2017年10月3日火曜日

変わりやすい天気…

天気予報では曇り時々雨でしたので散歩に出かけました。
クヌギのどんぐりができるまで」(動画)

 定家は12世紀の後半、平安時代も末になる応保2年(1162)、藤原俊成の子として生まれた。
俊成は当時顕広と名乗っており、49歳で、右京大夫正四位下の官位にあった。
母は美福門院(鳥羽院の妃藤原得子)に仕え、女房名を加賀といった女性である。
この夫妻の間には既に一人の男子、六人の女子が生まれている。
定家は末に近い子であった。
それだけに彼は両親の鍾愛(しょうあい)の的だったのである。
 定家もまたこの両親を敬慕すること篤かったが、とくに母への愛慕の念は格別深いものがあった。
そのことは建久4年(1193)2月13日の母の死に際して、母を同じくする藤原隆信(加賀の前夫為経の子)を羨望させるほどであった。
そしてまたそのような思いは、

  たまゆらの露もなみだもとゞまらずなき人こふるやどの秋風

という定家自身のその年秋の悲しみの歌にも結晶しているのである。
(『藤原定家全歌集 下』P515)
 巻第八 哀傷歌 788
   母身まかりける秋、野分(のわき)しける日、
   もと住み侍りける所にまかりて
              定家朝臣
 たまゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風

ほんのしばしの間も、露も涙もとどまることなく散るよ。
なき母を恋しく偲んでいる家の庭に秋風が吹きつけて。
もと住み侍りける所 拾遺愚草によれば、父俊成の五条の家。
▽父俊成の長秋草によれば、「七月九日、秋風荒く吹き、雨そそきける日」定家が帰る際書き置いた歌。
俊成は「秋になり風の涼しくかはるにも涙の露ぞしのに散りける」と返歌した。
(『新古今和歌集<上>』)
クサギの雄しべが手を合わせて、出迎えてくれているみたい(*´∀`*)
犬つれて稲見に出れば露の玉  鬼 貫
(『ふるさと大歳時記5 近畿ふるさと大歳時記』)
  人のかへりごとに
玉の緒(を)をみるにはかなき蜘蛛(ささがに)のいかで暫(しば)しもかき通(かよ)はばや

一首の意、人の命をみるといかにもはかないものに思われます、
ついてはどうかして生きている暫しの間でも文を書き通わしたいものです。
蜘蛛の」は「いかで」の枕詞であるが、前句を受けて、「はかなき蜘蛛のい(網)」とつづく気味合いのもの。
かき」に「書き」と「搔き」(「蜘蛛」の縁語)をかけた。
この前後、内侍の死に関連する歌と見られる。
(『和泉式部集・和泉式部続集』)
 巻第八 1579  文(ふみ)ノ馬養(うまかい)の歌
朝戸開(あ)けて物思ふ時に、白露の置ける秋萩、見えつつ、もとな

朝の戸を開けて、物思いに沈んでいる時分に、自然と目に、露の置いている萩が映って来勝ちなのも、何だか心もとない。(傑作。)
(『口訳万葉集(中)』)
ヒガンバナは萎れてしまったけど、ショウキズイセンは元気です(^。^)
 (略)
平安時代になると
はかなきは我が身なりけりあさがほのあしたの露のおきてみてまし  和泉式部>のように、
露と同様にはかないもののシンボルとして詠まれるようになる。
「翌朝再び朝顔の花の露を見られるかしら」と詠んだこの歌の朝顔は、現在と同種のものと見てよいだろう。
(略)
(『岩波現代短歌辞典』)
咲き残ったバラの赤さである
(『山頭火著作集Ⅰ あの山越えて』大山澄太編/潮文社 昭和47年)
 昨日からの雨で涼しいかなと思ったら、蒸し暑かったです(^0^;)
そのためかな?蝸牛に出会えました。

でゝ虫の捨家(すていへ)いくつ秋の風
(『新訂 一茶俳句集』)

○ ○ ○ ○

午後から心臓リハビリですp(^-^)q
朝は、小雨が降るほどの天気だったのに午後からはカンカン照り(゜o゜;)
いつものようにセラバンドで筋トレをしたあとトレッドミルで30分間の歩行でした。
歩行距離は、2.14km。消費カロリーは129kcalでした。
土曜日から体調が悪かったので少し不安でしたが
気持ちいい汗をかくことができました(^-^)

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