2021年2月2日火曜日

節分

朝、出ようとしたらまだ小雨が降っていて空が暗かったです。
で、今日は50mmマクロレンズで出かけました。
公園についてしばらく歩いているうちに青空も見えてきました。
風が強かったのですが、日ざしが降ってきたのでポカポカしました。

2日夕方から気温が急降下 帰宅遅い人は注意」(えりの気象日記 2月1日)
 Eテレ2355でとびはぜのトビーが

明日は節分。
恵方巻もいいけど、
僕は伝統の「豆」派。
歳の数食べると、おなかがくるし~。
えっ、何粒食べるのって?
さてね~。


今朝のEテレ0655のオープニングでは

節分は立春の前日とされていますが、
今年は暦のずれがあり、
立春が2月3日、
そして節分が今日2月2日になります。
ちなみに節分が2日になるのは
なんとなんと124年ぶりなんですよ。
ということで、鬼は外!福は内!

鬼は、地域によっていろんな伝説があり、姿もいろいろですが
お盆の時期に踊られる岩手県の鬼剣舞(おにけんばい)の面には角がありません。
「鬼」というものの「仏さま(明王)」を表しているからだそうです。
鬼剣舞の由来」(岩手県北上市)

宮沢賢治の詩に「原体剣舞連(はらたいけんばいれん)」があります。

剣舞の歌」(宮沢賢治の詩の世界)
剣舞(けんばい)【民】
念仏剣舞。
鹿踊りと同様に岩手県に広く分布、それぞれの町村名等を冠して保存されている郷土芸能。
笛・太鼓・鐘等の囃方(はやしかた)に8~10数名の踊り子で組を作り、お盆に各家の仏に回向(えこう)供養をして回り、かつては町へも門付(かどつけ)に繰り出した。
踊りは浄土信仰の所産である南無阿弥陀仏を唱えつつ踊る念仏踊りに、修験道(しゅげんどう<山伏(やまぶし)>)の呪術的な所作(しょさ)が併合されて芸能化されたものと言われる。
地域によって鬼の面をかぶる鬼剣舞、少女の踊る雛子(ひなこ)剣舞、鐙(あぶみ)をつける鐙剣舞等、いろいろな種類がある。
(『新宮澤賢治語彙辞典』原 子朗 東京書籍 1999年)
賢治が1917(大正6)年の秋の江刺(えさし)郡土性調査の旅の途中で出会った原体剣舞(原体村<はらたいむら>)、上伊手(かみいで)剣舞は、江刺地方で少年によって踊られる羽根子(はねこ)剣舞と言われるもので、初めて見るこの剣舞に強烈な感動を受けた。それが歌[原体剣舞連][火がかがやいて]等のダイナミックな詩的再現となり、短編[泉ある家]や童話[種山ヶ原]、劇[種山ヶ原の夜]等の題材となっている。
むろん、初体験以後、賢治は剣舞を数多く見ているはずで、それが独自のリズミカルな形象化となり、かつ土俗のエネルギーと彼内面のデモニッシュな修羅意識が一体となって昇華されている。
なお、詩[塚と風]に「神楽の剣舞のやうに」とあるのは「神楽(しんがく)」と称する剣を持って踊る山伏神楽(かぐら)の踊りのことで、剣舞自身はこの「神楽」の影響も強いとされていはいるが、ここで言う剣舞とは、別のものであろう。
(『新宮澤賢治語彙辞典』原 子朗 東京書籍 1999年)

この辞典は筑摩書房より復刊されています。
定本宮沢賢治語彙辞典』(2013年)
   欲といふ鬼が豆打世成けり  高桑闌更(らんこう)

 立春の前日が節分で季節の変わり目である。
各家庭では「福は内、鬼は外」と唱えながら豆をまく。
悪鬼を払い疫病(えきびょう)を除くための年中行事である。
掲出句は江戸中期に活躍した俳人の作、主客転倒しているところが痛烈な風刺。
鬼は人間生活を脅(おび)かす想像上の怪物だが、変化自在なのが特色である。
本来、追っ払われるべき当人が豆を打つとは、追っ払われるのは良心的な庶民の方である。
悪い奴ほどよく眠るとはよく言ったものだ。
あるいは<欲という鬼>は江戸の昔だけでなく、今日的存在としてもめずらしくない。

 1726~1798 金沢生まれ。晩年京都芭蕉堂に住む。句集『半化坊発句集』。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)
伝道の書
 第 九 章


一   わたしはこのすべての事に心を用いて、このすべての事を明らかにしようとした。すなわち正しい者と賢(かしこ)い者、および彼らのわざが、神の手にあることを明らかしようとした。愛するか憎むかは人にはわからない。彼らの前にあるすべてのことは空(くう)である。
二  すべての人に臨(のぞ)むところは、みな同様である。正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、清(きよ)い者にも汚(けが)れた者にも、犠牲をささげる者にも、犠牲をささげない者にも、その臨むところは同様である。善良な人も罪びとにも異(こと)なることはない。誓いをなす者も、誓いをなすことを恐れる者も異なることはない。
三  すべての人に同一に臨むのは、日の下に行われるすべての事のうちの悪事である。また人の心は悪に満ち、その生きている間(あいだ)は、狂気がその心のうちにあり、その後(のち)は死者のもとに行くのである。
四  すべての生ける者に連(つら)なる者には望みがある。生ける犬は、死せるししにまさるからである。
五  生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報(むく)いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。
六  その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。
(『旧約聖書 1955年改訳』日本聖書協会 1969年)
七  あなたは行って、喜びをもってあなたのパンを食べ、楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい。神はすでに、あなたのわざをよみせられたからである。
八  あなたの衣(ころも)を常(つね)に白くせよ。あなたの頭に油を絶やすな。
九   日の下で神から賜(たま)わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮らすがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。
一〇 すべてのあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行(ゆ)く陰府(よみ)には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。
一一  わたしはまた日の下に見たが、必ずしも速い者が競争に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。しかし時と災難はすべての人に臨(のぞ)む。
一二 人はその時を知らない。魚(うお)がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む刻、それにかかるのである。
一三  またわたしは日の下にこのような知恵の例を見た。これはわたしにとって大きな事である。
一四 ここに一つの小さい町であって、そこに住む人は少なかったが、大いなる王が攻めて来て、これを囲(かこ)み、これに向って大きな雲梯(うんてい)を建てた。
一五 しかし、町のうちにひとりの貧しい知恵のある人がいて、その知恵をもって町を救った。ところがだれひとり、その貧しい人を記憶する者がなかった。
一六 そこでわたしは言う、「知恵は力にまさる。しかしかの貧しい人の知恵は軽(かろ)んぜられ、その言葉は聞かれなかった」。
一七  静かに聞かれる知者の言葉は、愚かな者の中のつかさたる者の叫びにまさる。
一八 知恵は戦いの武器にまさる。しかし、ひとりの罪びとは多くの良きわざを滅ぼす。
(『旧約聖書 1955年改訳』日本聖書協会 1969年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
迫力ある写真が撮れて喜んでいました♪

カワセミの脚は極端に短い
 長いから偉いというわけではないですが、脚は長いほうがモテます。
重心が高いと転びやすくてさぞ不便でしょうね、なんて、もちろん負け惜しみです。
とはいえ人間の脚の長さの個人差など、鳥界の脚の長さの多様性に比べればたいしたものではありません。
 カワセミは青く美しい鳥で、バードウォッチングで人気のある種です。
この鳥の名は漢字で翡翠と書き、同名の宝石の名の由来ともなっています。
しかし、その脚を観察するのは容易ではありません。
なにしろ極端に短いのです。
 サギやツル、クイナのなかまは、ジュディも夢見るあしなが鳥さんで、水辺や草地などで生活しています。
水や草に邪魔されずに移動するには、長い脚が不可欠です。
鳥のなかでもとくに脚が長いセイタカシギやヘビクイワシも、それぞれ水辺と草地にすんでいます。
脚の短いカワセミもやはり水辺にすんでいますが、彼らの採食方法は空中からの飛びこみです。
空中から急降下して翼をたたみ、長いくちばしで魚に襲いかかります。
もしも脚が長ければ、水の抵抗が大きく失速するでしょう。
美しい流線型を実現する短足は、優美な漁師の証拠なのです。
 カワセミは、ときに1mにもなるトンネルを川辺の崖に掘り、その中に営巣します。
もしも脚が長ければ、細いトンネル内を歩くのは至難の業です。
この空間では、短足ことが機能的なのです。
彼らにとって脚は、短ければ短いほどカッコよいのです。

つぶやき)
ヤマセミやアカショウビンなどもカワセミのなかまだよ。
古くはカワセミを「ソニ」とよんでていて、それが「セミ」「ショウビン」にそれぞれ変化したといわれているよ。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)