2022年11月27日日曜日

気持ちのいい朝

今朝は、気持のいい朝でした。
でも、もうじき師走寒波がやってくる…
NHKニュース おはよう日本」の気象解説で
太平洋の海水温が日本の東や南は平年と比べて高くなっているのに対して
太平洋の東の赤道上の海域では、平年と比べて低く、ラニーニャ現象が発生しているそうです。
なぜ、ラニーニャ現象が発生すると日本の冬が寒くなるのかを解説されていました。

エルニーニョ/ラニーニャ現象とは」(気象庁)
渡邉英徳さんのTwitterに

127年前の今日。
1895年11月27日、
アルフレッド・ノーベルが遺言書に署名
「ノーベル賞」の起源となった。
「私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と書かれている。
1895年の出来事について

1895(明治28)年5月5日 エルンスト・マッハ、ウィーン大学に新設された「帰納科学の歴史と理論」(今でいう科学史科学哲学)講座に招聘される。
1838年、モラヴィアのキルリッツ(現チェコ領)で生まれた彼は、ウィーン大学で数学と物理学を学び、1861年に物理学で教授資格を取り、1864年にグラーツ大学の数学・物理学教授に、1867年から1895年までプラハ大学の実験物理学の教授を務めた。
この間に公刊された代表的な著作は『力学史』(1883年)、『感覚の分析』(1886年)、『通俗科学講義』(1894年)などがあり、ウィーンへ移り住んでからも『熱学の諸原理』(1896年)、『認識と誤謬』(1905年)などを刊行している。
「流体の速度とその流体のなかを伝わる音波の速度の比」であるマッハ数は彼の名前に由来する。
マッハは、当時盛んだった一元論(モニズム)的科学哲学のの代表者と見なされ、チューリヒのリヒャルト・アヴェナリウス(1843~1896)とともに、経験批判論の論客としてウィーンの学問の指導的地位を占めていた。
(『年表で読む二十世紀思想史』矢代梓 講談社 1999年)
レーニンの『唯物論と経験批判論』の批判により、マルクス主義の側から不当に無視されていたが、アインシュタインの相対性理論がマッハの思考に示唆を受けたことやウィーン学団の論理実証主義への影響などが明らかになり、再評価が進みつつある。
また、作家のローベルト・ムージルがベルリン大学の実験心理学の教授カール・シュトゥンプに提出した博士論文の題名が「マッハ理論の価値評価への寄与」だったことでも、作家ヘルマン・ブロッホの『夢遊の人々』(1932年)にもマッハの思考が濃く影を落としていることからも、マッハ哲学のウィーンでの巨大な影響力がうかがえる。
マッハは1898年に卒中に襲われ、半身不随で講義ができなくなり、1901年に大学を辞めて、1916年にミュンヘン郊外のハールで死去した。
…後略…
(『年表で読む二十世紀思想史』矢代梓 講談社 1999年)
 「さざん花」つづき

 ある日娘が「お父さま、お父さま、島村さんではね、前の赤ちゃんが帰って来たんですって――ほんとう?」と部屋にはいって来ながら言って私の前に坐(すわ)った。
「そんなことはない。」とっさに私は反撥(はんぱつ)した。
「そう?」
 娘は勢いの抜けた顔をした。
がっかりしたとは見えない。
せきこんで戻(もど)ったので一息したのらしい。
しかし私はちょっと迷った。
うっかり否定してしまったが、それでよかったのか。
「また島村さんの赤ちゃんを見に行ってたの?」と私はおだやかに言った。
娘はうなずいた。
「そんなに可愛(かわい)い赤ちゃんか。」
「可愛いかどうかはまだよく分からないわ、生まれたばかりですもの。」
「そう?」
(『掌の小説』川端康成 新潮文庫 平成23年改版)
「芳子(よしこ)が赤ちゃんを見てるところへ小母(おば)さまがいらしてね、芳子さん、この子前の子が帰って来たのよっておっしゃるのよ。――小母さま、前に赤ちゃんがお出来になったでしょう。その子のことでしょう?」
「そうだね。」と今度はあいまいに答えたが、やはり否定に傾いた。
「小母さまはそういう気持がなさるんだろう。しかしそんなことどうして分かる? 前の子は男か女か分からんじゃないか、生れなかったからね。」
「そうね。」あっさりうなずいた。
私はなにか心に残ったが、娘はさほど心にかけていないらしいので、この話はこれですんだ。
六月(むつき)ほどの流産だったからあるいは男女の別も知れていたかもしれないと私は気がついたけれども、もうこの話はやめにした。
 ところが、島村さんでは夫婦とも前の子供が帰って来たと言っているということが、やがて隣組の話題として私の耳にはいった。
 健康とは思えないので私は娘に否定したのだったが、考えてみるとそう不健康なわけではない。
昔は病的な感情でなく通用していた。
現代でも絶滅したとは言えない。
前の子供が生れ変って来たということに島村夫婦は他人にうかがえぬ実感と確信とがあるのかもしれなかった。
感傷に過ぎないとしても、島村夫婦の場合には非常な慰めとなり喜びとなっているのは疑えなかった。
 前の子供は出征中の島村が部隊の移動の際に帰った三日間の休暇に妊娠した。
夫に留守中に流産した。
そして復員後一年余で今度の子供が生まれたのだった。
前の子供を失ったのにはそういう両親の悲しみも悔いもあった。
 前の子のことを私も娘も「その子」などと実在の人物のように言ったが、世間は無論一個の人間とは認めない。
その子がいたかのように後まで話をするのも島村夫婦だけだろう。
その子は生ある人であったのか、私はなんとも言えない。
それは母胎のなかにいただけだ。
この世の光に触れなかった。
心というようなものは持たなかったかもしれぬ。
しかし私達と五十歩百歩だろうし、あるいは最純粋で最幸福な生であったと言えるかもしれない。
少なくとも生きようとするなにものかはそれに宿っていた。
 前の子と今度の子とが同じ卵とは無論認められない。
しかし前の流産と後の妊娠との生理的なまたは心理的な関係すら私達は正確に知りようがない。
ましていつどこからなにが来て受胎となるのか、その生きようとするものは全くつかめない。
前の子の生と後の子の生とはおのおの独立して別のものなのか、すべてを包合する一つの生なのか分からないとも言えそうである。
前の子供、つまり死人が生れ変って来るなどというのは非科学的だと知識で推量しているに過ぎない。
生れ変りという根拠はあるまいが、生れ変りでないという証拠もむずかしいかもしれなかった。
 私はいくらか島村夫婦に同情を覚えると、これまでほとんど無関心だった流産の子にもなにかしら同情が湧(わ)いて来た。
生きていた人かのように思えて来るのだった。
…つづく…
(『掌の小説』川端康成 新潮文庫 平成23年改版)
今朝の父の一枚です(^^)/
セキレイについて転記しますが、「●●」の項は、
手元にある辞書には載っていませんでしたし、IMEパッドでも表記できませんでした。

キセキレイ 黄鶺鴒
セキレイ科セキレイ属
全長:20㎝
時期:留鳥
尾羽を上下に振り、イザナギ、イザナミに性交を指南する「嫁ぎ教え鳥」。

 セキレイの古称は「にはくなぶり」「まなばしら」「とつぎおしえとり」など。
 『和名抄(わみょうしょう)』の「●(即+鳥)●(令+鳥)」の項には「積霊(せきれい)の二音。あるいは鶺鴒と作る。和名は爾波久奈布里(にはくなふり)、日本書紀には止豆木乎之閉止里……」とある。
 『日本書紀』神代上、イザナギの尊(みこと)とイザナミの尊の二柱の神の「国生み」の項、一書(第五)には「……ついに合交せむとす。しかし、その術を知らず。その時、鶺鴒飛来し、その首尾(かしらお)を揺す。二の神、これを見習い、交(とつぎ)の道を知る」と記されている。
これから「嫁ぎ教え鳥」といわれる。
 キセキレイは胸腹部、腰の黄色による名。
英名は背中の灰色による(Grey Wagtail )。
ツメナガセキレイ(M.flava )は長めの爪による名。
英名は Yellow wagtail。
胸腹部の黄色による名。
 セキレイという名は、漢字の鶺鴒を音読みしたもの。
中国の鳥類学でも鶺鴒科と書く。
一般にセキレイ類と呼ばれる鳥は、スマートで尾が長く、腰と尾を上下に軽快に振る習性がある。
(『野鳥の名前 名前の由来と語源』文:安部直哉、写真:叶内拓哉 ヤマケイ文庫 2019年)