朝よりも午後からの方が寒く感じましたね (>_<)
気温よりも風が体温を奪うのでしょうね…
気温よりも風が体温を奪うのでしょうね…
巻第五 秋歌下 264
寛平御時后宮歌合の歌 よみ人知らず
散らねどもかねてぞ惜しきもみぢ葉は今は限りの色と見つれば
寛平御時后宮歌合の歌 よみ人知らず
散らねどもかねてぞ惜しきもみぢ葉は今は限りの色と見つれば
寛平御時后宮(くわんぴやうのおほむとききさいのみやの)歌合の歌
まだ散らないけれども、散る前からもう惜しまれてならない。
このもみぢ葉は今にも散りそうな気配に見えるので。
(『古今和歌集』小町谷照彦 旺文社文庫 1982年)
まだ散らないけれども、散る前からもう惜しまれてならない。
このもみぢ葉は今にも散りそうな気配に見えるので。
(『古今和歌集』小町谷照彦 旺文社文庫 1982年)
老(おい)の名の有共(ありとも)しらで四十(しじふ)から
葛飾北斎のように90歳という長寿の人もいました。
一方、松尾芭蕉は51歳で亡くなっています。
今憂(う)きに 思ひくらべて古(いにし)への せめても秋の暮もがな
恋し昔や 立ちも返らぬ老(お)いの波 いただく雪の真白髪(ましろが)の
長き命ぞ恨(うら)みなる 長き命ぞ恨みなる
恋し昔や 立ちも返らぬ老(お)いの波 いただく雪の真白髪(ましろが)の
長き命ぞ恨(うら)みなる 長き命ぞ恨みなる
◇もと田楽能謡の一説か。
番外謡曲「西行西住(さいぎょうさいじゅう)」(廃曲)の一節でもある(吾郷氏)。
年老いた白髪の現在を冬に見立て、壮年期を秋として、
せめて晩秋の時期までも戻るすべはないものかと、老いの嘆きを歌ったもの。
番外謡曲「西行西住(さいぎょうさいじゅう)」(廃曲)の一節でもある(吾郷氏)。
年老いた白髪の現在を冬に見立て、壮年期を秋として、
せめて晩秋の時期までも戻るすべはないものかと、老いの嘆きを歌ったもの。
(略)
「今の辛(つら)さに比べて、過ぎた昔が懐かしい。春とはいわぬ、
せめて秋の暮れにでも戻るすべはないものか。
恋しい昔よ。立ち返ることもなく、寄せるばかりの老いの波よ。
頭(かしら)の雪のような白髪のままに、なまじ生き永らえたこの命がただもう恨めしい。」
(『新訂 閑吟集』)
せめて秋の暮れにでも戻るすべはないものか。
恋しい昔よ。立ち返ることもなく、寄せるばかりの老いの波よ。
頭(かしら)の雪のような白髪のままに、なまじ生き永らえたこの命がただもう恨めしい。」
(『新訂 閑吟集』)
見上げるとなんか龍がうねうねと飛んで行くように見えました(^_-)
いろいろなときにあなたを思うだろう庭には秋の花が来ている 永田 紅
■最後のひと月
母が亡くなってひと月が過ぎた。
何かと慌ただしく過ごしてきたが、自宅介護に入ってから亡くなるまでのひと月あまりの日々と比べると、
時間の濃さはこんなにも違うものかと改めて思う。
「来年のお正月は」「コスモスの咲くころは」という問いに、
お医者さんが難しい顔をされたと母が言ったのは、六月の半ばごろだったか。
「紅ちゃんどうしよう。来年のお正月にもう私いないかもしれない。半年前なんて、この間のことよ」
本当に、ひと月、ふた月、と聞いて、その長さを過去に巻き戻してみるとき、ひと月なんてあっという間のことである。
先にそれだけの時間しかないと誰も実感することはできな。
本人も家族も、いくらそう聞いて覚悟をしようとしてもやはり実感はできない。
そういうものだろうし、そうでなくては生きていけない。
今年の夏は悲しいものであったけれど、母の傍で過ごせたことは思いのほか穏やかな安心をもたらしてくれた。
洗濯をし、何か食べられそうなものを考え、薬の準備をし、
お医者さんや看護師さんが往診に来て下さるのを待ち、郵便物を取り込み、糠床(ぬかどこ)をかき混ぜ、点滴を止める。
母の傍で、母がお母さんとして続けてきた日々の雑事をこなしていると、少しは母の気持ちに近づいたかもしれない。
布団を干してふかふかにしておこうとか、食事の栄養を考えたりしながら、帰ってくる人を待ち、台所のテーブルで自分の原稿を書く。
母が繰り返し歌に詠んでいた寂しさも、竹やぶに囲まれた家に夕暮れどき一人でいて、
多忙な家族を待つ不安な時間も、ああそうだったのかとわかる気がした。
化学療法で髪が抜けてからはとくに、私が髪をきれいにしているように気にかけた。
母は六十を過ぎても白髪のない美しい髪をしていて、おそろしく形のいい指と爪をもっていた。
それらが抗癌剤で損なわれたことを残念に思う。
私はなるべく母の好きな花柄の服やワンピースを着るようにして、母も喜んでくれた。
一日一日を大切に、という言葉はよく聞いてきた。
その実体がどういうことであるのか、実は今もよくわからないけれど、最後のひと月を母の近くで過ごせたことが有り難かった。
もっと、時間はあると思っていたのだけれど。
これからの人生で何度も、母がいてくれたら、と思う場面があるのだろう。 (22.9.18)
(『家族の歌 河野裕子の死を見つめた344日』)
母が亡くなってひと月が過ぎた。
何かと慌ただしく過ごしてきたが、自宅介護に入ってから亡くなるまでのひと月あまりの日々と比べると、
時間の濃さはこんなにも違うものかと改めて思う。
「来年のお正月は」「コスモスの咲くころは」という問いに、
お医者さんが難しい顔をされたと母が言ったのは、六月の半ばごろだったか。
「紅ちゃんどうしよう。来年のお正月にもう私いないかもしれない。半年前なんて、この間のことよ」
本当に、ひと月、ふた月、と聞いて、その長さを過去に巻き戻してみるとき、ひと月なんてあっという間のことである。
先にそれだけの時間しかないと誰も実感することはできな。
本人も家族も、いくらそう聞いて覚悟をしようとしてもやはり実感はできない。
そういうものだろうし、そうでなくては生きていけない。
今年の夏は悲しいものであったけれど、母の傍で過ごせたことは思いのほか穏やかな安心をもたらしてくれた。
洗濯をし、何か食べられそうなものを考え、薬の準備をし、
お医者さんや看護師さんが往診に来て下さるのを待ち、郵便物を取り込み、糠床(ぬかどこ)をかき混ぜ、点滴を止める。
母の傍で、母がお母さんとして続けてきた日々の雑事をこなしていると、少しは母の気持ちに近づいたかもしれない。
布団を干してふかふかにしておこうとか、食事の栄養を考えたりしながら、帰ってくる人を待ち、台所のテーブルで自分の原稿を書く。
母が繰り返し歌に詠んでいた寂しさも、竹やぶに囲まれた家に夕暮れどき一人でいて、
多忙な家族を待つ不安な時間も、ああそうだったのかとわかる気がした。
化学療法で髪が抜けてからはとくに、私が髪をきれいにしているように気にかけた。
母は六十を過ぎても白髪のない美しい髪をしていて、おそろしく形のいい指と爪をもっていた。
それらが抗癌剤で損なわれたことを残念に思う。
私はなるべく母の好きな花柄の服やワンピースを着るようにして、母も喜んでくれた。
一日一日を大切に、という言葉はよく聞いてきた。
その実体がどういうことであるのか、実は今もよくわからないけれど、最後のひと月を母の近くで過ごせたことが有り難かった。
もっと、時間はあると思っていたのだけれど。
これからの人生で何度も、母がいてくれたら、と思う場面があるのだろう。 (22.9.18)
(『家族の歌 河野裕子の死を見つめた344日』)
父が選んだ今日の一枚(^-^)
雲の形が故郷の奄美群島に見えたそうです。
雲の形が故郷の奄美群島に見えたそうです。
天皇皇后両陛下が奄美群島を訪問されたのでなおさらだと思います。
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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m