2026年9月2日水曜日

九月になって

九月になり少しは、涼しくなったかなと思ったけど、やはり暑い…(;´Д`)

日曜日に久しぶりに散歩に出かけようとするとエンジンがかからない(°0°)
バッテリーがへたってしまったようです。
JAFに頼んでエンジンがかかるようにしてもらいましたが、
いつも利用しているガソリンスタンドは、日曜日が定休日。
月曜日にバッテリー交換に行こうとしたらやはりエンジンがかかりません。
再びJAFにきてもらいました(^_^;
昨日が妹の診察日だったので、月曜日に交換できてよかったと思うことに…
1枚目のの百日紅は、大きな穴が開いていたので数年前に伐採されました。
それでもこうやって残った幹からヒコバエが伸びてきて花を咲かせているp(^^)q

樹木がヒコバエを発生させる条件について」(日本植物生理学会)
先週の朝ドラ風、薫る第22週「明るい未来」で玉田多江が広島の陸軍予備病院で看護にあたっていました。
多江の窮状を知って大山捨松がやってきました。
大山捨松は、会津の人。
夫は陸軍大将大山巌

 第五章 越後高田「知命堂病院」

 日清戦争と看護婦


 …前略…

 明治27年8月、日清戦争が始まる。
日本赤十字社は広島、松山、名古屋など各地の陸軍予備病院に看護婦を派遣した。
先述のとおり、日赤は戦時救護を目的に設立されており、日清戦争が最初の本格的な活動であった。
(『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる 中央公論新社 2023年)
 このとき、戊辰戦争の会津鶴ヶ城戦を戦った新島八重は、日赤の篤志看護婦として広島陸軍予備病院に赴任している。
八重は夫新島襄の亡きあと、日赤の正社員となっていた。
彼女は看護婦たちに、「敵なればとて、傷を受くる者、仁愛の心をもって助けよ」という陸軍大将大山巌の訓示を伝えている。
同病院へは、宇治港(現広島港)をとおして日清両国の傷病兵が連日100人以上運び込まれ、看護婦たちが不眠不休の看護を行った。
戦場ではないため、戦いに巻き込まれることはなかったが、4人の看護婦が伝染病により殉職している。
 八重は半年間の命懸けの看護が認められ、ほかの篤志看護婦らとともに、皇族以外の女性として初めて叙勲を受ける。
賊軍扱いされた旧会津藩士やその家族たちにとって、八重の叙勲には特別の意味があった。
 新島八重、そして皇族の小松宮妃頼子といった上流階級の女性たちが篤志看護婦として活動したことにより、看護婦に対する賎業視が一気に払拭される。
そして、看護婦といえば従来の「看病婦」ではなく、トレインド・ナースを意味するようになり、一転して憧れの職業となった。
また、戦場から持ち込まれた伝染病が国内に蔓延したことから、看護婦の需要が高まり、全国で次々と派出看護婦会が設立された。
 日清戦争は開戦翌年の明治28人には終結したが、この年、全国のコレラ患者はおよそ5万5000人。
うち4万人が死亡。
腸チフス患者は3万7000人。
うち8000人が死亡した。
この数字は、日清戦争における日本兵の戦死者およそ1万3500人を大きく上まわっている(『医制百年史』)。
戦死者も、その9割が脚気や赤痢などの病死であった。

 …後略…

(『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる 中央公論新社 2023年)

昭和になると捕虜に対する扱いが非人道的になるのはなぜなのか!
朝ドラ「風、薫る」で知ったのは、下関条約が締結された後も台湾では抗日抵抗運動が続いていたこと。
木村多江の、いまさらですが…
特別編/大人のための修学旅行:旅して学び直す「台湾」
でも少し触れていました。
そして吾郎は近衛師団に所属していました。


重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎」(東京国立近代美術館)
第6章 下関講和条約と台湾侵攻
 Ⅱ 台湾の抗日闘争、朝鮮の義兵闘争
 台湾総督府と「台湾民主国」 


 三国干渉の結果遼東半島を清に還付したので、下関講和条約で獲得した領土は台湾と澎湖諸島だけとなった。
 日本政府は軍令部長樺山資紀(かばやますけのり)大将を台湾総督に任じ、近衛師団(師団長北白川宮能久<きたしらかわのみやよしひさ>親王中将)とともに台湾に向かい新領土を接収するよう命じた。
樺山は薩摩出身で1874年の台湾出兵の前に現地を調査した経験があり、台湾と関係が深かった。
また近衛師団長の能久親王は幕末期には公現法親王と称し、日光東照宮を管理する輪王寺宮として関東に下向した。
幕府崩壊時には江戸を脱出して宮城白石にあって奥羽越列藩同盟に精神的盟主となり、天皇に即位したとも言われている人物である。
仙台藩降伏後は謹慎処分となったが、還俗してドイツに留学、北白川宮家を継いで陸軍軍人となり、日清戦争時には近衛師団長に就任していた。
(『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像』大谷正 中公新書 2014年)
 台湾では、日本の領土となるのを拒否する邱逢甲(きゅうほうこう)ら地元有力者が台湾省巡撫(省の長官)唐景崧(とうけいしょう)に独立を迫り、唐もこれを受け入れ5月25日台湾民主国総統に就任した。
ここに「虎旗」を国旗とするアジア最初の共和国が誕生し、フランスをはじめとする諸外国に援助と承認を求めるとともに、日本への武力抵抗を試みた。

 …中略…
 台湾住民が強烈な武力抵抗を行ったのは、開拓地である台湾特有の事情があった。
台湾住民は対岸の福建からの移住者が最も多く、客家(ハッカ)がこれに次いでいた。
彼らは台湾原住民や隣接する移住者集団と対立抗争(分類械闘<ぶんるいかいとう>と呼ばれた)しながら開拓を進めてきた。
そのため強い郷土愛を持ち戦闘に慣れていた。
煉瓦塀・銃眼・櫓(やぐら)を備えた民家や密集した竹藪で囲まれた集落は、要塞にように防御機能を有していた。
日本軍が台湾に上陸すると、台湾民主国を支持する人々の抵抗のみならず、さまざまな流言蜚語や誤解に基づく住民の抵抗が起こる。
近衛師団は想定外のゲリラ闘争に直面して、抵抗する者とそうでない者の区別ができず、予防的な殺戮や村落の焼夷を行い、それが住民の恐怖と報復のための抵抗を引き起こすという悪循環に陥っていった。
 こうした激しい戦闘に直面し、所属の兵力も増えたため、当初民政組織として構想された台湾総督府は、植民地戦争に対応する軍政組織となった。
近衛師団に加えて、第二師団と後備部隊が加わった段階では、台湾総督府麾下(きか)の兵力は、将兵約5万名、軍夫2万6000名、合計7万6000名という巨大なものとなった。
このほかに、馬が9400頭、徒歩車両3500輛をともなった。
そして住民の激しい抵抗と台湾の風土病のマラリアや、不衛生な水と食品が原因の赤痢、栄養不足から来る脚気(かっけ)が蔓延したために、日清戦争の死者の過半は台湾でのものとなった。

 …後略…

(『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像』大谷正 中公新書 2014年)
今朝の父の一枚です(^^)/
稲が実り始めました。

台風と前線の影響で西・東日本では3日から大雨のおそれ」(NHK)
台風の動きを見ていると24号は、ゆっくりとどこへ行くのか分からないし
熱低になったはずの18号が再び勢力を盛り返している。
外国からの観光客は日本が自然災害大国だと知っているのかな?

第6章 異常気象で私たちの生活はどのように変化するのか

 気候教育の危機

 前項で子供が異常気象に興味を持つことの切実さを訴えましたが、実際、学校で気候危機問題についての授業はほとんど行なわれていません。
日本では小・中・高校の社会科で「気候」は習いますが、「気候変化」については習わないのです。
 特に行政や会社の施策決定権者に、間違った認識を持っている人が多く、それの一因は教育にあると感じています。
 無関心層が多い日本に比べて、ヨーロッパ諸国は市民の関心が圧倒的に高いです。
意識の差は学校教育にも表れていて、例えば、イタリアでは、気候変動は小・中・高校での必修科目となっています。
 日本の学習指導要領にも気候や気象災害を含む地球環境系の内容が各科目にちりばめられているので、学ぶ機会は皆無というわけではありません。
しかし、系統的に説明されていないのでわかりにくく、入試にもあまり出題されていません。
 高校の地学の授業では「気候教育」は本格的に学べますが、そもそも科目に地学がある学校が多くありません。
熱心に地学を教える学校や教員もいますが、まだまだ少数。
すべての学校で気候教育をしないと、世の中は変わらないのです。
地学は入試に不要な科目という認識が、学校に対して無言の圧力となっているのかもしれません。
 とはいえ、すぐに地学を科目に入れるのはむずかしいでしょう。
それなら、地理や理科などの科目に気候災害の分野を組み込んでもらえたら、異常気象を憂う一人として、これほど幸せなことはありません。
(『異常気象の未来予測』立花義裕 ポプラ新書 2025年)