今朝は、曇り空でしたが蒸し暑かったです(^_^;
台風9号は、これからどのようなコースをとるのかな?
これほど大型の台風だと中国大陸に上陸した後、
黄海に出てふたたび勢力が大きくならないか心配です。
「台風9号 沖縄 先島諸島など今夜にかけ暴風のおそれ続く 警戒を」(NHK)
「台風9号を航空機で観測 “中心から離れた場所で風強く警戒”」(NHK 7月10日) 朝ドラ「風、薫る」は、来週くらいから新潟に舞台を移すようですね…
今週は、一ノ瀬りんにとって試練の週になりました。
大関和をモデルにした朝ドラで看護の仕事が注目されてよかったなぁと思っています。
明治時代からおおくの女性たちが看護の場で活躍しています。
大正9年(1920)、第1回フローレンス・ナイチンゲール記章に世界各国で52名が受賞しました。
日本からは、萩原タケ・山本ヤヲ・湯浅うめの3名が選ばれ、日本人初の受賞者となっています。
「本学のフローレンス・ナイチンゲール記章に輝く人たち」(日本赤十字看護大学史料室)
(70歳の時のナイチンゲールの肉声を聞くことができます)萩原タケの人柄をあらわしているエピソードだなぁと思ったのが…。
第二部
Ⅱ 赤十字の花
…前略…
いまひとつ、監督萩原タケについて書き落とせないのは、不遇な人に思いやりが深かったことである。
日赤草創期の無資格看護婦のひとり菊池ヤスは、外科の介補がたくみで、「学問ではどう言うか知らんが、実地はこうだ」と、べらんめえ口調で若い看護婦を叱りとばす、威勢のよい女性だった。
しかし年老いてお役御免になり、名目ばかりの職を与えられて寄宿舎の一室に住み、猫を二、三匹飼って日を送っていた。
(『献身 萩原タケの生涯』森禮子 白水社 1995年) 日赤の寄宿舎は大名屋敷を移築したもので、総桧づくりの見事な一間廊下が真ッすぐ通っていた。
朝晩磨きあげてピカピカに光っているその廊下に、ヤスが飼っている斑猫黒猫が出没して足あとを残す。
そこで若い看護婦たちが苦情をタケに申し立てた。
おそらく口達者な老女のヤスを日頃から目障りに思っていたのだろう。 タケは肯きながら一部始終を聞き終えて、穏やかに微笑して、
「まあ、あの方は一生を看護に捧げて、ずっと仕送りをしていた病身な妹さんにも先立たれたのですよ。淋しい人は友を動物に求めるものだから、大目に見てあげなさい」
と、ヤスをかばった。
そしてなにくれとなく優しい心遣いをヤスにして、彼女が亡くなるとお金を集めて、身寄りのないヤスのために立派なお墓を建ててやり、死後まで面倒をみた。
モーパッサンの短編の『女王オルタンス』は、傲慢で嫌われ者の独身の老女が、じつは淋しい心を持ち、飼っている動物を自分の子供のかわりにしていたことが臨終の床でわかるという話だが、威勢のよい菊池ヤスが本心は淋しがり屋だということを、タケはよく理解していたのである。 また多忙のなかからタケは、事務主幹を定年退職して根岸で隠居生活を送っていた川合林太郎をしばしば訪れ、車を表に待たせたまま談笑を交わして、老境を慰めたという。
また後任の事務主幹の中村秀樹も退職後に、病床のタケから特性の銀の柄がついたステッキを贈られている。 自立心がつよく、人に狎(な)れることがなかったタケが、こうした優しい思いやりを身につけたのは、患者の看とりをするなかで、死を知る人間の運命ともいえる根源的な淋しさに触れていたことによると思われる。
「看護婦は僧侶を兼ねなければならない」というナイチンゲールの言葉を、タケはそのまま実践した女性であった。 監督に就任して一月後の明治43年11月に、タケはナイチンゲール石黒記念牌をうけた。
これはその年の8月14日に91歳の高齢で逝去したナイチンゲールを記念して、軍医総監であった石黒忠悳(ただのり)が自費で設けた患者に親切な看護婦に贈与する表彰牌で、その第一回に萩原タケが選ばれたのであった。
その授与式の挨拶でタケは、ナイチンゲールが亡くなるちょうど1年前の、8月14日にナイチンゲールを訪問したことを述べているが、やや縁起をかつぐ癖があったタケが、なにか深い縁を感じていたとしても不思議はないと思われる。 Ⅸ 終わりの火
…前略…
雑仕婦の千鶴も仕事がすむと病室を訪れ、タケの看病をした。
貧しい家に生まれ育った岡本千鶴は、さまざまな辛酸を味わい、中年になって日赤の日雇い雑仕婦になった。
下働きは辛いものと覚悟していたが、監督のタケはいつも彼女の労をねぎらい、あたたかな配慮を忘れなかった。 新築の養心寮に移った時、それまで病院の古蚊帳を借りていた千鶴は、新しい蚊帳が欲しくなった。
殺虫剤が普及した現代では蚊帳は過去のものとなったが、昭和二十年代頃まで日本のどこの家庭でも、夏には蚊帳を吊って寝た。
部屋の四隅から吊った濃緑か白の蚊帳の中に入ると、海の底のような幻想的な気分になる。 「畳も襖もすっかり新しくなって、これで新しい蚊帳で寝(やす)んだら、さぞ気持ちがいいでしょうね」
なにげなく千鶴が洩らすと、タケは即座に頷いて言った。
「それもいいでしょう。ずいぶん永く働いてきたのだから」
言っただけでなくタケは、すぐさま幾通りかの蚊帳を店から取り寄せ、どれでも好きなのを選ぶようにと、千鶴に言った。
四隅に金属の吊り金具がついた新しい蚊帳は、麻の涼しい匂いがした。
困惑しながらも、千鶴がおずおずとひとつを選ぶと、タケは自分の財布からさっさと代金を払った。 六畳用の本麻の蚊帳の値段は、昭和十年当時の標準小売価格で十五円三十銭である。
男の日雇労務者の一日の賃金は一円四十三銭だから、それよりずっと安い賃金の日雇いの雑誌婦にとっては、まさに高嶺の花。
千鶴にしても、とても手が届かないとわかっているからこそ、つい洩らしてしまったのだろう。
そして身分差を当然とした当時の社会では、「分不相応なことをお言いでないよ」と軽くあしらわれても、なんの不思議もなかった。 が、タケは即座に千鶴の気持ちを肯って、自分の財布から買ってやったのである。
これはたんに気前がいいというだけのことではない。
軍隊なみの厳しい階級社会で生きながら、タケは雑仕婦に対しても人間としての差別感を持っていなかったのである。
タケ自身が農村の家の育ちだからと言えば言えるけれども、成功すると昔の事は忘れやすいのが人間の常。
そうでなくても、差別をうけた者はさらに他人を差別しがちでもある。
やはり、タケの人柄と言うしかあるまい。 下積みの人間ほど他人の気持には敏感であるから、千鶴が心からタケを敬仰したのも当然であった。
タケが喘息で咳きこむのが部屋の外に洩れると、千鶴は何においても駆け込んで、大きな手でタケの背中をさすって念仏を唱えつづけた。
千鶴はまた、折々にタケからもらいうけた写真で特別の写真帳をつくり、大事な宝物していた。
タケの身近かに仕えた事が、彼女の終生の誇りであったのだろう。
そのタケがなくなった時、千鶴は声をあげて、泣いて泣いて泣き尽くしたという。 …中略…
五月十日にタケは、雑仕婦の千鶴に着物の仕立てを頼んだ。
死出の旅立ちの用意であった。
蒲団が重いと洩らしたタケのために、千鶴は大急ぎで新しい蒲団も作って届けると、タケはよろこんで、病み衰えた繊い手で千鶴の大きな手を取り、永く世話になった礼をのべて、
「ああ、悲しくなった」
と、横を向いて静かに泣いた。
…後略…
(『献身 萩原タケの生涯』森禮子 白水社 1995年)
昭和11年5月27日、享年63歳(「萩原タケ(ハギワラ タケ) 1873-1936」 あきる野市)今朝の父の一枚です(^^)/
昨夜は、寝苦しくて睡眠不足だとぼやいていました。
先日からエアコンをつけるようにと言っていたのですが、
公園から帰ってきてさっそく吹き出し口近くにあるタンスの上を掃除して
エアコンをつけていました。
22 熱中症から身を守るために
暑さに体が慣れないと発症しやすい
近年、猛暑日が記録的に増加し、熱中症が問題になっています。
熱中症は体から熱が放出されにくなることで体温が上がったり、汗をかきすぎて体内から水分が奪われたりすることで起こり、ときには命にもかかわります。
熱中症を発症しやすいのは、まだ体が暑さに慣れていない季節です。
特に梅雨明けしてすぐの時期は、一年で最も熱中症で救急搬送される人数が多くなります。
熱中症を予防するためにも、気温や湿度などの要素をもとに算出された暑さ指数のチェックをこまめに行い、それに合わせて行動することをおすすめします。
(『今さら聞けない 気象の超基本』今井明子 朝日新聞出版 2025年)















