすぎない。
 しかし僕たち村のものにとつては、いつまでも忘れられない鐘だ。
なぜなら、尼寺の庭の鐘楼の下は、村の子どものたまりばだからだ。
僕たちが学校にあがらないじぶんは、毎日そこで遊んだのだ。
学校にあがつてからでも学校がひけたあとでは、たいていそこにあつまるのだ。
夕方、庵主さんが、もう鐘をついてもいいとおつしやるのをまつてゐて、僕らは撞木(しゆもく)を奪ひあつてついたのだ。
またごんごろ鐘は、僕たちの杉の実でつぱうや、草の実でつぱうのたまをどれだけうけて、そのたびにかすかな澄んだ音で僕達の耳をたのしませてくれたか知れない。
 おもへば、ごんごろ鐘についてのおもひでは、数かぎりがない。
…つづく…
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
今朝の父の一枚です(^^)/
アオジを写していました。
σ(^^;)もアオジを撮ったのだけど…

第3章 里の桜
 枝垂れ


 …前略…

 この変異は様々な樹種で見られることからわかるように、突然変異によってジベレリン合成の機能に異常が生じたものと考えられている。
したがって、枝垂れる性質をもつ個体から種子をとって増殖すると枝垂れる子どもが生まれる。
ただし、サクラの枝垂れ性は劣性遺伝をするようで、枝垂れる親から生まれた子どもがすべて枝垂れるわけではない。
自然界ではおそらく、こうした突然変異はときどき生じるものだが、枝垂れる形質をもつ個体は競争力が弱いために淘汰されることを繰り返していると思われる。
‘霧降桜’と‘枝垂大山桜’は野生で発見されたものであるが、エドヒガンの枝垂れるタイプは、残念ながら野生ではこれまで発見されていない。
平安時代より古い時代にたまたま見つかった個体から種子増殖され、その子孫が現在まで伝わっていると思われる。
…つづく…
(『 桜 』勝木俊雄 岩波新書 2015年)