2026年8月13日木曜日

谷の清水~庚申堂~釣鐘屋(8月11日)

前来た時は、目的地の後に訪ねたのだけど…
道を間違えて違う方向から来てしまった(°°;)
 谷の清水 一名 清水の井戸 

天明9年(1789)の「摂州大阪地図」に本清水としてこの井戸の所在が示され「摂津名所図会」には谷の清水、庚申堂の南一丁ばかりあり、清泉にして甘味なり四天王寺名水の其の一なりと云ふと出ている。
この地の旧字名、清水はこの井戸から出た名であって今一般には清水の井戸と呼ばれている。
この清水の元井戸は西南方崖上にある噴井でその湧水を土管を地下に通して導き
戦後冷房用の地下水のため水がとまってしまった。
清水地蔵尊はいつごろつくられたか不明であるが
明治32年と明治43年両度の清水改築記念碑がたっている。

 谷の清水地蔵尊 ご真言(三返)

オン。カカカビ。
  サンマエイ。ソワカ。

(字がかすれていたので読み間違いがあると思います)
前は、苦労せずにたどり着いたのだけど途中で道を聞きました。
聞かなかったらさらに別方向に歩いていた(;´Д`)
手押しポンプがありました「TB式自在口共柄ポンプ<通称:ガチャポン>かな? 
懐かしいので
ゆっくりと押すとちゃんと水が出ました(^_^)v
まだまだ熊本では断水が続いています。
以前、転記しましたが

井戸ポンプ 「懐かしい形」も一社からはじまった

 …前略…

 井戸ポンプは懐かしさだけでなく、電力を必要としないため、災害時にも役に立つ。
阪神大震災時にはその役割を見直され、以降、公共施設には井戸ポンプを新設していく流れができている。
近年設置された新しい井戸ポンプとともに、人と暮らしを支えて親しまれてきた古い井戸ポンプも、これからも残っていくのだ。
いつまでも。
(『街角図鑑』三土たつお他 実業之日本社 2016年)
庚申堂茶所 立江地蔵尊

立江地蔵尊は、古来、眼病に霊験ありと篤く信仰されているお地蔵さまだそうです。
庚申堂本堂も1945年の大阪大空襲で焼失しました。

本堂は元和4年(1618 年)建立されたお堂であったが、昭和 20 年(1945 年 ) の空襲で焼失し、現在の建物は、昭和 45 年(1970 年)大阪万博に造られた休憩所・法輪閣を移築したものである」(28.四天王寺庚申堂 大阪市)
五帝夜叉守(ごたいやしゃまもり)」(四天王寺授与品紹介 お守り001
白帝夜叉(西方)・靑帝夜叉(東方)・黄亭夜叉(中央)・黒帝夜叉(北方)・赤帝夜叉(南方)
それぞれ5色の石を選び袋の中に入れました(妹へのお土産)。
本堂でいただいたプリントに

 庚申まいり 庚申堂名物 無病息災北向き蒟蒻
(こんにゃく)

摂津名所図会の庚申会に、松の下で何かを食べている人が描かれています。
これは「北向き蒟蒻」といわれる庚申堂名物です。
蒟蒻は古くから、食物繊維が豊富で胃や腸を綺麗にする働きがあるとして食され「胃のほうき・砂おろし」と呼ばれておりました。
身を清めることを目的として食べていた蒟蒻はいつしか体を清浄に保ち「無病息災」を叶えるモノとして庚申堂で信仰され続けております。

次回庚申まいり
宵庚申
 8月13日(木)午前8時~午後8時まで
本庚申
 8月14日(金)午前8時~午後5時まで

蒟蒻1皿 300円 3個入り

(『摂津名所図会』 国文学研究資料館所蔵)

庚申堂の庚申まいり」(文化遺産オンライン)
 奈良時代から続く庚申信仰 北向きコンニャク
 ◆庚申の日三尸虫(さんしちゅう)が出てくる 

 庚申の日に北向きでコンニャクを食べると頭痛が治ると言われている。
庚申とはかのえさるの日で60日に一度めぐってくる。
人の体内にすみついて三尸虫という虫が庚申の日の夜、眠っている人の体内から出て、その人の罪や過ちを天帝に告げる。
天帝に悪事が告げられるとその人の寿命が奪われ早死にするという。
これは中国の道教の教えでいつの間にか日本に根ついた信仰である。
平安時代の貴族は、この信仰どおり無病息災を願いながら夜は眠らない「庚申待ち」という慣わし守ったという。
(『なにわ ことば遺跡2 ことばといっしょに歴史を歩く』山本正人 清風堂書店 2019年)

 全国に広がる庚申講の最初のものが四天王寺の庚申堂である。
文武天皇の大宝元年(701)疫病が大流行し、毫範(ごうはん)という僧が祈とうを続けたところ、この庚申の日に帝釈天の使いとして童子が現れ、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)の像を授けた。
そしてこの像をまつると疫病がたちまちやんだと言われている。
また童子はここで庚申の法を説き、青面金剛童子を庚申尊とする庚申信仰が始まったと伝わっている。
 庚申堂は四天王寺南大門の南200mにある。
ここは日本の庚申信仰の中心で、江戸時代、新たに庚申堂を建てる際はここの許可が必要だった。
この庚申堂に通じる道は庚申街道とよばれている。
年6回ある庚申の日には多くの参詣客で賑わう。
江戸時代の様子は近松の浄瑠璃に描かれている。
八百屋半兵衛と女房お千代の駆け落ちの話「心中宵庚申」の一節。
「四月五日の宵庚申、死なば一所と契りたる、その一言はかのえ申、参りの人に打ち紛れ忍び出づるも哀れなり」と庚申の日の賑わいが記されている。

 …後略…

(『なにわ ことば遺跡2 ことばといっしょに歴史を歩く』山本正人 清風堂書店 2019年)

(「090 庚申街道」大阪市東住吉区)

(「主要作品紹介【心中宵庚申】」文化デジタルライブラリー)
2月
 初庚申 

 毎年の初庚申(はつこうしん)ということで思い出すのは、新潟県南魚沼郡で聞いた話。
庚申の年というから、今から50年も前だが、村の庚申塚の前に穴を掘り、そこに大きな酒びんにたくさんの酒を注いで、フタをしめて初庚申の夜埋めたという。
 これを六十年目にめぐって来る庚申の年に、また開くのだそうだ。
おサルさまへの供養の酒で、赤ら顔のサルは、酒好きだとでも思ってきたらしい。
 庚申の晩は、徹夜で酒を飲む。
この晩寝てはいけない、とする俗信は古くから、また広く伝わっている。
だから、長話の好きな人間にたいして、「話は庚申の晩にしてくれ」と言ったりする。
この晩は寝ないはずだから、この日男女が結んで子をはらむはずがない。
万一子種を宿すと、その子は生まれてから大悪の盗人になると言ってきた。
 庚申の徹夜は、平安朝以来歴代の貴族もよく守ったことで、この日に起きたまま忌籠(いみごも)ることが、一身の災いを除く上にたいせつだとしてきたのである。
これを「守庚申」と称した。
(『民俗歳時記』和歌森太郎 岩崎美術社 1970年)
 見ざる聞かざる言わざる
  見ざる聞かざる ◆言わざる見ざる聞かざる 

 他人の難点も自分に不都合な点も、見ない、聞かない、言わないのが身のためだということ。
 三つの「ざる」(しない)を「猿」に掛けて語調を整えていて、耳で聞いた時の印象が強いことわざとなっている。
このことわざには目・耳・口を手で覆う「三猿」の図柄が広く知られている。
三猿の背景には、江戸初期に盛んになった民間信仰の庚申待(こうしんまち)ちがある。
庚申の夜には人が寝ている間に体内の三尸(さんし<三匹の虫>)が天に人の罪を告げ、命を縮めるため、申(さる)にちなんだ青面金剛(しょうめんこんごう<猿面>)や猿田彦を祭って一晩中起きているというもの。
人の罪が天に告知されるのを防ぐ意からか、庚申塚の石塔などにこの三猿が施されているものが目立つ。
全国各地に残る庚申塚の猿の数は大多数が三匹と思われるが、なかには二匹もしくは一匹の場合もある。
鎌倉時代の説話『沙石集(しゃせきしゅう)』(巻五)に「イワザルトミザルトキカザル世ニアリ 思ハザルヲバイマダミヌカナ」と詠んだものがあることから、これまで知られていた狂言の用例よりはるか以前にさかのぼる時代からのものだということが分かる。
(『岩波ことわざ辞典』時田昌瑞 岩波書店 2000年)
お猿さんばかりでなく七福神もおられます(^_-)

 冬
 一月 睦月
(むつき)
 七福神詣り 

 「七福神」は幸せをもたらすという七柱の神様のこと。
世俗を避けて竹林に集まり、話をしたという古代中国の七人の賢者「竹林の七賢」がそのモデルともいわれています。
 一般的には恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七柱をさします。
 インドの台所の神様である大黒天、インドの財宝神である毘沙門天、インドの水の女神である弁財天、中国の道教に由来する福禄寿と寿老人、実在していた中国の禅僧がモデルの布袋など、ほとんどが外国由来の神様。
日本の神様は、実は恵比寿様ひとりだけ、とグローバルな構成になっています。
 ちなみに、「七」という数字は、古くは七宝、七曜、七夕や七草などにも使われる聖なる数字です。

 …後略…

(『鳩居堂の歳時記』広田千悦子著 鳩居堂監修 主婦の友社 平成28年)

「日本ファースト」と外国人を排斥される方は、七福神のことをどう思われるのかな!
大黒天さまかな?
大黒といえば大黒柱を思い浮かべるのですが(「大極」だという説も)。

 3 住生活
 (3)家の中
 天井・柱
 <柱>
 

 住宅の柱は丸柱や釿(ちょうな)はつりの柱が古く、引違い戸が出てから角柱が使われるようになった。
古い民家ほど面取りの広い大黒柱が残っている。
大黒柱というのは、座敷と台所の境に立つ柱のこと。
座敷とデイの中間に立つ柱には下大黒・姫大黒・長者柱・みやこ柱などの呼び名がつけられ、興味深い。
大黒柱の手前に恵比寿(えびす)と呼ぶ柱の立つ家は古い年代の建築である。
床の間の柱を床柱・化粧柱などという。
桧が多く柿・ツガ・カエデも使われた。
(『図説 民俗探訪事典』大島暁雄他編著 山川出版社 1983年)
  九頭龍大権現
由緒などを見つけられなかったので

 水を司る聖獣
 龍
紅色から青色への変化


 一般に、東洋における龍の起源は古代中国にあると伝わる。
頭はラクダ、頭頂はヘビ、角はシカ、手はトラの姿をした聖獣であり、あらゆる動物の頂点に立つ存在である。
 もともとは中国東北部の畑作地帯で信仰され、紅色をしていたという。
それが中国南部の稲作地帯に伝播した際、川や池を司ったヘビと形が似ていたことから、ヘビに取って代わり、水神として崇められるようになったといわれる。
それに伴い、体色も水に近い青色へと変化した。
その龍が稲作文化とともに日本へ伝播したため、日本では水神として信仰している。
(『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監) 二見書房 2018年)
庚申堂を出ると目の前に四天王寺の五重塔が見える…
何処をどう歩いたのか長いこと迷ってしまった(°°;)
墓所にあった案内より

 竹本義太夫の墓 
   天王寺区大道一丁目 超願寺内

 浄瑠璃節の中興(慶安4年生、正徳4年9月10日歿 享年64才)

 今日の浄瑠璃節は天才竹本義太夫の始めたものである。
今日義太夫といえば浄瑠璃の別名の如くになっていることから考えても、其の偉大さが想像せられる。
 義太夫は天王寺村(天王寺区茶臼山町堀越神社附近)の百姓の家に生れ、名を五郎兵衛といった。
性来歌を唱うことが好きで、子供の時から何時も歌を唱うことに熱心であった。
中年になって、当時浄瑠璃の大家であった京都の宇治加賀椽や井上播磨椽について浄瑠璃の稽古を始めたが、此等の浄瑠璃節がどうも自分の気に入らないので、昔からの謡曲や、文彌節や其他色々な唱の長所をとって、彼れ獨得の音節をつけて、所謂義太夫節というものを案出した。
所が大阪市中の大人気を得、新派浄瑠璃の大家となって、遂に道頓堀に竹本座という新派浄瑠璃人形芝居を始めた。
 竹本座が出来て間もなく、近松門左衛門が其の座附の脚本書となったので、いよいよ竹本の名は近松の文名と共に天下に揚った。
義太夫は遂に朝廷に召されて御前に於いて義太夫節を聴え上げ、筑後椽の號を賜わり且つ名を藤原博教と改むる宣旨を給わった。
 これより義太夫は約三十年間大阪芸界の牛耳を執り、当時六十余州に於ける芸界の権威であったが、晩年竹本座の座主を竹田出雲に譲って隠退した。
 四天王寺境内の念佛堂の前に高弟豊竹上野の建てた碑がある。
又義太夫は其の弟子の発起によって生魂神社境内浄瑠璃神社に人形芝居七功神と共に祀られている。
    (大阪風土記より)

 この墓のある超願寺の創立は古く、推古天皇の22年(614)聖徳太子の草創と伝えられ、太子が蘇我馬子の末子慧観を住まわしめたと言われる。
慧観は太子より与えられた経論・仏舎利を納めるため三重塔を建てたが、舒明天皇の代に再三付近に火災があったので、これが類焼を防ぐため泥土をもってこの塔を塗りこめた。
このことによって、人々はそれを土塔と称し後に寺の山号ともなり、また、この地を土塔村と呼ばれる起因ともなったといわれている。
 初代竹本義太夫の墓 

 …前略…

 当寺の墓石は元からのものではなく、義太夫の百回忌にあたる1813年(文化10)に子孫の竹本喜義太夫なる人物の建立と伝わる。
その後、1893年(明治26)に当時の義太夫節のプロの同業者組合である「因社」により、境内の元々あった場所より現在地に移設、修復された。
さらにその墓石が破損したため、義太夫の三百回忌を記念し、人形浄瑠璃文楽座因講が、2013年(平成25)8月に、文楽座ならびに、松竹株式会社、義太夫協会、文楽ファン等からの寄付により、新たに墓石を建立、修復した。
  2013年(平成25)人形浄瑠璃文楽座 因講

 …………

以前の墓は「80.竹本義太夫(たけもとぎだゆう)」(大阪市)

第22話 竹本義太夫(たけもとぎだゆう 1651-1714年)」(なにわ大坂をつくった100人)
お昼になったので、おそば屋さんに入りました。
メニューを見せていただきましたが、みんな美味しそうなので迷ってしまった。
冷たいお蕎麦をいただきました。
乗っているのは知覧鶏だった思います。
小さな器に入っていたのは、煮干しの粉だったと思います。
店員さんが教えてくださったのに忘れてしまったし
メニューを見たのに蕎麦の名前を忘れてしまった(^^ゞ
以前、入った食堂「そば処深川」(2018年5月23日)と外観がほぼ同じだったので
入った瞬間、アレッと思いましたが、
深川が閉店したあとに4月から開店したそうです。
深川のときは、地元の方が多いなぁと思いましたが、
今回、四天王寺に参拝した人たちや観光客が多いように思いました。
年齢層の幅は広く、隣に若い女性が一人で来店されていて、
女性が一人でも入れる雰囲気があります。
店を出ると順番待ちの方が並んでいました。
これからも四天王寺にお参りした時に寄りたいなと思います。
探したのだけどホームページなどが見つけられなかったので

四天王寺参道にそば処「四天王寺蕎麦」が開店!〟(うえまち新聞web)
 暑い時期は、お土産に悩むのですがこのあとすぐに帰るので
父が食べたいとズ~ッと言っていた饅頭を買うことにしました。
天王寺境内にあるお堂にちなんだ饅頭がお目当てです(^_^)v

 英霊堂(えいれいどう)

もともとは,聖徳太子1300年御遠忌(ごおんき)事業として作られた世界最大の釣鐘を設置する頌徳鐘楼(しょうとくしょうろう)
しかし、釣鐘は戦時中の金属供出で失われたため、今は建物を改造して戦没者を祀る。
古きコンバージョン建築の一例。
ちなみに大阪銘菓・釣鐘饅頭は、ここの釣鐘をモチーフにしたもの。
(『大阪名所図解』画・綱本武雄、解説・酒井一光 髙岡伸一 江 弘毅 140B 2014年)

四天王寺 英霊堂(旧鐘楼)」(文化遺産オンライン)
釣鐘まんじゅう」を父と妹と私に3個買いました(1個180円)。

釣鐘屋の歴史」に世界最大の釣鐘の写真が載っています。

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    Kazeさん、庚申さんにお参りされたのですね。
    庚申さんの日に少しだけ早かったのですね。
    こんにゃくは、またの機会にですね。(#^.^#)
    庚申堂、懐かしく自分のブログを確認しましたら。。
    2018年の5月でした。
    Kazeさんにコメント頂いていました。
    いつも有難うございます。

    釣鐘饅頭も懐かしいです。
    若い頃によく食べました。
    お父さまも妹さまもお喜びになったことと思います。

    四天王寺の近くにそば処ができているのですか!
    嬉しいです。
    だんだんにお蕎麦屋さんやおうどん屋さんが
    少なくなっているように思います。

    カフェで休憩されていたので。。。
    無事に庚申堂へお参りできたのですね。(^^)/

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    1. カイさんこんばんは(^^)/

      事前に下調べをあまりせず出かけるので
      庚申さんの日にちょっと早かったです(^^ゞ
      カイさんの記事を再読して
      >庚申の日にお参りできるか?ですが
      とコメントしている通りになりました(^^ゞ

      釣鐘饅頭は四天王寺の休憩所でよくいただいていました。
      その休憩所が工事で仮の六時堂になり釣鐘饅頭を買えなくなりました。
      今回は、休憩所を覗いていませんが再開していると思います。
      でも、本店で買う方が気分がいいなと思いました(^_^)v

      「四天王寺蕎麦」で今度は温かい蕎麦を食べたいと思っています。
      お参りする時に寄りたいお店ができたので嬉しいです(^_^)v

      カフェでチーズケーキを食べなかったらへたばっていたと思います。
      休憩して正解でした!(^^)!

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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m