2021年2月14日日曜日

いつまで続くんだろう…

目がさめて布団の中で、携帯でニュースをチェックすると
震度6強の地震があったんだ…
去年までは震度5以上だと通知メールがきたのだけど
今年から通知があるのはスマホだけになっているので、目が覚めるまで気がつかなかった。
あれから10年経つんだけど、
2011年に東日本大震災を引き起こした巨大地震の余震だとか…

今日は、晴れたけど、明日、天気が崩れるので被災地の方が心配です。

関東~東北 あす強い雨のおそれ 地震影響で土砂災害の危険性」(NHK)
 歴史秘話ヒストリア「日本人と大災害 先人はどう向きあってきたのか」(2月3日放送)の
エピソード3「関東大震災 教訓を受け継ぐために
1923年の関東大震災、1946年の南海地震。
その発生前から危険を訴えていたのが、東京帝大で地震を研究していた今村明恒(いまむら・あきつね)です


明治38(1905)年、雑誌太陽に
過去の大地震が平均100年に1回の割合で発生しており、
直近の大地震からすでに50年を経過していることを踏まえると、
今後50年間に大地震に見舞われることを覚悟しなければならないこと

などを発表しました。
(「今村 明恒 Akitsune Imamura」総務省消防庁)

その関東大震災から100年近く経っています。
番組を見ながら父が「稲むらの火」を習ったと話していました。
安政江戸地震について2020年10月2日の記事で紹介しましたφ(..)
東北地方の震災の時に「想定外」という言葉が責任逃れの言葉としてまかり通っていました。
福島第一原発の事故は、想定できたのに
津波の備えの予算を少しでも減らそうとした経営判断が引き起こした人災だと思います。
江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』より津波について転記しますφ(..)
第1章 徳川日本の成立と災害
 慶長三陸地震津波


 慶長16年(1611)3月27日、秀吉が擁立した後陽成(ごようぜい)天皇が譲位し、後水尾(ごみずのお)天皇が即位する。
翌28日、家康は秀頼(ひでより)を二条城に呼び出して会見した。
家康が秀頼を臣従させるための儀式であったと諸大名には受けとめられた。
4月12日、家康は在京の大名衆を二条城に集め、三か条の「条々」を示し、これに対する誓紙を提出させる。
これより先の慶長10年、家康は将軍職を息子の秀忠(ひでただ)に譲り大御所となっていたが、全国統治のために家康の存在は欠くことができなかった。
この年以降、徳川幕府の支配体制が一段と強化され、豊臣側の孤立は深まった。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
  慶長16年には、東北地方で地震が連続する。
 まず8月21日にM6.9の会津(あいづ)地震が起きる。
若松(わかまつ)城の石垣がことごとく崩れ、天守も破損した。
領内の潰家(つぶれや)は2万余戸、死者は3700人にのぼったと伝えられる。
地震の揺れにより領内各地で山崩れが発生し、会津盆地を流れる大川は土砂でせき止められた。
村や耕地が水没し、「四方七里(約28キロメートル)」という山崎(やまざき)湖が出現した。
この湖の水を抜いて耕地を復元するために、会津藩は30年以上を要したという〔『家世(かせい)実紀』〕
 ついで10月28日に三陸地方で地震津波が発生する。
M8.1。
地震による被害の状況はよくわからないが、津波の被害は甚大で、仙台領では溺死(できし)者1783人、牛馬85疋溺死と伝えられ、『駿府記(すんぷき)』には南部(なんぶ)・津軽(つがる)地方の海辺で人馬3000余が溺死したと記されている。
11月晦日(みそか)、伊達政宗(だてまさむね)は駿府を訪れて家康に初鱈(はつたら)を献上した。
あいにく家康は不在であったが、政宗から聞いた話を幕府金座の主宰者で家康の側近でもあった後藤庄三郎(ごとうしょうざぶろう)がのちに家康に伝えた。
 地震の当日、政宗は肴(さかな)を求めて侍二人を遣いに出した。
二人が漁師に命じて釣舟を出そうとしたところ、漁師は、今日は潮の様子が異常だから舟を出すのは難しい、と拒んだ。
これを聞いて侍の一人は出漁をやめたが、もう一人は主命を請けながらそれを行なわなければ、主君をあざむくことになると、漁師六、七人を強要して海に出た。
数十町も沖に出たとき、海面が天まで盛り上がり、大波が山のようにやって来て、肝(きも)も魂(たましい)も失うほど驚いた。
それでも舟は沈まず、やがて平らなところに出た。
心を静めて目を開くと、漁師が住む村近くの山上の松の木の傍らであった。
この松に舟を繋(つな)いで、波が引いてから見てみると、繋いだのは松の梢(こずえ)であった。
下山して村に帰ると、一軒の家も残らず流失していた。
とどまった侍も残った漁師も逃げられずに水死した。
主命に従って沖に出た侍に政宗は俸禄を与えたという。
 政宗の話した松は千貫松と呼ばれ、伝承を伝える千貫山が今に残る。
同じような「舟繋ぎ」の伝説は他所でも伝えられるから、この話は政宗の法螺(ほら)だという説もあるようだ。
真偽は確かめようもないが、このした伝承がそれを伝える地名やモノとともに土地の人によって語り継がれてきたことが重要だ〔『歴史としての東日本大震災 口碑伝承をおろそかにするなかれ』岩本由輝編 刀水書房 2013年〕。
 「津波」という語の登場

 やはり政宗が家康側近の筆頭である本多上野介正純(ほんだこうずけのすけまさずみ)に語ったところによれば、彼の領内の溺死者は「五千人」。
海辺の人家は悉(ことごと)く波に流された。
これを「世に津波と曰(い)う」と『駿府記』にある。
この記事が地震による「津波」という語の初見とされている(【写真1】省略)。
『日本災変通志』を著した池田正一郎(いけだしょういちろう)によれば、それまでは津波のことを「大潮(おおしお)」「高潮(たかしお)」「暴潮(ぼうちょう)」「暴漲(ぼうちょう)」「高浪(たかなみ)」「逆浪(さかなみ)」「海嘯(かいしょう)」などと呼んでいたという〔池田正一郎『日本災変通志』新人物往来社 2004年〕。
いずれも海浪の異常な様態を示すだけで、特定の言葉は使われていない。
 それに対して「津波」という語は「津」に力点がある。
「津」は湊(みなと)のことであり、大波で湊が襲われることを指している。
戦国時代の語彙(ごい)で書かれた『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』では、川の洪水で河湊(かわみなと)が流されることを「津波」と呼んでいる。
もともと人的被害を意識した言葉であったろう。
それが地震の大波による湊や海辺村の被害にも使われるようになる。
『駿府記』には「世に曰う」とあるから、民間でまず使われるようになったのだろう。
地震による大波は、高波一般と比べようもないほど激しい。
その経験を伝えるには固有の言葉が必要だ。
「津波」は、地震による高波を指す語として江戸時代を通じて次第に社会に受け容れられていく。
中国由来の語である「海嘯」という文字にも「ツナミ」とふりがなが付けられるようになる。
  慶長期は大きな地震や津波が集中した時期であった。
自然の脅威になす術(すべ)もなく身を任せている部分も少なくないが、その経験を記憶として伝えようとする努力も始まっている。
災害に対する民間での社会的対応の様子が記録に現れるようになる。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
2月14日はバレンタインデーで、数日前からチョコレート売り場が賑わっていると思います。
私もチョコレートが好きで、ほぼ毎日、食べています。
チョコレートの原料カカオは中南米原産ですが、世界に広がった歴史を知るのも大切かなと思います。
チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』より黒人奴隷との関係を見たいと思います。

今月の100分de名著「黒い皮膚・白い仮面」ファノンにも関連すると思います。

また、現在でも子どもたちが労働力として使われています。
チョコレートと児童労働」(「世界の子どもを児童労働から守るNGO ACE〔エース)〕
1章 カカオ・ロードの拡大
 2 パラダイスからの旅立ち
 新世界での成長

(前略)
 カラカスのカカオ農園では、当初はインディオの労働力を利用していたが、1630年代には黒人奴隷を使うようになった。
アフリカから奴隷貿易で連れてこられた人々である。
17世紀にカラカスのプランテーションの主要労働力は黒人奴隷に切り替わっていった。
(『チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』武田尚子 中公新書 2010年)
 グアヤキルやカラカスなど、遠隔地からメキシコへカカオが運びこまれるようになって、カカオを取り扱う白人のカカオ商人が17世紀に成長した。
メキシコ・シティ市内にカカオを貯蔵する倉庫を構え、各地のカカオ・プランターから買い付け、市中に卸していった。
カカオ商人の仲介によって、メキシコ・シティにおけるカカオ取引量は増加した。
1638年には、取引額は年に50万~100万ペソに達するようになった。
拡大するカカオ市場に出荷するため、カカオのプランターたちは黒人奴隷の恒常的な買い入れを望んだ。
黒人奴隷によってカカオの植栽が進められ、カカオ産地は発展した。
カカオ商人たちは、奴隷貿易にも関与するようになっていった。
 カリブ海諸島でカカオ栽培を広げたのはフランス人である。
フランスは1635年にマルチニーク島を獲得、植民地化した。
1660年ごろに、マルチニーク島にカカオが植栽され、1679年にはマルチニーク産カカオが本国にもたらされた。
つづいて、1684年には南米本土のスリナム、1734年にはガイアナにもカカオ生産が広がった。
 同時期にフランスはカリブ海のサン・ドマング島(エスパニョーラ島。現ハイチ)などで、砂糖プランテーションの経営を積極的に進め、「カリブ海の真珠」と称されるほどの成功を収めた。
アフリカから黒人奴隷の労働力を移入し、植民地における特産物の生産基盤を築いたのである。
 ブラジルのバイア地方のカカオ栽培とサントメ島の栽培には次ようなつながりがある。
ブラジルも、サントメ島、プリンシペ島も、すべてポルトガル植民地である。
サントメ島、プリンシペ島は、ポルトガルの奴隷貿易のアフリカにおける中継港だった。
アフリカからブラジルへ移送された黒人奴隷は、1538~1850年の300余年で350万~500万人に及ぶ。
バイア州の州都サルヴァドルは、大西洋に面し、ブラジルにおいて黒人奴隷を最も多く受け入れた港である。
黒人奴隷の労働力をベースに、ブラジル・バイア地方のカカオ栽培は成長した。
アフリカからの黒人奴隷が移送された逆ルートで、カカオの苗が南米からアフリカの島へ移植された。
カカオ産業が成長する以前に、宗主国ポルトガルはブラジルや、サントメ島で、黒人労働力を活用して、砂糖プランテーションを成長させた。
砂糖とカカオの生産地はほぼ重なっている。
(後略)
 3海を渡る褐色の双子――カカオと砂糖
 褐色の涙――大西洋三角貿易

(前略)
 大西洋三角貿易は、およそ次のように行なわれた。
ヨーロッパの港から、貿易船が武器、繊維製品などを積んで出発した。
大西洋を南下して、アフリカ西海岸に到着すると、これらの品物を、黒人奴隷と交換した。
アフリカ西海岸では黒人指導者による「奴隷狩り」が常態化していた。
黒人王国の指導者層は白人に懐柔されて、武器を持って「奴隷」を狩り集めていた。
黒人奴隷を乗せた船は、大西洋を横断し、中南米・北米に到着すると、労働力として白人のプランテーション経営者に売った。
プランテーション経営者は、黒人奴隷が疲労で亡くなると、また次の奴隷を買い入れた。
空になった船に、新世界の産物を積み込んで、ヨーロッパの母港に帰着した。
奴隷貿易を行なったのは、アフリカに拠点を確保していたポルトガル、イギリス、フランス、オランダなどである。
 ヨーロッパ諸国は、中南米・北米、アフリカ、アジアに植民地を獲得し、ヨーロッパに富が蓄積される世界的な分業体制、いわゆる近代世界システムを形成した。
新世界のプランテーションで働く労働力を確保するため、アフリカから連れて来られた奴隷は数千万人に及ぶ。
新世界からヨーロッパに運ばれた産物は、褐色の肌の人々の涙が生み出したものだった。
奴隷貿易を廃止したのは、イギリスは1807年、フランスは1848年、オランダは1863年である。
(後略) 
(『チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』武田尚子 中公新書 2010年)
今朝の父の一枚です(^_^)v

 カワラヒワは異常なほどヒマワリが好き

 ヒマワリは、真夏の太陽エネルギーを見一杯受けて花を咲かせ、たくさんの種子を実らせます。
栄養価の高いヒマワリの種は動物たちに大人気で、ハムスターだって、メジャーリーガーだって、もちろん鳥だって大好きです。
とくにスズメ、ヒヨドリ、キジバト、カラ類といった鳥たちがヒマワリの種を好んで食べます。
 鳥のなかで、おそらくもっともヒマワリへの執着が強いのがカワラヒワです。
ヒマワリの種子が熟しはじめてから収穫後まで、毎日欠かさずヒマワリ畑にやってくる姿が観察されたこともあります。
食べる際は、花の上側から下に向ってきれいに食べ進め、完全に花が下を向いてしまっても、器用にとまって端から端まで食べ尽くします。
これはスズメやキジバトにはまねのできない技巧のようです。
(後略)
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)