2026年9月23日水曜日

秋分の日(彼岸の中日)

公園に向っているとポツポツ雨が降ってきて
父と公園の東屋で雨を避けて休憩しました。
本降りにならないだろうと歩いていると、時々、日射しが暑いくらいでした。
スマホで撮影した画像をパソコンに送ったのですが
帰ってからメールボックスを開くとエラー、ネットも繋がらない…
そのこともあって今回の日記の更新作業が遅れてしまった(°°;)

「【全国】NET障害ならびにカスタマーセンターにお電話が繋がらない症状について」(J:COM)
公園を歩いているとそろそろひっつき虫が姿を現してきました。
オナモミの仲間はいいのだけど…
アレチヌスビトハギはやっかいです(^_^;

「ひっつきむし図鑑」(環境省 自然環境局)
今日は、彼岸の中日
西方極楽浄土で思い浮かべるのが

 第11巻 先帝御入水

 …前略…

 二位殿は、日頃から覚悟の事とて、少しも乱れる色もなく、鈍色(にぶいろ)の二衣(ふたつぎぬ)に、練袴(ねりばかま)をそば高くはさみ、神璽(しんじ)を脇に、宝剣を腰にさし、主上をお抱きして舟ばたまで、静かに歩み出された。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
 「女の身だからとて、敵の手にかかりとうない、主上の御供いたすつもり、同じ志の者は、私の後よりお続きなさい」
 というと、二位の手に抱かれていられた主上は、つぶらな目を見開いて不思議そうにあたりを見廻すのであった。
 「のう、尼前(あまぜ)、一体、何処へ連れてゆくのじゃ」
 主上は今年八歳、年よりずっと大人びていられたが、やはり血筋は争われず、あふれる気品は、あたりが輝くばかりで、黒い髪は背中のあたりにゆらゆらゆれていた。
 二位は、主上のあどけない言葉に涙をこらえながら、
 「貴方様は、まだお小さくて、よくおわかりにならないかも知れませぬが、万乗の主としてお生れなされたご運も、悪縁にひかれて、ついにお尽きになったのでございます、先ず、東に向き、伊勢大神宮にお暇遊ばしませ、その後、西に向いて西方極楽浄土のご来迎をお祈り遊ばしませ、このあたりは、粟散辺地(ぞくさんへんち)といって、厭なところでございますが、これから、極楽浄土と申す有難いところへお連れ申しましょう」
 二位の言葉にうなずかれた主上は、小さく可愛らしい手をそっと合わされて、二位のいう通り、東、伊勢大神宮に向い、つぎに西に手を合わせてお祈りなされるところを、二位殿が
 「波の下にも都がございますよ、さあ参りましょう」
 と、お慰めしながら、身をひるがえして海に沈んだ。
 心ない春の風は、一瞬の間に花の姿を散らし、西海の荒波は、小さい玉体を沈め奉ったのであった。

 …後略…

(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)

「壇ノ浦(だんのうら)~安徳(あんとく)天皇入水(じゅすい)~」(NHK 名曲アルバム)
第四章 建礼門院――尼の行方
 四天王寺と理円房(建礼門院六条)
 

 難波四天王寺は、謡曲「弱法師(よろぼし)」のシテ弱法師の語りに、「あら愚や天王寺の、西門に出でて極楽の、東門に向ふは僻事(ひがごと)か」とあるように、その西門の鳥居が極楽浄土の東門に通じるとされたが、この四天王寺にも、平家一門の女性で平家滅亡後、尼となって寄る方ない身を寄せる者がいた。
(『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』細川涼一 吉川弘文館 2017年)
 すなわち、『延慶本平家物語』第六末「阿波守宗親道心を発する事」によると、四天王寺に理円房と名乗って住む尼は、もと建礼門院に六条と名乗って仕えた女房であったが、平家滅亡後、四天王寺に尼として住んだという。
『延慶本』には、理円房(建礼門院六条)が住んだ尼寺の名を揚げてはいないが、おそらく四天王寺の子院として、女性が住む尼寺があったのであろう。
 ところで、理円房の兄は、平宗親といい、実父は源有仁(ありひと)であったが、彼は平宗盛の養子(末子)となっていた。
『高野春秋編年輯録』巻第七によると、宗親は平維盛(これもり)に同行して高野山に登り、そのまま高野山で剃髪して心戒(信戒)房と名乗り、高野山新別所の蓮社友となったが、のちに逐電(ちくでん)して後をくらまし、狂人となって往生している。
このように、狂人となって終わった宗親であったが、『延慶本平家物語』の、妹理円房と出会った宗親(心戒房)にも、狂人となったといわれる彼の姿をうかがうことができる。
 すなわち『延慶本』によると、理円房が、兄の信戒(心戒)房が山林に交わって修行しているとほのかに消息は聞いているが、近ごろは対面もしないと昔語りに過ごしていると、神崎で痩せ黒ずんだ法師が紙衣の汚く破れた上に、麻の衣を結び集めたのをわずかに懸け、片方破れた檜笠を被っているのに出会った。
その尻には童部がたくさん付いて、「物狂い」とこの乞食姿の法師を笑い罵っていたが、これが兄の信戒房であった。
 そこで、理円房は兄の古い物を脱ぎ捨てさせ、湯を浴びせると、どこかで念仏をして過ごしなさいと諫(いさ)めて、山里に庵を結ばせて小法師一人を付けた。
しかし、信戒房は居所も定めず雲風に後を任せて行方知らずになった、というのである。
『延慶本』は、信戒房の話を「此人計(ばかり)ゾ迷アリ(歩)キテ、平家ノ後世共被レ訪(とぶらはれ)ケル」と述べて終えている。
 ここで、『延慶本』の説話が主題としているのは、宗盛養子の宗親が汚らしい乞食姿となった平家の後世を弔った、ということであるが、この説話では脇役ながら、宗親の妹の建礼門院六条が平家滅亡後、四天王寺で尼となってその後の人生を過ごしたことは重要であろう。
ここにも、平家滅亡後、尼となった平家一門の女性の後日譚を垣間見ることができる。

 …後略…

(『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』細川涼一 吉川弘文館 2017年)

「弱法師(よろぼし/よろぼうし)」(the能.com)

「平家物語諸本」(国立公文書館)
今朝の父の一枚です(^^)/

 柘榴 

 柘榴(ざくろ)天神 北野縁起のうちに柘榴の話があるが、比叡山根本中堂の前方に登天(とうてん)天満宮という小祠がある。
天満自在威徳天神、登天天神、柘榴天神、火吹天神、雷除天神、災厄天神とも称し、法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)が遺教院にいたとき、菅公が現われて柘榴を取って扉に投げ、火を吐いて登天した。
これを見た尊意がただちに洒水(しゃすい)の印を結んで火を消したが、焼けあとは残ったという伝説を伝えている。
 伏見区墨染(すみぞめ)桜寺の御経鬼子母神(きしもじん)の前に、金彩の柘榴の造枝一対を瓶に挿している。
 洛南から奈良へかけて田舎の神社の神饌中に柘榴を用いる風習があるが、人身御供(ひとみごくう)の伝説に起因しているらしい。
左京区岡崎神社の犬鷹鉾(いぬたかぼこ)の神饌中にも柘榴を供えた。
 本圀寺(ほんこくじ)の九名皐諦尊(こうていそん)の紋は柘榴である。
 京都、中京の個人の庭園にはたいてい柘榴が一、二本植えられているようである。
(『改訂 京都民俗志』井上頼寿 東洋文庫129 1968年)

ノートパソコンを修理に出すことにしました。
しばらくブログの更新をお休みします。