手術跡を診ていただき,順調なので次回は三ヵ月後となりました。
また,テープ(マイクロポアテープ)も今日で終わりになりました(*^-^*)
今,読んでいるのは『岩崎航エッセイ集 日付の大きいカレンダー』(ナナロク社 2015年)
後日紹介したいと思っています。
ぜひ多くの方に読んでいただきたいエッセー集です(^_^)b
「大阪歴史博物館」にやって来ました。
途中,暑かったので休憩&エネルギー補給です(*^ー゜)
愛用のステッキとベレー帽姿で発掘現場に立つ山根徳太郎博士
山根博士については,後日,もう一つのブログで紹介したいと思います。
山根博士の視線の先にあるのが「難波宮跡と復元大極殿」
赤矢印が大極殿基壇(だいこくでんきだん)
調査のきっかけとなった瓦の発見者置塩章(おじおあきら)氏と山根博士(1965年)
(太字はパネルの説明などのからの転記です。以下同じ)
2種類の船形埴輪(ふながたはにわ)
船形埴輪は5世紀前半の例が多く,いずれも船底に丸木舟を用い,
舷側(げんそく)に板材を組合わせた準構造船(じゅんこうぞうせん)である。
船の両端が二股に分かれる二体成形船(にたいせいけいせん)
(高廻(たかまわ)り2号墳例)と
船底の突出をなくした一体成形船(高廻り1号墳例)とが存在した。
重要文化財 家形埴輪(いえがたはにわ)
家形埴輪の屋根の部分である。
入母屋(いりもや)造で,両側に突き出した破風(はふ)板や棟木が表現されている。
当時の屋根のかたちを知る上で,貴重な資料である。
法円坂(ほうえんざか)の大型倉庫
大型倉庫はこの博物館の南側の敷地で見つかった。
建物の輪郭を囲む柱だけでなく,内側にも多数の柱が並ぶことから,
高床の倉庫と考えられた。
当時の一般集落の倉庫が10~25㎡の広さであるのに対して,90㎡の面積をもつ。
いったい何が収納されていたのだろう?
(後ほど,再登場します(^▽^)…)
日本最古のまじない木簡(もっかん)
桑津遺跡(くわづいせき)で見つかった木簡には
星のシンボルとされる「日」が連なって書いてある。
これは符籙(ふろく)というもので,
中国の道教に起源をもつまじないのマークである。
この木簡には,「(符籙に続いて)文田(欠田?)の里で,
道意(人名)と白加(人名)が募(つの)る」
「(その対象は)各家の客等である。」と記されている。
今回は訪れませんでしたが「難波宮跡」を2014年4月9日に訪ねました。
下の階については2013年10月17日に訪ねた記事を参照していただけたら嬉しいです。
江戸時代初期(17世紀前半)
大坂城跡出土
銅製の印章で,ローマ字で「Dario」を表していると見られる。
キリシタン大名として知られる高山右近の
父・飛騨守(洗礼名ダリオ)のものとする説がある。
イエズス会の紋章のある青花大皿 織豊時代(16世紀末) 大坂城跡出土 中国・景徳鎮製の染付大皿で, 外面にイエズス会で使われる「IHS」の紋章が描かれている。 ポルトガル向けの製品によく見られるが, この資料は大坂城下の大名屋敷跡(当館の地下)から出土したものである。 |
近世初期の大坂と西洋文化 16世紀に西洋人が初めて日本を訪れて以来, キリスト教やさまざまな西洋文化・文物日本にもたらされた。 特に,豊臣秀吉が大坂城と城下町を建設し,流通・経済の中心地となった時期には, 数多くの製品が持ち込まれ,広まったものと考えられる。 大阪市内の豊臣期~江戸時代初期の遺跡からは, ヨーロッパで作られた製品や,それに関連する品物が見つかっている。 それらを通じて,当時の国際交流のようすや都市の経済力をうかがい知ることができる。 |
ぜひ,直接見てください!
かわいいですよ('-'*)
群犬(ぐんけん)図
江戸時代19世紀 岡田半江筆
岡田半江(はんこう(1782~1846)は,
米商人として大坂の藤堂藩屋敷に出入りするかたわら絵を描いた。
写生系の画家は獣の毛並みを精緻に描くが,
本図では主に墨の濃淡で表現し,写実のみにこだわらない,
おおらかな文人画の雰囲気を漂わせる。
和(なご)やかな犬の親子の姿に,
子孫繁栄や家庭円満の願望を投影した作品か。
諸国大阪大地震大つなみ末代噺(まつだいばなし) 安政南海地震の被害について記した瓦版。 一,二段目は地震による各所の被害状況が記されている。 二段目左端では,人々が余震を恐れて空地で 屏風などを衝立にして夜を明かす大坂市中の様子が描かれている。 三・四段目は津波による被害状況が記されている。 |
安政南海地震と安政江戸地震 嘉永7年11月4日(西暦1854年12月23日)午前8時ごろ 遠州灘沖で東海地震が発生しました。 さらに翌日午後4時ごろ紀伊半島沖で南海地震が発生しました。 大坂では,東海・南海地震そのものの被害もありましたが, むしろその後の津波による被害が甚大でした。 津波によって流され破損した船は1,000艘以上,橋も10か所で落ちました。 地震により船に避難していた人も多数遭難しました。 一説には津波だけで1,500人もの人々が亡くなったと言われています。 地震後の11月27日に「安政」に改元されたので, この地震は「安政南海地震」と呼ばれています。 安政江戸地震は翌年10月2日(1855年11月11日)午後9時すぎに発生しました。 被害状況は,町方だけで倒壊家屋14,346軒,死者4,293人とのデータがあります。 火災も発生しました。 地震後に「鯰絵」の出版が氾濫するという状況も生れました。 |
嘉永2年(1849)
緒方洪庵は,種痘(しゅとう)(疱瘡(ほうそう)の予防接種)の普及のため,
同志とはかって嘉永2年(1849),大坂に「除痘館」を設立した。
本資料はその時のもので,種痘の有効性を説き,接種を呼びかけている。
これ以降,種痘は各地に普及してゆく。
緒方洪庵和歌短冊
江戸時代後期
洪庵自筆の和歌短冊
落花
くれのこる 春は日数も あるものを
いそきしも散 やまさくらかな 章
緒方洪庵の適塾は2014年9月23日に訪ねました。
特別展
「近代大阪職人(アルチザン)図鑑―ものづくりのものがたり―」
は撮影禁止です!
なので,入口を撮しました(*^ー゜)
追加)特別展の入場券の裏は「大大阪記念博覽會入場券」(1925年)の複製でした(^_^)b
法円坂建物群5世紀の高床建物群
瀬戸内海の水運により大陸と結び,淀川や大和川をさかのぼって
古代の政治の中心である大和や河内に直結する難波(なにわ)は,
交通の要地でした。
その中心である上町台地の北端にあたるこの地から,
1987(昭和62)年に行われた発掘調査で
5世紀後半頃の巨大な建物群が発見されました。
16棟以上の高床建物が整然と建てられており,
1棟あたりの規模は桁行(幅)が約10m,梁行(奥行き)は約9mです。
面積は約90㎡と,当時としては極めて大規模な建物でした。
柱配置の特徴から,屋根の形は入母屋造りになると思われます。
建物群は東西方向に棟を揃え,厳密な計画のもとに建てられていました。
百舌鳥(もず)や古市(ふるいち)に巨大な古墳を築いた大王が,
巨大な権力を内外に誇示するためにつくったものと思われます。
6~7世紀には,この付近一帯にたくさんの建物が建てられるようになります。
難波津(なにわづ)と呼ばれる港を中心として,
このあたりは物資の一大集散地として発達しました。
また中国や朝鮮からの外交使節を迎えたり,
遣隋使や遣唐使が発着するなど,
海外に開かれた玄関として古代史上に重要な位置を占めました。
お昼は暑かったので「辛味そば」の大盛(+160円)(*^▽^*)
Kazeが入った時は,相席でしたがすぐに座れました。
その後は,次々とお客さんが来て順番待ちをされていました。
「守破離(しゅはり)」
大坂は饂飩で江戸は蕎麦のイメージがありますが
そうとは限らないのですよ(*^ー゜)
一等水準点(第230号)
水準点は,土地の高さを測定する場合の基準を与える標識で,
標高が精密に測定されています。
全国の主要道に沿って約2kmごとに設置され,各種公共事業の高さの基準,
地震予知研究や地盤沈下による地盤変動の監視に重要な役割を果たしています。
この水準点の標高と位置は,
標高 17.3770m
緯度 34度40分54秒
経度 135度31分 4秒
平成14年4月1日
国土交通省 国土地理院近畿地方測量部
一駅分歩きましたが,もう暑い暑い…
そう言えば天満橋駅にジュースのお店があったなと…
「熊本県天草産ばんかん使用 ばんかんと蜂蜜柚子酢」
「熊本」という文字に(*゜∀゜*)