2017年10月21日土曜日

明日は歩けそうもないので…

クサギ(クマツヅラ科)の花がみんなと別れるのを淋しがっていました(^-^)

雨降りは訪れる人が少ないコスモス畑。

    へんろ宿
お客もあつたりなかつたりコスモス枯れがれ

(枯れ「がれ」はくの字点)
(『山頭火 一草庵日記・随筆』)
今朝も雨が降っていましたが、父が歩きたそうにしていたのでやって来ました。
母の好きなバラ園。
 わが吐きし息の熱さよ白薔薇
(『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』
         川村蘭太 新潮社 2011年)
雨降りは遊びに行けないボクの長ぐつ
(『ずぶぬれて犬ころ』住宅顕信 中央公論新社 2002年)
今朝も寒いです。
父が着てきたのは母のウィンドブレーカー(o^^o)
無花果はいまだに熟れず少年の日もこの翳(かげ)にひとを恋ひゐし  村上一郎
(『昭和萬葉集 巻五 大陸の戦火 15年~16年』講談社 昭和54年)
     閑中草花
あとたえて風だにとはぬ萩の枝(え)に身をしる露はきゆる日もなし

人の通う跡も絶えて風ですら訪れない萩の枝に、わが身の不幸を思い知っている涙の露は、消える日とてない。
▽世間から忘れられたわび人を歌う。
(『藤原定家全歌集 上』)
   初秋や居所かゆるかたつぶり  史 興

 蝸牛の存在は梅雨頃を全盛期として、赫々(かくかく)たる炎天下には閑却されがちになる。
盛夏といえども雨が降続けば、自ら時を得るわけであるが、百虫活動の夏は蝸牛に取ってはむしろ影の薄い季節でなければならぬ。
 「居所かゆる」というのは、今まで此処(ここ)にいたものが何処へ行ったというほど、はっきりした動作ではあるまい。
天地に充つる新秋の気が、蝸牛のような微物の上にも或衝動を与えて、居所を替えしむるに至ったというのであろう。
即ち「日盛や所替へたる昼寐犬」というような、現金なふるまいではない。
もう少し天地自然の大きな歩みに触れた動きである。
 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども」という。
見えざる秋の現れは、ひとり風の音のみには限らない。
殻を負うた漂泊者蝸牛先生も、何者かをその身に感じて居を移す。
そこに目をとめたのがこの句の眼目であり、俳諧らしい興味でもある。
(『古句を観る』)
さればこそ賢者は富(とま)ず敗荷(やれはちす)

・敗荷(秋) 葉の傷んだ蓮。
▼やっぱり賢者は富貴から遠い。
花の君子といわれる蓮の、葉もボロボロに傷んだ無惨な末路を見れば、確かにそう思う。
(『蕪村全集 第一巻 発句』)
 人の手(て)を うるさくからで 吾が秋を 岩ねに尽くす 山の辺(べ)のきく

①②自然の姿をいう。 ④尽くす―咲き尽くす。
(『橘曙覧全歌集』)

橘曙覧(たちばなのあけみ)は野菊を愛していたようです。
というのもこんな歌も詠んでいます。

秋のきく おのづからなる 華(はな)は見で うるさく人の 作りなすかな

②③自然のままに咲く花は見ないで。
④⑤わざわざ技巧を凝らして作り出すことよ。
○なす―ことさら意識してする。
(『橘曙覧全歌集』)

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