詳しいことを知らなかったカメさんの映画を第七芸術劇場で見てきました。
映画が終わったときに客席から拍手が起きました(^-^)
今日は13日の金曜日だから気をつけていたのだけど、
メモ代わりに使っているデジカメをどこかで落としてしまった(>o<)
で、公式サイトやパンフレットなどから引用しますm(_ _)m
メモ代わりに使っているデジカメをどこかで落としてしまった(>o<)
で、公式サイトやパンフレットなどから引用しますm(_ _)m
「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」
祖母は、戦時中などは日本軍よりアメリカ軍はよかったけど、
戦後は、ひどかったとよく話していました。
まるで植民地支配者のように沖縄の人々の土地を奪い、時には命までも奪っている。
その米軍支配者に非暴力で闘っていたのが瀬長亀次郎さん。
1954年10月、米軍は弁護士なしの裁判にかけ、
懲役2年の刑の判決をして、カメさんを投獄しました(沖縄人民党事件)。
1956年4月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選で当選しましたが、
占領軍と米軍に同調する議員によって不信任決議を提出されますが、いずれも不発に終わりました。
1957年、米軍が布令を改定しカメさんを追放し被選挙権を剥奪します。
このような米軍の弾圧に対しても抵抗を続ける姿は、
今の沖縄の人々に脈々と受け継がれていると思います。
「瀬長亀次郎と民衆資料 不屈館」を参照してください。
沖縄では、これまで中国船からの攻撃を受けて犠牲になった人はいませんが
米軍によって殺されたり、暴行を受けた人は大勢います。
そして犯人は、罪に問われることなく本国に帰っています。
カメさんの人柄を知るのにいいなと思った内村千尋さんの文章を転記します。
(転記間違いがあるかも知れません)
男女平等を実践していた父
不屈館館長 内村千尋(瀬長亀次郎 次女)
「オーイ!もっと洗うものないか!」洗濯場から父の声がする。
いつもの日課である。
私がもの心ついたころから、掃除と洗濯は父がやっていた。
いつ頃からだろうかと思っていた時、
父の日記になぜ洗濯をしているのかを書いてあるのを見つけた。
それは那覇市長になる2ヶ月前の日記である。
「5時起床、洗濯、この日課は刑務所を出てからずっと続けられている。
洗濯は刑務所のならわしで、身についている。
フミは助かっているようだ。
汚れ物は一物も残さずザブザブ毎朝やっているのだから。
又彼女は店がいそがしいので洗濯物を押しつけるには気の毒である。
もちろんそんな同情からきているのではなしに、
自然におきるのだから手持ち無沙汰だから片っぱしから洗っているのである。
感謝しなくてもよろしい」
最後の「感謝しなくてもよろしい」の言葉には思わず笑ってしまった。
当時、小さな雑貨店を開いていた母は、
店の仕入で農連市場に行ったり、子育て、家事に忙しくしていた。
その後、父が米軍の弾圧により、那覇市長を追放され、被選挙権も奪われたとき、
周りに押され、母が那覇市議会議員に立候補しトップ当選した。
4期16年市議を務めた。
68年には父も被選挙権を回復し、
70年、沖縄から初の国会議員選挙があり、父も衆議院議員に当選した。
洗濯係だった父が東京の国会議員宿舎に行ってしまい、
母は仕方なく洗濯機を買ったのだった。
話しは変わるが、父が生い立ちを話すとき、いつも母親の話しから始める。
父親は亀次郎が3歳のとき、ハワイに出稼ぎ移民として働き生活費を送っていた。
ハワイから戻ったのは亀次郎が成人してからだったので、
その間は母親ひとりで、育てていた。
しかも10年間は病気の舅の世話もしながら、
亀次郎をおんぶし、畑仕事もしていたという。
こまねずみのように働く母の姿に、いつしか母を楽にしたいとの思いと共に、
医学部への進学を勧めた母親への思いは、
私には想像できないほどの尊敬の気持があったと思われる。
その母は沖縄戦の疎開先で餓死したという、
沖縄戦が無ければ農民だった母は死ぬことはなかったはずだ。
母親にはいつも方言で
「ムシロの綾のように、まっすぐ、正直に生きるんだよ」
と言い聞かされていたという。
その教えを守りとうした人生だった。
父の資料整理をしている時、60年頃に書いたと思われる自筆原稿が出てきた。
タイトルは「母の日に寄せて」という1200字のエッセイだった。
「「母の日」はあるが「父の日」はない、なぜだろう。
オギャーの日からしっかり胸に抱かれて大きくなる。
一人前になりかけても矢張りわがままの言えるのは、父ではなく母である。
それだけの理由で感謝の日として、母の日を設けたのであろうか。
そうではなさそうだ。いじめ過ぎたためではないだろうか。
父も子も舅も姑も母なる女をいじめすぎたのである。
この歴史的な社会的な事実に対する
「すみませんでした」の日を必要としたのではないだろうか。
私にはそうとしか思えない。社会的に見てどうのこうのと、
難しいことを書こうとは思わない。
私は体験でそのことを知っているのでそう言っているのである」この前書の後に、
母親が舅の世話をし、農業をし、どんなに苦労の多い人生だったかを書いている。
最後に「いままでよってたかっていじめていた者どもが
ザンゲの日として母の日を設けたのである。
僕は母に、そして母という女に誓った。
ほんとはザンゲであるに拘らず、
感謝の文字であらわさねばならぬこの社会機構の変革のために、働くことを」
戦前、戦後を通して、女性はさまざまな不平等、劣悪な労働、
家庭にあっても、家事、育児、介護など女性がやって当たり前という風潮のなかで、
60年頃、こういうエッセイを書いた父は、さすがだと思う。
また、52年に立法院議員(今の県議)に当選した時には、沖縄の労働者、
特に米軍基地労働者が劣悪な労働条件で働かされていることに対し、
労働三法を発議して可決させた、米軍に何度も妨害されたが、
一年三ヶ月かけて成立させた。
この中には、男女同一労働、同一賃金も提案しているし、
婦人労働者の産前産後休暇二ヶ月の有給休暇なども盛り込ませた。
これは当時、本土にはない進んだ条文だったと言われている。
父は本が大好きだった。
原稿料が入るとすぐ本屋さん巡りをするのが一番の楽しみであり、
母も苦しい家計の中から、本代を捻出しているようだった。
その本が、自宅には今も8千冊程、保管されている。
文学書から、法律書、さまざまな分野の本があり、
私にも「たくさんの本を読みなさい」とよく薦めた。
女だから、男だからと区別することなく、いつも平等に、
対等に話しをしていた父、掃除洗濯を、自らすすんでやっていた父を誇りに思う。
(父の日はアメリカで1909年に始まったが、1972年にアメリカでも正式に国家の記念日として定められた。
1960年代の当時の日本で普及していたかは不明。)
○ ○ ○ ○
今日も姪から沖縄便りが届きました(o^^o)
その中からお昼に食べたテビチ定食(豚足を煮込んだ料理)
母が、豚肉と昆布と大根を煮込んだ料理を作ってくれたのを思い出しました。
時間をかけてじっくり煮込んでいて美味しかったです。
沖縄最後の夜に琉球料理のお店に行ったそうです。
帰ってきてから話しを聞くのが楽しみです♪
昨日、父から電話があったので写真を撮っているかな?と聞くと
「そんな暇ない」との返事…
予想はしていましたが(^0^;)
KAZEさん
返信削除こんばんは
デジカメ紛失されたのですか
みつかるといいですね
カメさんのこと初めて知りました
母の日の考察に心揺さぶられました
日本にこんなことを考える男性が
いらしたんですね
今の方が逆行しているように思えます
沖縄の写真は
姪御さん頼りですね
楽しみにしています
becoさんこんばんは(*^O^*)/
削除σ(^_^;は、よく落とし物をします(ーー;)
電車の中だとおもうのですが…
コンデジの画像は映画館やポスター、お昼のランチなど
プライバシーに関わるような画像はないので不幸中の幸いかなと…
瀬長亀次郎さんについては昨日の天声人語に「カメジローの反骨」が紹介されていましたね。
朝、バタバタして読む暇がなかったのですが、
帰ってきてから映画のことが取り上げられているのでビックリして嬉しくなりました(o^^o)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13177551.html?rm=150
政治的立場が違ってもカメさんの魅力に惹きつけられると思いますし、
当時のアメリカ政府もカメさんが支持されていることを認めざるを得なかったほど。
当時の佐藤首相とカメさんの国会での討論が映し出されますが
議論らしい議論をしているなと思いました。
現在の国会と大違いです。
今日、父と妹、姪が元気に帰ってきました(o^^o)