セミの声が、一層、暑さを増している(;´Д`)
声は聞えるのだけど高いところで鳴いているので姿が見えないなぁ…
「近畿地方 午前中から猛暑日 熱中症対策の徹底を」(関西NHK)セミを探しながら歩いていたら
アブラゼミがお腹を見せてクルクル回っている
寿命かなと思ったのだけど…左の翅が短い、色も違う!
無事、羽化できたのだけど飛ぶことが出来ずにクルクル回っていました。
アブラゼミの羽化ではありませんが
「クマゼミの羽化」(小学3年)目の前にスズメが降りてきたのだけど何かくわえていました。
何かなと思って近づくとスズメはくわえた獲物をそのままにして飛んでゆきました。
スズメにはかわいそうでしたが、朝ご飯にしようとしたカマキリ。
まだ翅がない子どもでしたが、カマを持ち上げて威嚇していました。
「かまきりは神仏を拝むふりして何をする?」(栃木県佐野市)前回の日記で買い物に出かけたのに
大雨で駐車場から店内に入るのを諦めて帰ったと書きました。
この頃の雨は、……
激しい豪雨ではなく日本らしい雨期になって欲しいです
八千草薫(やちぐさ かおる<俳優 1931年~2019年>)
八千草薫さんからの手紙
手紙類を整理していたら、昨年(2018年)いただいた八千草薫さんの封筒が出てきた。
読み返してみて、ここに挙げた何気ない一行にひどく心を打たれた。
台風十九号だけでなく、この数年、思いがけない雨の被害が続いている。
この国の天候がどうかしてしまったのではないか、と思わせる気象の変化である。
しとしとと降り続く静かな雨ではない。
熱帯地方のスコールを思わせる集中豪雨がゲリラ的におそってくるようになった。
庭木を賞(め)でることを楽しみしている、とおっしゃっておられた八千草さんにとっては、最近の雨は異国の現象のように感じられたのではあるまいか。
(『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』五木寛之 新潮社 2025年) 八千草さんには、私の原作のドラマで何度も大事な役を演じていただいた。
故・芦田伸介が扮(ふん)する音楽ディレクターが通う函館の小さな酒場、「こぶし」の女主人の役である。
「旅の終りに」という古風な演歌の一節に、私はこんな歌詞を書いたことがあった。
〽旅の終りにみつけた夢は
(…中略…)
それは八千草さんの演じる女主人が、ひっそりと誰を待つでなく存在する架空の酒場のイメージだった。
そしてその役は八千草さん以外には考えようがなかった。 女優・八千草薫を生き抜いた希有な存在
女優さんに限らず、政治家でも作家でもそうだが、メディアを通して私たちが思い描くイメージと、現実の人物とでは大きな落差があるものだ。
世界のトップテナー、パヴァロッティに会ったときもそうだった。
これがあの大劇場の舞台を狭く感じさせる世紀のスターかと意外に思ったものだった。
しかし、はじめてお会いしたときの八千草さんは、私たちが思い描く八千草薫そのものだった。
そして頂いた手紙の文字も、文章も、完璧に八千草薫以外の何者でもなかった。
あれも、これも、演じていたのだろうか?
人の知らない八千草薫の姿が、どこかに隠されているのだろうか?
いや、思いたくないのだろう。
女優さんなら墓場の下までそのイメージを背負って去るべきである。
そして八千草薫という人は、それを守り抜いて世を去った希有(けう)な存在だった。
その手紙の一節に彼女が書いていた言葉が、最近しきりに思いおこされる。
「日本らしい雨」とはなんだろう。
彼女が予感したのは、天候のことだけではなかったのではあるまいか。
この国の人びとの営みや、人間関係が「日本らしい」気配を失いつつあることへのため息をそこに感じるのは私だけだろうか。
彼女の死と共に、何か大事なものが失われたような気がしてならない。
…後略…
(『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』五木寛之 新潮社 2025年)「九州・西日本で大雨のおそれ 西日本を中心に猛烈な暑さに警戒」(NHK)
暑さ対策に手持ちの扇風機で涼をとる人が増えましたね…
小暑から大暑のころ
団扇(うちわ)でしのいだ暑さ
当節、新しく建つモダンなマンションで暮らしを始められた方々のところに、はたして「団扇」というものがあるかどうか。
そんなどうでもいいようなことが妙に気になることがあります。
暑さを払うための団扇、いたるところからせめてくる蚊や蠅(はえ)を追い払うための団扇。
かつては夏の必需品としてどんなお宅にもあったのが団扇です。
ところが、近年、その団扇を見ることが珍しくなりました。
団扇を必要としなくなったのです。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年) 近年の耐え難いような夏の暑さも、部屋を冷房で冷やせば快適に過ごせますし、隙間(すきま)のない網戸を張り巡らせば蚊など侵入してきません。
団扇が見られなくなったのは、そんな住居の環境が整ってきて暑さを団扇で退散させずともよくなってからのことです。 絵団(えうちわ)のそれも清十郎(せいじゅうろう)にお夏(なつ)かな 蕪村
大猫のどさりと寝たる団かな 一茶
「団」は一時で「うちわ」と読みます。
俳諧(はいかい)時代の句では多くに「団」が使われています。
ちなみに、日常使う「せんす」も「扇子」と書くのが一般的となり「扇(おうぎ)」という古い言い方をすることは少なくなりました。 蕪村の句からは、「お夏清十郎」という恋の悲劇を絵に描いた団扇があったということがわかります。
たぶん近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の浄瑠璃(じょうるり)からか、巷説(こうせつ)に語られるお夏狂乱からかが団扇絵になっていたのです。
昭和の団扇にも時の女優さんが描かれたものが出回っていましたから、団扇はただバタバタ扇ぐだけではなく、現在のテレビのドラマとかアニメとかに通じる楽しみの要素をもっていたようです。 一茶の句のおもしろさは、暑さにうだっているのが人間ではなく大きな猫であるというところにあります。
それも「どさり」と寝そべっているのです。
そんな猫に団扇風を送っているのが人間一茶です。
…後略…
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)今朝の父の一枚です(^^)/
風車の丘ではマリーゴールドとヒマワリが暑さに負けずに咲いています。
昨夜の
おとなのEテレタイムマシン
「ETV特集 命熱し 老いおもしろし 俳人・永田耕衣の世界」(1998年放送)
詩人の高橋睦郎さんが永田耕衣と長年の交流を語っていました。
その中で、紹介されていた句。
高橋睦郎さんと大岡信さんの解釈の違いが面白いなと思いました。
高橋さんの読みは番組を見てください。
少年や六十年後(ご)の春の如(ごと)し 永田耕衣
『闌位』(昭45)所収。
明治33年生まれの現代俳人。
東洋的無の立場に立つ根原探究俳句を唱えた。
句集のほか評論も多い。
この「少年」とはいったいだれだろう。
妖精のようでもあれば、隠れんぼに余念のない現実の子どもたちのようでもある。
「六十年後の春」も謎めく。
それでいて、一読忘れられない面妖な魅力がある。
時間と生命についての夢想に誘う句だからだろう。
しいて解釈するよりはこの句とともに遊ぶべきか。
…後略…
(『折々のうた 三六五日 日本短詩型詞華集』大岡信 岩波文庫 2024年)