2022年11月16日水曜日

雲が出てくると…

青空が見えていましたが、歩いているうちに雲がでてきて陽ざしをさえぎると冷たい風が吹いていきました。
風車の丘ではコスモスからビオラ・チューリップ・ネモフィラへの植え付けの準備が始まっています。
 「国際子ども平和賞 大阪の学校に通う17歳 川崎レナさん受賞」(関西NHK)

今回の受賞は、日本の若い人たちにとって重要な兆しです。
一人ひとりの声が届き、その価値が認められるまで、闘い続けるための力をもらいました

かっこいい大人になってください。
私たちに子どもらしく夢をもたせてください。
私たち日本の子どもはみんなが理想とする
かっこいい日本になってくれるのをずっと待っています


刺さるなぁ…

川崎レナさんが着物姿で登場する姿は喜びにあふれていたなぁ

京都 西陣で3年ぶりに着物のファッションショー」(京都NHK 11月13日)
 朝ドラ「舞いあがれ!」のTwitterに貴司君の歌が

星たちの光あつめて
見えてきたこの道をいく
明日の僕は


俵万智さんのTwitterに

結句の倒置が、いいなあ。
「僕は」って開かれて終わると、そこに無限の未来が感じられる。
  落葉焚くこころ煙に預けては  加藤耕子(こうこ)

 添え書きに「淡海 七句」とあるうちの一句。
淡海はアハウミの転、淡水湖の意で琵琶湖(びわこ)を指す。
芭蕉にゆかりの深い土地柄である。
そこを旅すれば、おのずと心にしのばれるのは芭蕉のことだろう。
「水すでに夕べの気配鴨鳴けば」「三代の松の朧(おぼろ)を冬の波」なども同じ旅の作。
 作者は俳句の国際交流のため諸外国へも出かける多忙な俳人だが、たき火の煙にこころをあずけるというのは大切な俳句の心なのだろう。
たとえば宗教儀礼においては煙が天と地を媒介するものとなる。
つまり神や霊的世界と人間やこの世とを結び、両者の交流、通信を可能にする。
これと類似の天へ向けての願望がこめられての落葉焚(た)きだろうか。
  1931~ 京都生まれ。「耕・Kō」創刊主宰。
  句集『尾張圖會』『春の雲』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』 村上護 新潮文庫 平成17年)
 宗教の重層化と内包化

 仏教も、キリスト教も、当初にはさまざまな宗教対立があったが、結局は日本社会に土着していった。
仏教も、キリスト教も、それぞれの時代の要請のなかで揺らぎながら、日本社会の宗教になっていった、と思う。
 もちろん、今日でも深刻な宗教対立があることは知っているが、概(おおむ)ね、日本人はそれぞれの宗教、宗教というより宗教文化を、自己の生活のなかに取り込んでいったのではないか、と思う。
東アジアや西欧においては対立軸にあるものも、日本においては奇妙に調和してしまうのである(上野誠『万葉集から古代を読みとく』筑摩書房、2017年)。
つまり、「重層」しながら残り、生活のなかにゆっくりと「内包」されてゆくのだ。
そういう見方は、楽観的すぎるだろうか。
(『教会と千歳飴 日本文化、知恵の想像力』上野誠 小学館 2021年)
 教会で七五三の祝いを考えた母

 以上のような宗教のありようを、「習合」といったり、「シンクレティズム」といったりするが、日本型の「習合」の特徴は、歴史的に受け入れたものが、住み分けしながら、社会に土着してゆく点にあると、と思う。
 たとえば、大日如来は天照大神(あまてらすおおみかみ)の化身である。
いや違う、逆だ、大日如来が天照大御神の化身なのだといった具合に、神仏が裏表の関係になってしまうのである。
さらには、日本の神々が、仏法を守る神々、すなわち護法神(ごほうじん)として位置づけられることもある。
 宗教、宗派というものは霊的なものの説明の体系なので、さまざまな説明が可能なのである。
ところが、この説明方法をめぐって、歴史的には対立したり、戦争になったりもするのである。
 日本社会は、この説明を融通無碍(ゆうずうむげ)に行なって、巧みに宗教、宗派間の対立を回避してきた歴史がある。
日本社会においては、いわば「何でも教」になってしまうのである。
 わが家の無節操「何でも教」が、地域社会に果たした役割りを、ここで一つ紹介しておこう。
 たぶん、母が教会の「お役」をしている時であったと思うが、母の提案で、教会でも「七五三」をしようということになった。
そこで、11月の土曜、日曜に「七五三」の礼拝を行なうようになった。
母は、神社にお参りに行った帰りに、教会にもお参りに来てもらえばよいくらいの考えで提案したのであろう。
ために、知り合いの飴屋さんに頼んで、教会で配布する千歳飴を作ってもらおうとしたのである。
 ところがだ。
袋のデザインに、はたと行き詰まってしまったのだ。
袋を作る業者さんは、教会の千歳飴の袋なんて誰もデザインしたことがないという。
そこで、飴屋さんに出入りする袋の業者さんと話し合い、マリア像となぜか朝陽をあしらった千歳飴の袋を作ってもらうことにした。
 当初、母たちは、神社から教会に回ってきてくれるかと不安であったらしいが、教会でも七五三をやっていることがわかると、多くの子供とその親たちが晴れ着でやって来てくれた。
それも、そのはずである。
子供たちにしてみれば、二袋目の飴が貰えるからである。
子供たちにせがまれては、親もかたなしで、11月の土日、教会はめずらしく千客万来とあいなった。
 先日、故郷の朝倉市に帰省した折、五十年を経た今も、その教会に七五三の飴が納品されていると知って驚いた。
今も、続いているのだろう(お母さん、笑い者にしてゴメン)。
(『教会と千歳飴 日本文化、知恵の想像力』上野誠 小学館 2021年)
 ■日本では七五三なども教会で祝うというのは本当?

 どこでも必ずというわけではないが、正教会、カトリック、プロテスタントを含む多くの日本の教会では伝統的な年中行事と関連した祝福式を行っている。
たとえば、成人の日前後には新成人の、敬老の日の前後には高齢者の、七五三の前後には子どものそれぞれ感謝祈禱や祝福式が行なわれる。
 なお、元日の1月1日にも何らかのプログラムを持つ教会が多い。
(『キリスト教の歳時記 知っておきたい教会の文化』八木谷涼子 講談社学術文庫 2016年)
 今朝の父の一枚です(^^)/

十一月(初冬)
 立冬から小雪のころ


…前略…

  てっぺんはかわくかわくと鵙の贄  小檜山繁子(こひやましげこ)

 高いところに自分の獲物を置き、わがテリトリーを誇示しているのかもしれません。
この鵙のキィーが聞こえると、母は「鵙の高鳴き七十五日」と言っていました。
「鵙の高い鳴き声を最初に聞いた日から七十五日すると寒くなります。
さあ、冬支度をはじめなさい」の合図だというのです。
家庭の裏方役であった祖母や母は、台所歳時記とでもいえるような自然暦を口伝(くでん)で暮らしのなかに活かしていましたので、私も幼いころからこの「鵙の高鳴き」を聞くたびに「ああ、冬がくるのだ」と察したものでした。
…後略…
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)