2021年2月28日日曜日

2月も終わり

空が暗く、風の冷たい朝でした。
それでも歩いているうちに体が温まり一枚脱ぎました。
明日から3月、もう春ですね(^^♪
 ヒヨドリを見ていてホ~ッと思ったのが、サンシュユの花を食べていました。
ヒヨドリは、欲張りで何でも食べる子なのですが
昨日は、カワラヒワがサンシュユの花を食べていました。
赤い実は、野鳥にあまり人気がなく、いつまでも残っているのに、花は、美味しいのかな?
サンシュユ
 ミズキ科(中国,朝鮮半島原産)
ヒヨドリ、ムクドリ、オナガなど
 庭や公園などに、早春に咲く花木として多く植えられている。
年によって、実がつく年とつかない年が明らかにある。
10月頃に赤く熟すが、熟しても多くの鳥が喜んで採食しているとは思えない。
ヒヨドリとオナガは少し食べるが、他の鳥は本当にまれに採食する程度である。
口に入れるとほのかに甘く、おいしい。
生食に他には果実酒にする。
(『野鳥と木の実』叶内拓哉 文一総合出版 2006年)
毎日新聞のTwitterに

28日に先行解除される6府県の緊急事態宣言。
専門家は「なんでいつもこうなっちゃうのか。数日待てないのかって話だよね」
と不満をくすぶらせていました。


「なぜいつもこうなる?」 宣言解除の決定直前、専門家は言った〟(毎日新聞 2月27日)

変異ウイルス、初めて大阪で確認…国内で計178人に」(読売新聞 2月22日)
外国から入ってきたのではなく、国内で変異したと考えるべきではないかな?
次の波がくるとどうなるんだろうと不安になるのだけど
Shoko EgawaさんのTwitterに

トランプ前米大統領が「フェイクニュース」という言葉を歪めたように、
維新は「ファクトチェック」についての人々の理解を歪めかねない。
非党派性・公正性でアウト。
反論であり、ファクトチェックの体をなしていない


しかも、その内容は、事実と異なる点を挙げるのではなく、言い訳というか、弁明。
ファクトチェックではなく、「市民からの指摘への弁解」としたらどうか?


維新が「ファクトチェック」開始 推進する法人は問題視〟(朝日新聞 2月27日)

知事の「イソジン」の有効性や市長の「雨合羽」をどのように利用したのか、
愛知県知事リコール運動の事務局長をしていた維新元県議会議員の検証をしたうえで、
ファクトチェックの維新モデルを示してほしいです。
 高須力弥さんが以下の記事を紹介していました。

大村愛知県知事へのリコール署名問題は日本の民主主義を揺るがす大事件だ」(米山隆一 前新潟県知事 論座 2月27日)

たしか、大阪府知事は応援に行きたいくらいだと発言していたと思います。

戦前・戦中に受けた弾圧を忘れているのかと思っていたけど

【主張】文化芸術の振興 「表現の自由」の礎あってこそ〟(公明党 2020年4月30日)
NHK〝いけず〟な京都旅 
異界がいっぱい 濃縮版 「ヒミツの世界への扉が京都にはたくさん...」
で、最後に百鬼夜行が登場していました(^_-)
『今昔物語集』から百鬼夜行が登場するお話を転記しますφ(..)
第8部 仏法
 京の町で百鬼夜行にあう話

 今は昔のこと、延喜(えんぎ)の御代(醍醐天皇の朝の年号、ここは貞観のあやまり)に、西三条の右大臣と申す人があった。
名を良相(よしすけ)と言った。
その大臣の御子に、大納言の左大将で常行(つねゆき)という人があった。
その人は成長するまで元服せずにおられたが、若君のころからりりしい男前で、好色の念が強く、女を愛すること並びもなかった。
そこで夜ともなれば、屋敷を出てあちこちの女のもとへ通うのが慣わしだった。
(『今昔物語 日本の古典』福永武彦訳 ちくま文庫 1991年)
 ところで大臣の屋敷は、西の大宮大路よりは東、三条よりは北にあって、西三条といわれていたが、この若君は東の京にかねて可愛く思っている女があったので、しばしばそちらの方角へ出かけた。
両親から夜歩きは固く禁じられていたので、誰にも知らせず、侍(さむらい)から馬を借り、小舎人童(こどねりわらわ)を一人、馬の口取りの舎人(とねり)を一人、供につけただけで、大宮大路をのぼって東のほうへと曲って行った。
するとやがて美福門(びふくもん)の前を通り過ぎる時に、東の大宮の方向から、おおぜいの人々が、火を点(とも)し、声高にののしりながら来るのに出会った。
  若君はこれを見て、
「こいつはまずい。誰が来るものやら、ひとつ何処かへ隠れなければ」
と言うと、小舎人童が、
「昼のうちに見たところでは、神泉苑の北門があいているようでございました。そこにはいって戸をしめてしばらくお待ちになれば、やり過ごすことができましょう」
と教えたので、若君は喜んでそのあいている北門に馬を乗り入れ、馬から下りて柱のもとにしゃがんで様子をうかがった。
 そこに火を点(とも)した行列が、門の前を通り過ぎた。
何者かと思って、戸を細めに開いてのぞいてみると、何と人間ではなく鬼どもではないか。
どれもこれも恐ろしげな姿かたちをしている。
ああ鬼どもだ、と思えば怖さも怖し、ぼうっとなったきり頭をかかえてその場にうずくまった。
気も転倒しているが、鬼どもが通りすがりに話しているその声だけは、はっきりと聞き取れて、
「ここのところで人間くさい臭いがするぞ。引っ摑まえて来よう」
と言うや、こちらに向けて一人走り寄って来る。
わが命もこれまで、と観念して目をつぶっていると、途中からもとへ戻って行った様子。
 また声がして、
「どうして引っ摑まえなかった?」
と言うのに、さっきの声が、
「どうも摑まりません」
と答えている。
「なぜ摑まらないのだ? さっさと摑まえて来い」
と命じたのに応じて、また他の鬼が走り寄って来た。
これも前のと同じく、近くまで来ずに戻って行ってしまった。
「どうした、摑まえたか?」
と言うのに、
「どうしても摑まりません」
と返事している。
「怪(け)しからんことを申すな。それならおれが引っ捕えてみせる」
と言って、下知していた頭(かしら)ぶんらしい鬼が走り寄って来ると、以前の者よりもずっと側まで近づいて、すんでで手が届くところまで来た。
これでもうおしまいだ、と観念するうち、ふしぎやまたもとのほうは走り去った。
「どうだった?」
と問う声に、
「摑まらないのも、まったく道理だ」
と答えている。
「それはどうしてだ?」
との問いに、その鬼が、
「尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)のおわしますためだ」
と答えるや否や、数多い松明の火が一度にさっとかき消された。
と、東西に向けてばらばらと走る音がして、怪しい者どもはすべて走り去ってしまった。
しかしこの時になって、かえって髪の毛も逆立つほど恐ろしくなり、しばらくの間、茫然自失していた。
 しかしいつまでもこのままではいられないので、気を取りなおすと、夢中になったまま馬にまたがって西三条の屋敷に帰った。
自分の部屋にはいったが、気分がひどく悪いので、蒲団(ふとん)をかぶって横になった。
身体じゅうがぞくぞくして熱も出た様子である。
 乳母が心配して、
「どちらへお出ましになりましたか?」
ときくが返事もできない。
「殿様があれほど夜歩きはならぬと日ごろおおせられていますのに、こんな夜更(ふ)けにお出ましになったと聞かせられたら、どんなにか御心痛でございましょう」
と言いながら、身体をさすってやると、熱があるらしくかっかとほてっている。
「こんなに熱まで出て」
と、乳母はおろおろして涙声になった。
  そこで若君が今夜の様子を物語ったの、乳母は、
「それはふしぎなことでございます。昨年のこと、わたくしが兄の阿闍梨(あざり<僧の学位>)に申して、尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)を書かせ、そのお札をあなたさまのお召物の頸(くび)のところに縫い込んでおきましたが、これこそその功徳(くどく)でございましょう。もしもそれがなかった時のことを考えますと」
と言って、若君の額に手を当てて、うれし泣きに泣いた。
 こうして三四日ばかり高熱が続いたから、両親も心配して、加持祈禱をはじめとしてさまざまに看護に手をつくした。
ようやく四日目に気分もおさまった。
その時なって暦を見ると、例の夜は、人間が夜出歩いてはならぬ百鬼夜行の日に当たっていた
  これを思えば、尊勝陀羅尼の霊験はきわめて尊いものがある。
それゆえ、必ず大事な人の身に添えて持たせておかなければならぬ。
若君も、この尊いお札を着物の頸に縫い込んであることは、御存じなかったのである。
当時の人たちは、この話を聞いて、尊勝陀羅尼を書いて身の守りにした、という話である。
   (巻十四第四十二話)
西三条の右大臣」 藤原冬嗣(ふゆつぐ)の第五子で、参議、左大弁、右大将、右大臣を歴任して、貞観9年10月10日、年55で死んだ。

例の夜は、人間が夜出歩いてはならぬ百鬼夜行の日に当たっていた」 原文には「忌夜行日に当たりけり」とある。百鬼が夜行するという日があって、その夜は外出してはならなかったのである。その日は、正月・二月は子(ね)の日、三月・四月は午(うま)の日、五月・六月は巳(み)の日、七月・八月は戌(いぬ)の日、九月・十月は未(ひつじ)の日、十一月・十二月は辰(たつ)の日であった。
(『今昔物語 日本の古典』福永武彦訳 ちくま文庫 1991年)
尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)
 <仏頂(ぶっちょう)尊勝陀羅尼>の略。
<延寿(えんじゅ)陀羅尼><善吉祥(ぜんきちじょう)陀羅尼>ともいう。
仏陀の特徴を示した三十二相のうちの頭頂の肉髻(にっけい)を仏格化した仏頂尊の功徳(くどく)や境地を讃える内容で、滅罪(めつざい)・延命・厄除に効験があると伝える。
中国では7世紀末頃、仏陀波利(ぶっだはり)三蔵がインドから五台山へ将来したという信仰のもとに大流行し、それを刻んだ石造の尊勝幢(どう)が多数建立された。
漢訳・チベット訳など文献資料が多いが、現行のものは『尊勝仏頂修瑜伽軌儀』のそれに近い。
サンスクリット原本は法隆寺に伝来保存されている。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
河津桜にメジロがきていました。
私が行ったときには、出会いませんでした(^-^;
昨日は、河津桜やアンズ、梅を訪れているメジロに会えたのに、
今朝は、一度も出会えませんでした(-_-;)
1時間ほどの散歩では、野鳥に会えないことのほうが多いです。
歩き続けていると、息が上がるので休憩するために何でも撮影しています。
そのため、訪問していただいている皆さんには、わけの分らない写真もあると思います(^^ゞ