2026年9月17日木曜日

季節はすすんでいるようだけど

久しぶりに洗濯物を外に干せました。
もうじき秋の彼岸なんだけど…

台風25号 あす以降小笠原諸島近海 本州は連休中の天気に影響も」(NHK)
NHKスペシャル「激甚・豪雨災害の“死角” 命と暮らしを守るには」(NHK 9月13日)
を見ていて「モンスーンジャイア(Monsoon Gyre)」という言葉を初めて知った。

令和8年夏を対象とした異常気象分析検討会の結果について」(気象庁 9月1日

このままだと年末まで台風が来襲するのかもしれませんね…
『源氏物語』からこんなことが分かるんだと思ったのが
 『源氏』の台風 
          久米康孝

 日本ではじめて、台風のルポルタージュ?を書いたのは、王朝の才媛、紫式部である。
『源氏』五十四帖のうち、第二十八巻目の「野分」がそれで、やまとことばで「のわき」と呼んだのは、今日の台風以外の何物でもない、というもっとも有力な考証資料の一つである。
(『科学随筆文庫9 気象ひとすじ』岡田武松他 学生社 昭和53年)
 物語の主人公、光源氏は、後に五十二歳で隠遁(いんとん)するが、その彼の三十六歳の年は、私人としても、社会人としても、彼の人生の、もっとも満ちたりた一年であった。
朝にあっては、太政大臣准三后、時の帝(みかど)の実父として全権力を掌握し、私に帰れば、愛妃「紫」は今二十七、八歳の女盛り、嫡子「夕霧」はすでにして進士、新築間もない六条院のその生活は、庭園に四季を配して、風流尽さざるなきであった。
物語の著者は、源氏二代、帝四代、延々七十六年全五十四帖にわたる大河小説のうち、この一年の報告に特に七帖をあて、リポートは詳細をきわめる。
 正月「初音」にはじまり十二月「行幸」におわるこの七帖によれば、今からおよそ一千年前、十世紀末か十一世紀初頭と思われるこの一年は、梅雨季の雨が平年よりはげしく降り、夏は非常に暑かった。
「螢」には「長雨、例の年よりもいたくして、晴るる方なく、つれづれなれば」とあり、「常夏」によれば「いと暑き日、東の釣殿(つりどの)に出で給ひて」とあって、光源氏は、さうざうしく、なぶたかりつる」とか、「水のうへ無徳なる、今日の暑かはしさかな。無礼の罪は、許されなむや」てなことを言って「より臥し給」っている。
不快指数が大きかったに相違ない。
これだけ読むと、「いと暑き日」そうしたんだから、この日だけ暑かったのかもしれない、どんな涼しい夏だって、一日くらい暑い日があるだろう、これだけから、この夏は暑かった、というのはちと乱暴じゃないかな、ということになる。
ところが、このなかに「風はいとよく吹けども、日のどかに、曇りなき空の」という一句があって、これが、実はその日の気圧配置を、鮮やかに浮き出しているのである。
天気図学の眼で見ると、夏京都で風が強くて快晴というのは、沿海州方面が低圧部となり、太平洋高気圧が日本の南方海上に張り出している場合であって、この型の気圧配置なら、ふつう一週間から十日くらいは酷暑がつづくはずである。
だから、暑かったのは何もこの日だけではなく、この夏は暑い夏だったのだと推定することは、決して無理ではない。
それに、北山の水を引いてその上に釣殿を渡すことは、この時代のもっとも贅沢な冷房装置だったのであるが、それが「無徳」だった。
つまり、さすがのデラックスクーラーが一向効かなかった、というのは、水が北山から長い距離を流れてくる間に、すっかりあたためられてしまっていたわけで、これはすでに地面が過熱されていたことを示している。
地面の過熱は、連日の晴天を意味する。
要するに、この夏は暑い夏だったのである。
 さて、その秋八月(旧暦)のある日、桓武建都以来二百年の、平安の都は、猛烈な台風に襲われた。
「野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹きいづ」にはじまり、「露もとまるまじく、吹き散ら」し、光源氏は「いと、うたて、あわただしき風なめり。御格子下してよ。男どももあるらんを。あらはにもこそあれ」と叱咤し、荒天準備、災害出動を発令する。
 やがて「巌も吹きあげつべき」大風となり、光源氏の義母、大宮は、「ここらの齢に、まだ、かく騒がしき野分にこそ、あはざりつれ」と、「たゞわななきわななき給ふ。」まず二十年か三十年にいっぺんくらいの、猛烈な台風だったらしい。
「大きなる木の枝などの折るる音も、いと、うたてあり」、「御殿の瓦さへ残るまじく、ちらす」のですから、風速すくなくとも二十五メートルに達したと思われ、台風の中心は、京都のすぐ南を、南西から北東に抜けたことがわかる。
不幸中の幸いだったので、もし進行右半円に入って南風が吹いていたら、被害は倍増して、六条院の大邸宅もぶっつぶれていたかもしれない。
この時には、「六条院には、離れたる屋ども、倒れ」ただけですんでいる。
その代り、紀伊、大和、伊勢など南寄りの大暴風が吹いたはずである。
 『源氏物語』は、十世紀末から十一世紀初頭に生きた紫式部が、物語の時代設定を、およそ百年さかのぼらせ、十世紀初頭のお話であるかのごとくに書いた、世界最初の創作小説である。
物語の主人公、光源氏は、式部の時代のワンマン権力者、藤原道長を模したと思われるが、式部は賢明にも時代をずらして、御堂関白の、プライバシー侵害を避けたのであろう。
内容からみると、帝の寵妃をひそかに盗んだりするんだから、ワンマンもいろいろ差支えるところあったにちがいないが、何しろ「この世をばわが世とぞ思ふ」と言って満足した人であるから、小説でちょっとくらい、暴露記事を書かれても、歯牙にもかけなかったようである。
 さて、右の台風の描写が非常に迫真力に富み、しかも、その時間的推移が、天気図学的にきわめて精確であることから、物語の時代設定や、内容のフィクション性はともかくとして、この台風自体は、紫式部みずからが直接体験し、メモをとり、それを小説の中に使ったとしか思われない。
だからこの台風は、彼女の生きた十世紀末から十一世紀初頭の台風で、しかもおそらくは、彼女の作家活動のもっとも盛んだったころのものではないか、と推定される。
 京都は中央政府の所在地であるから、風水害はいろいろ記録が残っている。
そこで田口竜雄氏の編纂にかかる『日本気象資料綜覧』を手がかりとして、天元元年(ユリウス暦978年)から、治安元年(ユリウス暦1021年)までの間に、京都に影響をおよぼした台風と推定されるものを拾ってみると、この44年間に全部で22回ある。
天元元年は紫式部出生と推定される年で、治安元年は『更級日記』の記述により、物語五十四帖が、すくなくともこれ以前に完成していたことの確認される年である。
そこでその22個の台風のうち、五つの条件を同時に満足させるものはないか、一つ一つ当ってみる。
五つの条件というのは、第一に紫式部が確かにその時京都にいたこと、第二に旧暦八月の台風であること、第三に風台風であること、第四にその時近年にないと感ずるような強い台風であること、第五にそのころ紫式部の執筆活動が盛んであったこと、以上の五つである。
 この五つの条件を、同時に完全に満足させる台風は、実は22個のうち一つもない。
しかしもっともこれに近い、もっとも容疑の濃厚なものは長保五年八月二十八日(ユリウス暦1003年9月26日、現行暦法では10月2日)の台風で、どうも紫式部はこれを描写したらしい。
で、物語のなかの「野分」を、この長保五年の台風とすると、この年の五月十九日(ユリウス暦では6月21日、現行暦法では6月27日)に、京都は大雨で、賀茂川が洪水を起こしている。
そうすると物語の方の「長雨(ながあめ)、例の年よりもいたくして」というのも、ほんとうにその年はそうだったのだということになり、また長保五年といえば、これは実は『和泉式部日記』の年であって、この日記によれば、この年の梅雨季に長雨がつづいたことは確実である。
 『源氏物語』は、作家の豊かな創造力によって組み立てられた文学作品である。
その自然描写といえども、写実そのものではないであろう。
長雨を創作することもあろうし、風の描写を誇張することもあろう。
七月に経験した台風を八月にもってくることも、ないとはいえまい。
だから『源氏』の台風を、長保五年の台風と決めてしまうことは、もちろんできない。
しかしこの作品が、はじめは短編集からスタートしたとしても、結局延々たる大河小説になっていることからみて、また、この「初音」から「行幸」に至る七帖が、(玉鬘系に分類することの当否は別として)連続して書かれたと思われる、一連のものであることからみて、この七帖の中の自然環境は、恐らくは現実の一年を、そのままとりいれたのではなかろうか。
どうも、継ぎはぎしてでっちあげた一年だとは考えにくい。
そして、もしそれが現実の一年であるならば、それは長保五年とみるのがもっとも自然で無理がない。
長保五年は、紫式部が夫宜孝(のぶたか)と死別した翌々年にあたり、道長は38歳、式部自身は26歳くらいである。
この二人の年齢が、それぞれ光源氏と紫の上の年齢にほぼ対応すること、まことに興味津々である。
清少納言は、このときすでに宮廷を去って、月の輪に退いていた。
 昭和36年は、長保五年にたいへんよく似ていた。
旱魃(かんばつ)気味にはじまった梅雨は、6月下旬に入って連日七日間の大豪雨となり、阪神からはじまって、中部、関東に水害を起こした。
この神戸水害は、昭和13年6月の大水害以来23年ぶりのもので、13年のものは、昭和源氏『細雪』のなかに、もっとも鮮かに描きだされている。
ついで、梅雨明けの7月下旬から8月にかけては酷暑がきた。
新聞は連日不快指数を書きたて、このことばを流行させた。
8月25日、日本気象学会で、気象学史を中心とする月例会が開かれた。
十幾つかあった講演の一つとして、私は、「源氏物語台風考」を論じた。
その日もひどく暑かった。
光源氏が釣殿で昼寝したのも多分こんな日であったろう。
非常に親近感を覚える、と言ったので、会員達は爆笑した。
 8月29日、はじめて北風が吹きこみ、冷涼を覚えた。
物語の「篝火」には「秋にもなりぬ。初風(はつかぜ)、涼しく吹きいでて」というところがある。
そして9月16日、台風第18号(第2室戸台風)が、京都を襲った。
台風の中心は、京都市のほとんど真上、わずかに西にそれて通過した。
京都地方気象台の観測によれば、最低気圧937.6ミリバール、最大風速東北東22.3メートル、最大瞬間風速東北東34.3メートル、総降水量51.0ミリ。
 それは、まさに「源氏」の台風に酷似した。
(『科学随筆文庫9 気象ひとすじ』岡田武松他 学生社 昭和53年)

なんか、今年の天気と似ているような気がする(^_^;

昭和36年梅雨前線豪雨 昭和36年(1961年) 6月24日~7月10日」(気象庁)

第二室戸台風 昭和36年(1961年) 9月15日~9月17日」(気象庁)
今朝の父の一枚です(^^)/
ここ数日、こないうちにヒガンバナが一気に咲いていました。
日本の古典から名付けられた昆虫がいるんですね!

 2017年 生物学賞:雄と雌で生殖器の形状が逆転している昆虫を発見
 ブラジルの洞窟にあった進化の真実―「挿入するメス」の意義
 人間の常識がひっくり返った発見
 
 
 2010年にスイスの研究者チャールズ・リンハード博士(生物学賞の共同受賞者)によって新種として発見されたある昆虫。
北海道大学の吉澤和徳教授(当時、准教授)が顕微鏡でその交尾を観察したとき、レンズの向こう側に広がっていたのは人間の常識を覆す光景でした。
ブラジルの乾燥した洞窟に生息する体長3mmほどの昆虫は、交尾器がオス(雄)とメス(雌)で逆転していたのです。
このような特徴から、男女の姉弟が性別を入れ替えて育てられる平安時代後期の古典『とりかへばや物語』にちなみ、「トリカヘチャタテ」と命名されました。

 …後略…

(『イグ・ノーベル賞の受賞者たち』ニュートン編集部 ニュートン・プレス 2026年)