2022年11月4日金曜日

青空だったけど

今朝も青空なんだけど、うろこ雲が広がっていました。

全国共通のことわざ―雲に関するもの―」(高松海上保安部)
国連 日本政府に“入管施設内の対応改善を” 勧告」(NHK)

委員会の担当者は「日本政府は外国人が不当な扱いを受けないよう、あらゆる適切な措置をとるべきだ」

日本は、外国人労働者を必要としていても
働かすだけ働かせたうえに使い捨てて
人権蹂躙を平気でしていると思われているかも
1964年の東京オリンピックについて
どなたが書かれた文章だと思いますか(^_-)-☆

開会式

 人間自身の祝典 
 

 優勝者のための国旗掲揚で国歌吹奏をとりやめようというブランデージ提案に私は賛成である。
 国が持っている原爆の数が金メダルの数に比例するような昨今のオリンピックでは、参加者のユニットを国家という形で考える限り政治性というものを完全に脱色する訳にはいくまい。
 ベルリンのオリンピック以来、オリンピックを「民族の祭典」と呼ぶ人もいるが、その呼称はまだ今日ではいろいろな誤謬を招きやすい。
(『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』 講談社文芸文庫 2014年)
 私は以前、日本人に希薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックは良き機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。
 民族意識も結構ではあるが、その以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希(のぞ)ましい。
 今日、我々の生活を見回して見て、どこに真の人間的感動が在るだろうか。
最も多くそれを供給すべき芸術にはほとんどその力がなく、我々が考えられるのものは単に情念的なさまざまのムードでしかない。
 現代にいたって、人間にとっては「行為」すらが枯渇してしまい、我々は真の行為を行うことも、目にすることもほとんど無くなってしまった。
 そうして傷をも、オリンピックこそ癒してくれる千載一遇の機会である。
我々がオリンピックに望む真のアマチュアリズムこそ、その渇きを癒す妙薬である。
 ただ一枚のメダルの償(あがな)いのために競われる灼熱の競技の内にこそ人間の真の行為があり、真の感動がある、人間の真の尊厳が保たれるはずである。
 スポーツは元々そうしたものである。
それを、悪く文明のさまざまな副産物が色に染め歪めてしまった。
 競技をながめる時、我々はその中に決して、民族の名誉、国家の名誉、思想の名誉などを掲げることはしまい。
 在るものは、それらの何にもかかわりなく、ただ一人の人間の名誉でしかない。
それは、余りに少なく、かつ余りに巨(おお)きなものであるがゆえに、ただ一枚のメダルでしか償えなものなのである。
 オリンピックにあるものは、国家や民族や政治、思想のドラマではなく、ただ、人間の劇でしかない。
 その劇から悟らなくてはならぬ真理は、人間は代償なき闘いのみにこそ争うべきであり、それのみが人間の闘いであるということである。
 その闘いこそ美しく、真に雄々しく荘厳である。
 競技場で、あるいはTVで、ラジオで、映画で、オリンピックの競技を目にする人々に私は提唱したい。
日本の選手がいかに闘うか、と言うことは決して第一の関心にはしまいと。
 そうした関心は結局、その競技に在る真の美しさ、真の雄々しさ、真の劇と言うものを在るがまま純粋な形でその胸に残させまいと思われる。
 我々はただ、自分と同じ人間が、いかに闘い合うか、と言うことを見守りたい。
そこにあるのは、日本の代表選手ではなく、ただ一人の人間なのである。
同様に、外国からやって来た選手も我々と同じ一人の人間である。
 民族とか国家とか、狭い関心で目をふさがれ、この祭典でなければ見ることの出来ぬ、外国人対外国人の白眉の一戦を見のがしてしまうことも最も愚かしいことと思う。
 たとえ日本選手の参加は無くとも、そうした世紀の一戦を見守ることで、我々はスポーツは何であるかと言うことを悟るはずである。
 いかなる勝者にも惜しむことなく拍手し、同時に、敗れ去るものの間にもなお、勝者にまさる人間の劇があることを見のがすまい。
 祭典の幕は切って落とされたのだ。
 今日人間の祭りはそのほとんどが形骸と化し神を見喪った我々は祝祭の中で心から吉寿(ことほ)ぐべき対象を喪ってしまった。
 オリンピックは、我々にとって最後に残された祝典に違いない。
そしてこの祭りの祭主は我々一人一人であり、そこで祭られるのも人間である。
この祭りにのみにおいて人間は自らを神に近い尊厳にまで高めることが出来るはずである。
そうなってこそ、この祭典は完全に行ない遂げられたはずであり、そのためにはすべての夾雑物を排して競技者、観客一人一人が裸に、ただ一人一人に人間に還(かえ)らねばならない。
  (10月11日、読売新聞)
(『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』 講談社文芸文庫 2014年)

筆者は石原慎太郎氏です。
彼の理念が今回のオリンピック・パラリンピックに活かされていたら
東京五輪汚職」(読売新聞)は起きなかったのだと思いますが…
今朝の父の一枚です(^^)/

 三つの名前を持つイチョウ 【鴨脚樹・銀杏・公孫樹】
 
 「紅葉」とは、葉が赤く色づくこと。
それに対して、葉が黄色く色づくものは「黄葉」。
黄葉が美しい樹木といえば、イチョウでしょう。
 そこで『広辞苑』の「いちょう」という項目をみましょう。
すると、そこには漢字での書き表し方として「鴨脚樹」「銀杏」「公孫樹」の三つが載っています。
どれも、イチョウの中国名に由来するものです。
 このうち、「鴨脚樹」というのは、あの葉っぱの形を、「鴨の脚」にたとえたものでしょう。
ユーモラスというか、リアルというか、中国人のセンスが光ります。
 「銀杏」については、16世紀の中国で書かれた『本草綱目(ほんぞうこうもく)』という植物事典に、「実が杏子(あんず)を小さくしたようで、中が白いからだ」という説明があります。
白いことを「銀」と表現しているのが、まぶしいですね。
 ちなみに、「ぎんなん」は、「銀杏」の音読み「ぎんあん」が変化したもの。
『広辞苑』では「イチョウの種子」と説明しています。
 最後の「公孫樹」については、『広辞苑』に「こうそんじゅ」という別の項目があって「イチョウの漢名」だとの説明。
「老木でないと実らず、孫の代に実る樹の意」と注意書きが添えられています。
孫が食べられるようにと願いながら、イチョウを植えたのでしょうか。
大家族制の中国伝統社会らいし命名です。
…後略…
(『漢字の植物苑 花の名前をたずねてみれば』 円満字二郎 岩波書店 2020年)
 午後から心臓リハビリでした。
来週、循環器科の診察があるので心電図をとってもらいました。
一度、不整脈を起こしていました。
ちなみに負荷は初めの10分を25ワット、中間の10分を30ワット、最後の10分は25ワットでした。
朝ドラ「舞いあがれ!」では190ワットを50分、180ワットを60分のレベルを要求されていましたね(*_*)
ペダルはビクとも動かないだろうなぁ…(-_-;)

帰るときには、空に雲が広がっていました。