2026年7月6日月曜日

金地院~諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址(7月3日)

お参りする予定はなかったけど
目にとまったのが「特別拝観」という文字。
特別拝観の予定を見ると自由に見るのではなく
見学時間が決まっているので諦めて一般の拝観にしました。
 金地院(こんちいん) 

 臨済宗南禅寺派に属する。
応永年間(1400年頃)、南禅寺六十八世大業徳基(だいごうとくき)が北区鷹峯(たかがみね)に開いたのが当寺の起こりであるが、江戸時代の初め、以心崇伝(いしんすうでん)がこの地に移して再興した。
崇伝は徳川家康の信任を受けて政治外交の顧問として活躍し、寛永4年(1627)に当寺の大改築に着手して現在の寺観を整えた。
崇伝はまた僧録司(そうろくし)となって宗教界全体の取締りに当たり、以後幕末まで当寺は僧録司の地位あった。
 方丈(重要文化財)は伏見城の遺構と伝えられ、柿葺(こけらぶ)き入母屋(いりもや)造り、書院造りの代表建築で、内部は狩野派諸家のふすま絵で飾られている。
茶室八窓席(はっそうせき)は小堀遠州(こぼりえんしゅう)の設計で、三畳台目(だいめ)の遠州流茶席として有名である。
「鶴亀の庭」と称される方丈庭園(特別名勝)もまた、小堀遠州が直接指揮して作庭した確実な証拠を有する唯一の庭園で、寛永9年(1632)に完成した名園である。
境内の東照宮(重要文化財)は寛永5年(1628)の建築で、地方の東照宮の代表的なものである。
このほか、寺宝として水墨画の名品など多くの文化財を蔵している。
    京都市
 東照宮(重要文化財) 

金地院崇傳長老が徳川家康公の遺命に依り寛永5年に創建し、公の遺髪と念持佛を奉戴す。
建築様式は本殿・石之間・拝殿からなり所謂権現造り様式である。
拝殿天井の鳴龍は狩野探幽の筆、欄間に掲げられた三十六歌仙の額は土佐光起の筆であり、歌は青蓮院宮尊純法親王の御筆跡である。
下段に掲げてある額は画家黒田正夕氏が謹写したものである。
 東照公遺訓 

一、人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し、いそぐべからず。
一、不自由を常とおもえば不足なし。
一、心に望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
一、堪忍は無事長久の基、怒は敵と思へ。
一、勝事ばかり知てまくる事をしらざれば、害其身にいたる。
一、己を責て人をせむるな。
一、及ばざるは過たるよりまされり。

   金地院
南禅寺 
 金地院
 永遠の繁栄を願った常緑樹の庭 


 ◆徳川幕府の威光で集められた名石 

 …前略…

 庭園左手の亀島の方には、紀州の青石が多く見られる。
青石の中でも特に青みの強い緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、京都の庭園でよく使われた。
また右手にある鶴島の鶴首に見立てた長い四角の石は、赤穂から運ばれた石と伝えられている。
これだけ良い石がこの庭に集っているのは以心崇伝(いしんすうでん)の力と、家光の時代にはすっかり盤石となった江戸幕府の威光によるものだ。
石から当時の権力のパワーバランスが見えてくるから面白い。
(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年)
◆背景の常緑樹が「永遠の繁栄」を表す

 金地院の庭にはさまざまな意味が込められている。
それらを知って、謎解きのようなこの庭を見ていくと、とても面白い。
 まずは、一番目立つ鶴島と亀島。
昔から「鶴は千年、亀は万年」と言われ、長寿=おめでたいことのシンボルだった。
そして鶴亀と来ると、セットのようによく作られるのが蓬莱山。
蓬莱山は不老不死の仙人が住むと言われる伝説の山で、不老長寿ということからやはりめでたいことのシンボル。
お能の演目「蓬萊」も、おめでたい場面によく演じられる。
  茶色の大きな平石は「礼拝石(遙拝石)」と呼ばれている石で、木々の向こうに建てられている小さな東照宮に対して置かれている。
ここに東照宮があることはほとんど知られていない。
しかし天井の龍は狩野探幽(かのうたんゆう)によって描かれたもので、由緒ある建物であることが伝わる。
 ここの庭の一番の特徴は、背景の常緑樹だろう。
庭園の多くは落葉樹の楓などが植えられ、秋の紅葉シーズンには観光客が多く訪れる。
しかし、ここは深い緑の鬱蒼とした木々が茂っている。
それは常緑樹が葉が落ちないことから「永遠に続く徳川の繁栄」を表しているからだ。
一見地味に見える庭だが、そのお陰でこの庭はどの季節に来ても静かで、ゆっくりと見ることができる。
 江戸時代の京都の名所名園を紹介した「都林泉名勝図会」に載っている金地院の図を見ても、今の庭園の姿とほとんど変わらない。
江戸時代からの景色を楽しめる点でも、ここの庭はとても貴重だ。

 …後略…

(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年)

北野天満宮の「明智の鳥居」(末裔が奉納?)に気がつかなかったように
明智門」を通ったはずなのに気がつかなかった(T_T)
金地院の風景」(京都旅屋 吉村晋弥)
門の横に「明智門」の説明が書かれている…
次に南禅寺にやってきました。

 京都案内―洛中
 雲水


 禅門の寺は、同時に学堂でもある。
学僧の長を老師といい、管長とならぶ。
そのしたに、多数の雲水(うんすい)が修行する。
京都は、学生の町であるとともに、雲水の町である。
雲水の行列が、オーとよびながら、禅堂をでて、京の町まちをあるく。
京都にはいまこういう道場が七つある。
南禅寺、大徳寺、相国寺、建仁寺(けんにんじ)、東福寺、妙心寺、天龍寺である。
雲水は、だいたいは、いずれ一寺の住職にすわるひとであろうが、わかいときの荒修行である。
食事の粗末なことはおどろくばかりで、これでどうして生きてゆけるのかとおもう。
もっとも戦前は、町家(まちや)の金もちが、ときどき点心(てんじん)といってご供養をした。
雲水をなんにんか招待するのである。
もちろん寺と了解のうえであるから、この日はビフテキ、スキヤキ、テンプラ、なにをたべてもよい。
みんなじつによくたべた。
こういう、いわば合理的な習慣も、いまはどうなっているのであろうか。
(『梅棹忠夫の京都案内』梅棹忠夫 角川ソフィア文庫 2004年)

学生時代、京阪三条駅のパーラーでアルバイトをしていたときに
年配のお坊さんが、その店で一番高かったビフテキを食べておられた。
お坊さんは、贅沢だなと思ったのだけど
数年前(2017年)、篠田屋で若いお坊さんがカツ丼を美味しそうに食べていました。
若いお坊さんは、修行が辛かったのだろうなぁ
久しぶりにカツ丼を食べたんだろうなと思いました。
 史跡琵琶湖疎水のうち「水路閣」 

 疎水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年に起工され、同23年に竣工した。
 水路閣は、この疎水事業の一環として施行された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっている。
 また、ここから西500メートルにあるインクラインは、高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、当時の舟運による交通事情がよくうかがえる。
 いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施行されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものであり、昭和58年7月1日に、「疎水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。
 また、平成8年6月には、この水路閣、インクラインに加え、第1疎水の第1・第2・第3隧道の各出入口、第1竪坑、第2竪坑、明治6年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。

 2025年8月27日国宝指定

 京都市
南禅寺を回って次の所へ向かったのですが、方向音痴のσ(^^;)
地図を見てもいまいる所が???状態になったのですが、
此附近 白河院址(しらかわいんあと)」の石碑を見つけました。

 白河院(しらかわいん)並びに法勝寺(ほっしょうじ) 

 白河院は、もと藤原良房の別荘、白河別業(しらかわべつごう)であり、藤原氏北家によって代々受け継がれてきたが、藤原師実(もろざね)の時、白河(しらかわ)天皇(1053~1129)に献上され、承保(じょうほ)2年(1075)白河天皇によってこの地に法勝寺(ほっしょうじ)が建立された。
法勝寺は、尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺とともに六勝寺(りくしょうじ)と総称された寺のひとつで、東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50メートル南に囲まれた広大な寺域を有し、五大堂・八角堂・常行堂などの諸堂が立ち並んでいた。
中でも、池の中島に建つ「八角九重塔」は高さ約80メートルの壮大な塔であったといわれている。
文治(ぶんじ)元年(1185)の大地震により、九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、承元(じょうげん)2年(1208)には九重塔も落雷により焼失したが、この時は栄西禅師が大勧進(だいかんじん)となって一部再建した。
しかし、康永(こうえい)元年(1342)の火災により残る堂舎も焼失し、その後覚威(かくい)和尚によって一部再建されたが、衰退の一途を辿り、やがて廃寺となった。
     京都市

(長年の経過で文字が薄くてなっていて読みづらかったです)
今回の町歩きで一番見たかったのが…

諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址(しょきゅうにこはくあん・げんあちょうむごしょうあんあと)」の石碑です。

金森敦子さんの著書に

 第三章 旅する女性たち
 俳人諸九尼が通った道


 明和8年(1771)は宝永2年(1705)以来、数十年ぶりに大規模なお陰参りが流行した年である。
「お陰でなァ、抜けたとさア」と口々にわめきながら伊勢を目指す一団は春あたりから見かけられ、たちまち東北を除く全国に広がっていった。
この年の3月晦日に、俳人諸九尼(しょきゅうに)は芭蕉の『奥の細道』の跡を慕って、京都から奥州松島に向けて旅立っている。
 諸九尼はこの旅を終えた後に、旅で世話になった各地の俳人に配るために「秋風の記」という紀行文を著している(『湖白庵諸九尼全集』に所収)。
これを読んでいくと、記述が突然簡単になり、どこを通ったのか詳細にたどれなくなるところが出てくる。
こうした部分はどうも関所に関係があるようで、わざわざ遠い街道を迂回したりしている。
 一般の女性ならば、こんな道順をとることはなかっただろう。
しかし諸九尼には安井善兵衛という知恵袋がついていた。
善兵衛は大江丸や旧国(ふるくに)とも号した俳人で、大坂の飛脚問屋である。
大坂・京・江戸はもちろん、仙台など東国にも店を出して手広い商いをしていた島屋の主人で、善兵衛自身も東海道を往来すること70回余、諸国の街道については専門家である。
おそらく出発する前に、そうした道があることを教えたのだろう。
 諸九尼はその名のとおり夫に死別してから髪を下ろして尼になっていた。
旅に出たのは数えで58歳。
二人の男性の連れがいて、一人は遍歴の僧だが、以前に諸九尼たちと俳座をともにしたことがわかる以外、詳細は一切不明。
もう一人は善兵衛の飛脚屋で働いていた75歳の老人で、荷物持ちとして同行している。
 この一行は関所を避けるためにどの街道を選んでいったのだろうか。

 …後略…

(『江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女』金森敦子 平凡社新書 2002年)

と紹介されていて、この時代、女性が奥州へ難渋しながらの旅をしていることに驚きました。

 …つづく…