2026年7月3日金曜日

蹴上

京都市営地下鉄東西線「蹴上」駅で降りてトンネルをくぐりました。

 ねじりまんぽ 

 「ねじりまんぽ」は三条通から南禅寺へ向かう道路の造成に伴って建設され、明治21(1888)年6月に完成しました。
「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉で、「ねじりまんぽ」は、「ねじりのあるトンネルという意味です。
上部にあるインクライン(傾斜鉄道)と斜めに交わる道路に合わせ、トンネルも斜めに掘られるとともに強度を確保する観点から、内壁のレンガを螺旋状に積む工法が採られています。
 トンネルの東西には、トンネルの完成を祝い第3代京都府知事の北垣国道が揮毫した扁額があります。
西口の「雄観奇想(ゆうかんきそう)」は「見事なながめとすぐれた考えである」、東口の「陽気発処(ようきはっするところ)」は「精神を集中して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝つことができる」という意味です。
 このような形状のトンネルは旧国鉄東海道本線の敷設工事など関西で多く見られますが、鉄道以外での施工例は稀少です。
「ねじりまんぽ」は、明治時代の土木技術を物語る貴重な遺産といえます。
        京都市

琵琶湖疏水のトンネル洞門・扁額(石の額)……」(京都市上下水道局 2025年4月1日)
通行止めになっているのかと思ったのは早とちりでした(^^ゞ
車は、進入禁止ですが、人は、通行できます。
殉職者之碑 京都市電氣局」と刻まれていました。
 桜の季節は大勢の花見客で賑わうのですが……
大きな石仏が祀られていました。

 蹴上 義経地蔵 

 平安時代末期、義経(遮那王・牛若丸)は鞍馬山を離れ、平家打倒を胸に秘め金売喜次とともに奥州へ向かう途中、日ノ岡峠に差し掛かりました。
行く手から馬に乗った平家の関原与一ら九人の一団とすれ違った時、一団の一人が誤って泥水を蹴り上げ義経の衣服を汚してしまいました。
謝ることなく通り過ぎた一団の無礼に怒った義経は、九人を切り殺したと伝えられます(異本義経記より)。
 斬り殺された九人の菩提を弔うために村人が九体石仏を安置しました。
また異説では、九人を斬り殺した後、我にかえった義経が自分の行為を悔やみ、村人に菩提を弔うよう頼んで旅を続けたとも伝えられます。
九体の内、一体がここに祀られています。
 この地はもと九体町と呼ばれていて、花入れには義経大日如来と刻まれています。
 蹴上の地名は、この馬の蹴り上げか、力を入れて蹴り上げる「蹴り上げ」が由来と伝えられています。
       京都市

蹴上」は、不思議な地名だなと思っていました。
一身殉事 萬戸霑恩(いっしんことにじゅんじ ばんこおんにうるおう)


疏水工事殉職者弔魂碑・殉職者之碑」(日本遺産 琵琶湖疎水 蹴上エリア)
疏水工事殉職者弔魂碑

背面に17名の殉職者の名前が刻まれていました。

 明治時代の京都再開発
 琵琶湖疎水の開削


 …前略…

 明治維新とともに京都は、応仁・文明の乱以来の危機にさらされる。
政府・官公庁はむろん、皇居までも東京に去ってしまい、人口も激減した。
皇族・貴族もそのほとんどが東京に移住したので、いわゆる御用達(ごようたし)をはじめとする商工業者も多くが東京に移って産業基盤は大きく変化、都市としての力は衰退を極めた。
(『歴史でめぐる洛中洛外(下)洛東・洛南』井上満郞 淡光社 2017年)
 そこで復興の手立てがさまざまに考えられたが、その一つが琵琶湖疎水の建設であった。
日本海沿岸地域の大消費地の京都・大阪に運送するには、船舶輸送では津軽海峡か関門海峡経由かで大きく遠回りをするしかなかった。
そのロスを除くために敦賀(つるが)・小浜(おばま)・三国(みくに)(いずれも福井県)辺りの港で物資を降ろし、そこから陸送して琵琶湖の北岸で再び船積みし、船のまま京都・大阪に運ぶという運河の開削が構想されたのである。
ただ琵琶湖と京都の間には逢坂山(おうさかやま)・東山(ひがしやま)という山塊があってトンネル掘削が難しい。
明治時代初期の日本には、まだ土木技術がじゅうぶんに具わっていると言いがたかったし、さらに琵琶湖水面と京都地平面とに大きな高低差があって、通船可能にするためにはその解消も難題だった。
琵琶湖と京都をつなぐというこの構想は早く江戸時代からあったものの(寺尾宏二『明治初期京都経済史』)、実際に移すだけの技術力がなかった。
 田辺朔郎と北垣国道 

 これを一気に解決したのはむろん近代文明の訪れだが、その立役者となったのが田辺朔郎(たなべさくろう<1861~1944>)と北垣国道(きたがきくにみち<1836~1916>)という二人の人物だ。
 田辺は江戸の出身で、工部大学校(こうぶだいがっこう<現東京大学工学部>)に学び、卒業論文に疎水をテーマにした。
のち東京大学教授・京都大学教授などを歴任するが、もともとは京都には無縁の人だった。
旧幕臣で当時工部大学校(現東京大学工学部)の校長だった大鳥圭介(おおとりけいすけ)の推薦によるともいうが(京都市編『琵琶湖疎水及水力使用事業』)、その研究内容は素晴らしく、現地に則して立てられたその建設計画は周到かつ精緻でじゅうぶんに実現可能なものであった。
 しかし、机上の図面だけではこのような大規模工事は行えない。
資金的な手当がされなければならない訳で、膨大な費用が発生するこの業務を仕切ったのが北垣国道である。
北垣は但馬(たじま<兵庫県北部>)出身で、明治14年(1881)に京都府知事に着任するが、その主導のもとで工事に着手したのが明治18年であった。
その頃の政府の財源は決して豊かではなく、京都市民への財政負担が多くのしかかり、北垣は「今度来た(北)餓鬼(垣)、極道(国道)」とまでそしられもした。
しかし、幾多の障害を乗り越えて明治23年に完成し、ここに琵琶湖と京都との通船が可能となり、経済活動は飛躍的に向上した。
この時に実現した水運の最後の京都の港である夷川(えびすがわ)ダム、当時は船溜(ふなだまり)といったが、そこには北垣の銅像もある。
またここでの落差を利用した発電が今も関西電力夷川発電所で行われていて、これは第二疎水の疎通によって大正年間に開始され、明治創業の蹴上(けあげ)発電所とならび、田辺・北垣の偉業はなお生き続けているのだ。
琵琶湖疎水記念館では、それらのことを詳しく知ることができる。
(『歴史でめぐる洛中洛外(下)洛東・洛南』井上満郞 淡光社 2017年)

北垣国道像・田邉朔郎像」(日本遺産 琵琶湖疎水)

琵琶湖疎水記念館
しばらく上って行くと静かな境内につきました。
京のお伊勢さんともよばれる日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)

 昨日(2日)は、大雨で境内や駐車場の一部が浸水したそうです。
外宮

 日向大神宮(ひむかいだいじんぐう) 

 当神宮は、顕宗(けんぞう)天皇の御代(485~487年頃)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられます。
 内宮(ないく)は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と宗像三女神(むなかたさんじょしん)を、外宮(げく)は天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほににぎのみこと)と天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をご祭神とし、境内各社には両宮と関係の深い神々が祀られています。
  この「日の神」鎮座の神体山を、天智天皇は「日山(かみやま)」と名付けられ、後に日御山(ひのみやま)や神明山(じんめいやま)と称されています。
 平安時代、貞観年間(859~877年頃)に疫病が流行した際、当神宮に勅願(ちょくがん)が行われ、お告げ通りに宮地の清泉の水を万民に与えたところ、たちまちおさまったので、清和天皇は、この泉を「朝日泉(あさひいずみ)」と名づけ、「日向宮」の勅額(ちょくがく)を賜いました。
内宮

 応仁の乱の兵火で社殿や古記録は焼失しましたが、松坂村の松井藤左衛門が仮宮を造営して社殿を再建し、慶長年間(1596~1615年頃)に伊勢出身の野呂宗光が霊夢に感じて再興しました。
 かつては東海道中の安全祈願や伊勢神宮の代参として、大変にぎわいました。
   京都市
 天岩戸

戸隠(とがくし)神社 
 天手力男命(あめのたぢからおのみこと)

(「日向大神宮 境内図」)

戸隠神社は、中に祀られています。
2009年8月15日に訪ねた時は、幼稚園児たちが来ていてました。
暗い穴の中へ、ひとり一人、こわごわ入っていきましたが、
出てきたときは満面の笑顔でした(*^O^*)
 福土神社
  えん結び 福徳の神
 朝日天満宮
  菅原道真公
  少彦名命(すくなひこなのみこと)
発病前は、8月15日に2回訪れていて、「京都一周トレイル」の大文字山を目指したのですが
昨日、警報級の雨が降った後なので
無理をせずに向かった先は(10時10分頃)
右側の石段を上がり
 伊勢神宮遙拝所に到着したのが10時17分頃でした。
ゆっくり上っても案内通りの時間でした。
日本人の多くが、伊勢参りへの思いを募らせてきたのですが
「皇室典範」の改悪を急ぐ人は、天照大御神が鎮座されている
伊勢神宮へお参りしをたことがないのでしょうね。
一般から嫁いだ方が前例のない「宮家」を創設されたのが不思議でしたが
麻生氏の妹さんだったのですよね…
麻生氏はなんでも意のままにできるのだと思いました。
養子先ができたようなものです。

平塚らいてう」(中学)

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である
後ろを振り向くと京都の街がよく見えました(^_^)v
左大文字(赤の↓)が見えました。

京都五山送り火

下り道は、かなり滑りやすくなっていたので、さらにゆっくり降りました。
 神田稲荷神社
  倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
  保食神(うけもちのかみ)
結婚式の前撮りのようです。
撮影されていたので立ち止まって待っていると
女性のスタッフの方が通っても大丈夫ですと声をかけてくださった。
「天気で好かったですね」と声をかけると笑顔でこたえてくださった。

 …つづく…

0 件のコメント:

コメントを投稿

申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m