2022年11月18日金曜日

昼には…

朝は、ヒンヤリしていましたが青空が広がり気持ちよかったです。
見に行きたいけど…

和歌山城の石垣で 貴重なツメレンゲの花が咲く」(関西NHK 11月17日)
コロナ禍での子育ては大変だと思うのに…

泣いてもかましまへん!」(NHK)

東京大学名誉教授 汐見稔幸さんの話
欧米、特にヨーロッパではどんなに小さな子どもであっても1人の人間として扱います。
例えば、デンマークでは親が子どもに『これをしろ』『出かけるぞ』などと一方的に命令することはなく
ベビーカーで泣いている子どもにも『どうしたの?』『どうしたい?』と聞いていました。
そのため、子どもが泣いていたら周囲も1人の人間として向き合い応援したり見守ったりしても、
その親を責めるということはあまりありません


NHK NEWS おはよう日本で紹介されていたのが

赤ちゃん寝かしつけ “背中スイッチ”覆る 科学で導き出すコツ」(NHK 11月8日)
北朝鮮ICBM級ミサイル発射 北海道の西 EEZ内落下か」(NHK)
ミサイルを発射するたびに北朝鮮の人々は飢えに苦しむことになる。

弾道ミサイル飛来への備え」というメールが11月15日に届いているのだけど

弾道ミサイルが日本に飛来する可能性がある場合、国からの緊急情報を伝える「Jアラート」を活用して、防災行政無線のスピーカー等から国民保護サイレンとメッセージが流れます。
また、携帯電話やスマートフォンには緊急速報メール等が届きます。
もしも緊急情報を受信した場合には、落ち着いて、直ちに以下の行動を取ってください。
また、緊急一時避難施設をあらかじめご確認ください。
【屋外にいる場合】
〇近くの建物の中(できれば頑丈な建物)または地下へ避難してください。
〇近くに建物が無い場合は、物陰に身を隠すか、地面に伏せて頭部を守ってください。
【屋内にいる場合】
〇窓から離れるか、窓がない部屋へ移動してください。


とのことですが、原発を攻撃されたら、その時は、助かっても、
その後、どうやって生き延びるのかな?
医療現場は混乱し、今飲んでいる薬は手に入らなくなるだろう。
昨日まで上野誠さんの『教会と千歳飴』から「何でも教」を紹介しました。
私も特定の宗教に入っていません。
それでも神社やお寺を巡るのが好きです。
神社やお寺にお参りした時には、ただ黙って手を合わせるだけです。
お参りできただけでありがたいなと思いますし、
一度お参りに来ただけで願い事をするのは厚かましいなと…(^^ゞ
 おわりに

 19世紀ドイツロマン派の詩人の一人ノヴァリスは15篇に及ぶ宗教歌を作っている。
その中に、つぎのような作品がある。

  マリヤよ、わたしは無数の画の中に
  美しく画かれているあなたを見ます
  けれどもその画のどれ一つとして
  わたしの魂が見つめているほどには
  あなたを画き得ていない

  この世界の喧騒が
  夢と消え去って
  以来名づけがたい甘美な天だけが
  つねに情感の中に
  在るということをわたしは知っています

 この詩は、どんな絵画彫刻であろうと、わたしの魂が見ているマリヤに及ばないという意味に解釈されやすい。
ノヴァリスにとって「名づけがたい甘美な天」とは、マリヤの墓を訪ねたあの聖トマスと同じようにただそこに清々しい花の香りをきいたと同じ想いなのである。
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年)
 ビザンチンのイコン、ロマネスク、ゴチック、バロック等々、さまざまの時代さまざまの土地で芸術家たちが心魂を傾けてマリヤを画いてきた。
しかし何を歌い、何を画こうとも、ノヴァリスと同じようにいつもマリアを想っている以上には画いていないことをだれもが感ずる。
多くのマリヤのミサ曲を作ってデュフェ(1474年歿)、グノーの「アヴェ・マリヤ」やスコットの「湖上の乙女」の祈りに作曲したシューベルトをはじめ、マリヤの讃歌に創作欲を燃やさなかった作曲家はいないであろう。
これほど詩や歌に歌われ、造型に表現されながら、しかもまだ一つも画ききっていないとしたら、マリヤとは一体いかなる存在であろうか。
 神の崇高性は人間のいかなる表現力をもってしても、天地のいかなる形態をもってしてもあらわし得ないことを前提としている。
しかし反面、有限であるにもかかわらず人間が真摯に表現しつづけてきたものは、どのような作品であれ、聖なるものを宿しているということも真実である。
マリヤに出合おうとした人は、ノヴァリスと同じように名づけがたい天の霊気を呼吸することができたはずである。
 マリヤはどのような存在であるのか。
これにたいして本書は答えようと試みてきた。
マリヤについてどのような解釈や立場があるにせよ、幾百万という人々の魂の中に宿った女性であることは間違いない。
敬虔な心の持主の中で絶えず信じられ生きてきた存在である。
 神の子キリストが天から下って人の子として宿ったのとは対蹠(たいしょ)的に、マリヤの存在性は大地から泉が湧くように、到るところから憧(あこが)れ願われ、求められてきた。
キリスト教文化、ヨーロッパにおいては、到るところ、いろいろな時機に、マリヤ現象ともいうべき現象が生じては人間や歴史を動かしてきた。
いわば下から盛り上がるように、多くの人々の声としてエルサレム神殿の義人シメオンのいうごとく「多くの人々の想いがあらわれるために」マリヤは神と人間の接点に立っているのである。
 マリヤ崇拝はカトリックが定めたもののように見えるが、実際は下からの流れであった。
1950年教皇ピウス12世のとき、マリヤは生ける身体のまま魂とともに昇天したことが、公けに認められた。
しかし、マリヤの昇天のことは、中世以来信じられてきたことで、それがようやく追認されたにすぎない。
 これに似た現象は仏教でいえば、観音信仰であるかもしれない。
観世音菩薩はわずかな経典(法華経普門品<ふもんぼん>第二十五)を拠り所としているにすぎないが、観音信仰は燎原(りょうげん)の火の燃えるように民間に広がっていった。
時代の精神が待望していたのである。
経典では観音は善男子であるが、それを無視して女性的・母性的なやさしさを示す存在ともなっていった。
これはだれか高僧が教えをすすめたとか、堂上の人々が帰依(きえ)したためということではない。
強いて日本に、下から湧き上がって広がった母神的なものをあげるとすれば観音信仰である。
 世にマリヤ観音といわれるものがあちこちに残っている。
隠れ切支丹が観音と呼んで、実はマリヤを崇拝していたのか、マリヤ観音という全く新しい次元で拝んでいたのか、これを信じた人々がどのような心持ちでこれに向かい合ったかは明らかでない以上、今この問題に立ち入ることを避けたい。
ただマリヤと観音の親近性を語る一つのよき例証とはなろう。
 聖母マリヤ像を通じてキリスト教はもとより、ヨーロッパ文化において女性像はしだいにその価値と品位を高めてきた。
中世のミンネザングやマリヤ讃歌もその一つであるが、それとならんで重要なことは、宗教倫理の中において占める女性的なものの意味が、マリヤや聖女たちにより、さらに奉仕と献身をつくした社会事業にたずさわる人々により、より一層明らかにされていった点である。
愛によって結びつくことの意味がしだいに振幅を増大させた。
キリスト教が拡大した理由の一つに夫婦倫理の確立もその力少なしとしない。
ローマの婦人たちの帰依・入信はその一例である。
教皇パウロ6世は「人間の完全性へ到達すべき途上で、マリヤ崇拝は人間にたいし力強い助力を与えてきた」(「マリヤリス・クルトス」)と述べている。
 マリヤは長い人間の過去の歴史を集約しながら、暗黒と激動のさ中でも人間と文化の理念のなかに生きつづけ、人間に慰めと励ましを与えてきた。
愛や信仰の情熱を生み出す原動力となってきた。
愛そのものを包容し、暴虐や無知のいたましさを浄化し、愛そのものへ変様する力となった。
聖母マリヤは多くの未知数をいまも持っている。
人類が実現すべき人格的な多くの価値を今後とも自覚させる力となっていくであろう。
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年)
今朝の父の一枚です(^^)/

紅葉(もみじ)
○長居の客を帰すには、その客の下駄を吹きつつ、「いざさらば竜田の山の薄モミジ人の心にあきの来ぬ間に」と唱える(奈良)。
(『日本俗信辞典 植物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 令和2年)

京都と違うまじないがあるのですね(^_-)-☆
午後から心臓リハビリ。
行き帰りとも車の窓を開けていました。
心臓リハビリが始まるまで読んでいたのが

◇はじめに
 …前略…
 私は特別に信仰心が厚い訳ではありません。
定年退職、転職、還暦を期に仏教系の正眼短期大学に入学し「禅」を学ぼうと思ったのは、本来の「私」を知るために、忘れていた人生の宿題(自分は何者なのだ、何をして老後を過ごすのか)を探すための手段を「禅」を通して求めようとしたことです。
…後略…
(『お地蔵様にすがる旅 化粧地蔵の謎を追って』小椋敏孝 風媒社 2022年)

私も定年退職をした後は、聴講生になって講義を聞きたいと思っていました。
でも、難聴になって話を聞き取れないだろうし、体調不良で毎回講義に参加できないだろうと諦めました。