午前中は、耳鼻科を受診しました。
週に一度の割合で受診しているのですが、
昨日いつものように鼻から空気を通してもらったのですが
左耳が詰まっていました。
今朝も詰まっていて空気が通りませんでした。
先生と話していたのは、もし聞こえていたら詰まった感じがひどいでしょうねと
聞こえないことが幸いなのも変な話ですが…
午後から心臓リハビリです。
心臓リハビリの場合、150日間(30日×五ヶ月)なので今月いっぱいです。
毎日来てもいいのだけどそれではリハビリの費用で生活が出来ない…
週に一度のリハビリですが、体調不良が改善されました。
準備運動の後、トレッドミル(30分間)で2.13km。
消費カロリーは126kcalでしたp(^-^)q
その後、久しぶりに下肢のほぐしをしていただきました。
家でもしているつもりですが、相変わらず関節が硬いです(^_^;
○ ○ ○ ○
昨日、睡魔と闘いながら転記していました。
井原西鶴の句と『仮名草子集』にあった「かなめいし」です。
と言うのは、これまで何度か紹介している「耳塚」についての記事があるからです。
古文ではなく現代語訳の方を転記します。
転記間違いがあると思いますし、原文通りではありませんm(_ _)m
艱難目異誌(かなめいし)上巻 浅井了意(あさいりょうい)
六 耳塚(みみづか)の事 并 五条(ごでう)の石橋落(いしばしお)ちたる事
方広寺大仏殿の門前、南の方に、耳塚というものがある。
昔、太閤秀吉公が朝鮮出兵の時、異国の軍勢を日本の軍勢が数多く討ち取り、
その首を日本に渡して、太閤の首実検に供しようとしたところが、
首の数があまりに多かったので、ただ耳だけを切り取って、樽に詰めて日本へ渡した。
さて、太閤は検分なさった後で、
「これらは弔う者とてない無縁の者であるから、
はるか故郷を慕うあまりに亡霊となるかもしれぬ。
それでは、敵とはいいながら、あまりにかわいそうだ」
と言って、耳を塚に突き入れ、その上に五輪塔を立てて、末の世までのしるしとなさった。
去る慶長十九年十月二十五日(*1)、まことに激しい地震があった時にも無事だったのに、
このたびの大地震に揺り崩されて、塚は崩れ、五輪塔は倒れて、
その跡が深い穴になったのは、何ともひどいことだ。
ある人が、その穴の中へ、このような歌を詠み入れた。
耳塚のおほくの耳よこととはん
かかる地震を聞きやつたへし
(耳塚の中の多くの耳よ、教えてくれ。
これほどすさまじい地震を、聞いたことがあるかね)
すると、穴の底から音が響きはじめて、返歌とおぼしきこんな歌が聞こえてきた。
もろこしもゆりやしぬらん大なゆに
今こそ耳のあなはあきけれ
(唐土までも揺れたかもしれない大地震に、
今、初めて、耳の穴が開きましたよ。
はてさて、こんな地震は聞いたこともありません)
五条の石橋(*2)も、その頃は渡し終っていて、もしどのようなことがあっても、
はるか未来の弥勒菩薩が出現なさる時代に至るまで(*3)、無事であろうと思っていたところが、
こたびの地震で、橋桁(はしげた)・橋板から欄干まで二十間(約36メートル)余り落ちてしまった(*4)。
この時、橋を渡りかかった人がいたが、そのうち一人は橋桁の石に打たれ、砕け散って死んでしまった。
もう一人は、西六条花屋町の者ということだが、橋板の落ちるのに乗ったまま落下して着地、
そのまま気を失ったものの、膝の辺りに少し怪我をしただけで、そのうち息を吹き返し、
夢見心地のまま、やっとのことで家に帰った。
「運の強いものだ」と、我ながら大喜びして、お祝いをしたというのも、もっともなことである。
荷物をつけた馬が、橋詰めに多く寄り集まっていたところ、
多くの馬たちが、いっせいに恐れをなして跳ね上がり、立ち上がって、一歩も前に進まない。
手綱を引いても、鞭で打っても進まなかったのは、
橋の落ちることを知っていたのかと、人は皆、このことを不思議がった。
たいそう奇妙なことである。
(*1)午の下刻(午後十二時半頃)に発生。京都では死者二名、負傷者三百七十名という(徳川実紀)。
(*2)五条橋が石橋にかけ換えられたのは正保2年(1645)。
長さ64間(約116メートル)、幅四間(約7メートル)余。
(*3)将来、弥勒がこの世に出現するその時代までも。弥勒は菩薩の一つで、兜率天(とそつてん)に住む。
釈迦入滅の56億7千万年後に人間界に現れ、衆生を救うという。
(*4)このたびの地震で五条の石橋が崩壊したこと、諸記録に見える。
「五条石橋二十余間陥」(続史愚抄)、「五条石橋、中程より崩、川へ落、少残所有之由。人のかよひは有之」(殿中日記)など。
◆耳塚の崩落は事実であるが、了意が記すほどではなかった。
「耳塚上壱つわみ落申候」(梅辻家文書<新収日本地震史料>)。
「大仏耳塚乃石灯かさ石落」(松平家文書<新収日本地震史料補遺>)。
実際は五輪塔の最上部が落ちただけ。
五輪塔が倒壊したわけでもなく、ましてその跡に穴が開いたわけでもない。
穴の内外での狂歌の応酬を書きたいために、了意が用意した虚構であったと考える。
(『仮名草子集』谷脇理史他 小学館 1999年)
注(◆)にあるように穴が開いたのではないということが「かなめ石」にある絵図を見ればわかります(^_-)
(『艱難目異志 上、下』国立国会図書館 「耳塚(15/46)」)
「かなめいし」の内容は | |
寛文二年五月一日、今日の都を大地震が襲った。 町家や土蔵が倒壊し、死者多数。 社寺の被害も大きかった(上巻)。 一日以後も余震はやまず、とくに五月四日に最大の余震が発生した。 地震の被害は、近江国から北陸地方にも及んだ。 京では、人々が様々な噂をささやき合う(中巻)。 日本と中国で発生した大地震の先例を列挙、地震発生の原理を説く。 あちこちの神社で、地震鎮めの神事がとり行われたが、下った御託宣は滑稽なもの。 終盤に至って、妻に追い出され、やむなく出家した新房(あたらしぼう)が登場。 今回の地震は五穀豊穣の兆しと占い、 書名が「ゆるぐともよもやぬけじのかなめいしかしもの神のあらんかぎりは」 の古歌によることを示して、結びとする(下巻)。 (『仮名草子集』小学館 1999年) |
この時の地震は、〝過去の災害に学ぶ「寛文2年(1662)近江・若狭地震」〟などを参照してください。