風が吹いていて助かりました。
でも、この風は、まだ遠く離れている台風からの風かな?
田舎(沖縄、奄美)のことが心配ですし
熊本はこれ以上ひどいことになりませんように
「台風13号 沖縄・奄美で風が強まる 沖縄は線状降水帯のおそれ」(NHK)風、薫る(92)第19週「黎明(れいめい)の翼」
大学時代、掲示板に赤痢の注意書きが出ていました。
以前、転記しましたが
十 長い歴史をもつ赤痢
赤痢は、中国やギリシア、エジプト、インドなど古代社会ではすでに頻発していた。
この時代に他の下痢症と赤痢を区別できたのは、赤痢の病名のとおり、便に血や膿(うみ)が混じるからである。
このほか、赤痢では発熱、排便直後に便意をもよおし、トイレから離れられない「裏急後重(りきゅうこうじゅう)」と呼ぶ症状が特徴である。
また、いつまでも下腹が痛むために、江戸時代に赤痢をシブリバラとも呼んでいた。
赤痢は現在も多い。
とりわけ飢饉(ききん)や大災害、戦争による避難民の間で爆発的に発生することがある。
しかし、赤痢はコレラやペストのように一気に全国流行することはないが、抗生物質が登場するまで、毎年、流行を繰り返してきた。
そのため長い間に膨大な患者が発生した。
人類の歴史をみると、被害がもっとも大きな疫病といえる。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)赤痢に対する村人の恐怖は、つい最近の新型コロナウイルスでのパニックを思い出します。
当時も感染症と闘う医療関係者は命懸けでした。
赤痢でなくコレラのことですが
第三章 病気と社会
医師あるいは治療に対する誤解と偏見
…前略…
コレラ一揆は、明治10年岡山県に起り、明治23年までは13件起った。
そのうち9件は明治12年に起り、なお、そのうちの7件は新潟県で起っている。
その首謀者の一人は暴動の理由として「自分はコレラ病流行については、その実は巡査が各村に出没して毒薬を散布し、いたずらに病人をこしらえ、避病院へ入れて生肝をとるという風評を真実と考えるようになっていた。その折も折、自分の村の寺院が勝手に上からの命令で避病院に指定された。自分たちは患者が出ても避病院へ送らないよう申し合わせていたものであったが、急に警官らが捕縛にきたのでそれに抵抗したのである」と述べている(小野・土田編者「明治初年農民騒擾録」より)。
(『病気と治療の文化人類学』波平恵美子 ちくま学芸文庫 2022年) ここでは巡査および避病院に病気の原因があると考えられており、この時出された嘆願書の中には、自分たちが希望する医師による治療を受けさせて欲しい旨が記されている。
また別の地域の一揆では、暴動による攻撃目標は一に警察分署、二に西洋医、三に外人(宣教師の)説教所であったという。
次の例は医師に直接的な攻撃が加えられたケースである。 明治10年、千葉県のコレラ発生数は9月93人、10月390人、11月78人、12月50人で計611人であった。
長狹郡鴨川町(現・鴨川市)では10月に入って最初のコレラ患者が出た。
この地域の住民の間にコレラが流行するのは、同郡小湊町(現・鴨川市)の沼野玄昌(ぬまのげんしょう)医師と警察官が井戸に毒薬を入れるからであり、また避病院へ隔離した患者から抜き取った生胆を投入して病気を流行らせているというデマが飛んでいた。
たまたま11月21日に患者が発生し、沼野医師が隔離しようとしたところ、漁民がこれに反対し、ついに彼を殺害(実際には追いつめられて川へ身を投じ溺死した)してしまうという事件が起った。 避病院に対する忌避感、恐怖感は一層強かった。
これは一つには施設があまりに貧弱で手当も充分に行われず、しかもその場所は土地の人々が嫌うので昔刑場であったような所で、しかも親兄弟といども面会させないというところであったから入院を拒む者が多かったのは当然である。
二つには、避病院に入院した者の致死率が高く、それは劣悪な状態に置かれることと、すでに手遅れの状態で送り込まれる者が多かったことも原因であったろう。
しかしそのため、避病院に入れば生きて戻れぬと思う者が多く、そのことが避病院では生胆を抜き、それを西洋人に売るのだというデマの原因となった。
明治19年の東京の三つの避病院についてだけであるが、表2(「東京府内三伝染病院におけるコレラ患者数 (明治19年)」:省略)のように致死率は極めて高い。 (中略)
同様のことは1832年のフランス、パリにおけるコレラ流行の際にも見られた。
この年パリでは1万8402人が死んだ。
しかも、それは4月に1万2700人余、7月に2500人余とこの二カ月に大きなピークがあり、1日に800人余も死ぬということがあり、混乱は大きかった。
その際政府は貧民街を中心に応急の消毒を行ったが、それに対し行政当局が毒の散布者を雇っているのだというデマがたちまち飛び、疑われた歩行者や役人が殺された。
一方、医学は無力視され、迷信としか思われない方法――コレラの予防になるという樟脳をポケットやハンドバッグに入れて持ち歩くとか、胃腸のあるあたりにヒルを吸い付かせて放血するなどの方法が取られた。
実際ヒルの輸入量は1833年には、1823年の百数十倍に達した。
病院はそれ以前から一般民衆の忌避の的であり、天然痘が発生した時も、病院に収容されることを人々が拒んだため、警察は住居の中で隔離する方法しか取ることができなかった。
(後略)
(『病気と治療の文化人類学』波平恵美子 ちくま学芸文庫 2022年)
新型コロナ時には「妖怪 アマビエ」が登場しましたね(^_-)
「コレラ事件」(館山市立博物館)
「第1章 我が国における健康をめぐる施策の変遷」(厚生労働省)
「2 感染症・食中毒関係年表」(筑波大学)
風、薫る(94)第19週「黎明(れいめい)の翼」
アサが長太郎の呼びかけに生きる気力を取り戻しましたね。
現代でも新型コロナのパンデミックの時は、お見舞いができませんでしたし
叔母は、施設での集団感染で亡くなりましたが、遺骨だけが帰ってきました。
「あしたは8月6日じゃけぇね ~平和の声が届く部屋in広島~」「コレラ事件」(館山市立博物館)
「第1章 我が国における健康をめぐる施策の変遷」(厚生労働省)
「2 感染症・食中毒関係年表」(筑波大学)
風、薫る(94)第19週「黎明(れいめい)の翼」
アサが長太郎の呼びかけに生きる気力を取り戻しましたね。
現代でも新型コロナのパンデミックの時は、お見舞いができませんでしたし
叔母は、施設での集団感染で亡くなりましたが、遺骨だけが帰ってきました。
広島県立広島第一高等女学校(通称:第一県女)の女学生の日記が紹介されていました。
当時、女学生だった竹西寛子さんの随筆
一個 竹西寛子
…前略…
遊びの一種だといえばそれまでかもしれないし、テレビ局でも採算がとれているからそうもしていられるのだろうが、私にはたまらない光景である。
日本の尋常小学校が国民学校に切り換えられたのは昭和16〔1941〕年で、同じ年の暮れに太平洋戦争が始まった。
私は六年生になっていた。
その当時、月の初めを「興亜(こうあ)奉公日」とよんでいた。
町中の食堂や飲食店は、この日ほとんど休業した。
日中戦争が進むにつれて、食生活の質素、倹約が、いろいろなかたちで実行されるようになっていた。
また、そうせざるを得なくなっていた。
「贅沢(ぜいたく)は敵」だった。
(『少女たちの戦争』中央公論新社 編 2022年) 私の通っていた小学校では「興亜奉公日」は日の丸弁当の日と決められていた。
梅干一個以外、お弁当におかずを添えることは許されなかった。
日の丸弁当の日は、先生に引率されて、護国神社の清掃などに行く日でもあった。
同級生に、ある商家の長女がいた。
町では、かなり大きな古くからの店で、使用人も多かったが、お弁当はいつもおどろくほど質素だった。
時世にかなった職業で、贅沢の不可能な家とは思われないのに、地味だった。
私とは、席が近かった。
ある日私は、彼女がいつまでたってもお弁当のおかずに手をつけず、ご飯ばかり食べているらしいのに気づいた。
やがてお米の部分が消え、とうとうおかずだけが取り残されてしまった。
すると彼女は、首をすくめて、アルミニュウムの箱の中でそれを転がしながら、さもうれしそうにあちこちながめているのである。 おかずは、きれいに殻をむいた茹(ゆ)で卵一個であった。
他人のお弁当のことを書くなど、われながらはしたないと思う。
けれども、未(いま)だにあの時の友達の、首をすくめた姿がわすれられないのである。
他の友達のお弁当など思い出しもしない。
あの茹で卵一個は、彼女にとってはまさにものすごい贅沢であり、私も彼女のよろこびを素直に自分のよろこびとすることが出来た。
そういう時代だった。
三十八年前の夏に、彼女は広島で被爆して亡くなったと聞く。
別々の女学校に進んでいたが、一族の消息を知る人にも未だに会っていない。
初出「朝日新聞」1983年8月21日
底本『竹西寛子著作集』第五巻、新潮社、1996年6月
(『少女たちの戦争』中央公論新社 編 2022年)今朝の父の一枚です(^^)/
毎日、毎日、撒水作業をしてもすぐに干上がってしまう。
昨日、妹が退院しました。
病院の中で日々送っていたのでこの暑さに耐えられるのか不安がっていました。
台風15号は、義弟の故郷、北海道に向かっているみたいです。
「大型の台風15号が発生 今後の情報に注意を」(NHK 8月5日)
台風の進路
台風は日本めがけて進んでいる?
上空の風に流されて進んでいく
日本には、夏から秋にかけて台風が次々と接近・上陸します(P.29:省略)。
台風はわざわざ方向転換して、いつも日本列島をなめるようなコースに進んで見えますね。
実は台風自体は移動する力はなく、上空の風に流されて移動しています。
太平洋高気圧が台風の進路をふさぐので、台風は太平洋高気圧の縁を通るように進み、結果的に日本列島に接近することが多いのです。
秋はちょうど太平洋高気圧の勢力が弱まる時期なので、日本付近に台風が接近・上陸しやすくなります。
夏の台風の場合は太平洋高気圧に阻まれて、同じところにとどまったり、後退したりと迷走しやすくなります。
(『今さら聞けない 気象の超基本』今井明子 朝日新聞出版 2025年)










