2025年8月1日金曜日

八月朔日

熱中症警戒アラートが、発令するほどの危険な暑さ
この暑さは明日も
近畿 2日も危険な暑さの予想 熱中症対策徹底を」(関西NHK)

それでも京都では、
京都 祇園 芸舞妓が「八朔のあいさつ回り」〟(京都NHK)
気合いが違う!!!
未来へのプレイリスト「ピーター・バラカン プレゼンツ メッセージソング with いとうせいこう
ピーター・バラカンさんといとうせいこうさんが紹介してくれた曲
主な曲だけあげます(転記間違いがあると思います)。
ガザでイスラエル軍に殺されたパレスチナの5歳の少女を歌った曲も紹介されていました。

「The Times They Are A-Changin' 」Bob Dylan

「Hej,Jude」 Marta Kubišová(マルタ・クビショヴァー)

「Chigwiniri(A Very Strong Person) 」Thomas Mapfumo(トマス・マプフーモ) And The Blachs Unlimited

「Hind's Hall 」Macklemore(マックルモア)

「Strange Fruit 」Billie Holiday

「Nelson Mandela」 The Special AKA

「Remembering Hind」 Anouar Brahem(アヌアル・ブラヒム)
(再放送してほしいなぁ!)
検索するとプレイリストがあがっていました。
未来へのプレイリスト」(7月30日)
敗戦後、占領軍が恐れたのは原爆の実態を世界に知られること。
原民喜の『夏の花』などは、発表を禁じられていました。
原民喜 死と愛と孤独の肖像』などから当時の状況がわかります(2022年9月3日に転記)。

沢田美喜と高峰秀子の対談では、日本人の偏見などとの戦いが語られていましたが
沢田美喜が戦った相手はGHQでした。
GHQと戦った女 沢田美喜』(文庫本も品切れになっています)

試し読み」には、進駐軍に楯突いた人物として吉田茂と白洲次郎をあげ、
もう一人挙げるとすれば、沢田美喜(みき)であることはまちがいない」と紹介されています
GHQが沢田美喜の何を嫌がったのか!
 あとがき 

 沢田美喜の両腕に抱えられた二人の赤ん坊と芝生に並んだ六人の幼児の写真(表紙カバー)は、「エリザベス・サンダース・ホーム」創立後まもなく昭和23年5月に撮影された。
この八人の子供たちは、米兵と日本人女性との間に生れた混血児で、駅や公園、銅像の前などに捨てられていた孤児である。
 ちょうど十年前の敗戦から六十年の夏、大磯駅に立ち寄ったわたしはバス停の横にある石造りの門に「エリザベス・サンダース・ホーム」の名をみつけて思わず目を見張った。
占領期を調べるようになる以前から、もちろん、沢田美喜もホームの名も知っていたが、まさか大磯にあるとは思わなかったのである。
その年の暮れ、ホーム内にある澤田美喜記念館に館長の鯛茂(たいしげる)を訪ねた。
( 『GHQと戦った女 沢田美喜』青木冨貴子 新潮社 2015年)
 これまで長いあいだノンフィクッションを書いてきたが、女性を描きたくなったのは初めてである。
それは、知れば知るほど沢田美喜のスケールの大きさと、まわりのことなど気にせず、自分が正しいと思ったことに向かって突き進んでいく強靱さに圧倒されたからである。
三菱財閥の家に生れたものの、跡取りの長男だけを大切にする土佐の気風に反発し、父が男爵であるにもかかわらず華族をきらい、華族との結婚を拒否するなど、強いものには反発し、弱いものの側に立つその反骨精神は見事しか言いようがない。
美喜は夫の任地・英国で、富士山と桜と芸者をほめたたえるステレオタイプの日本讃美に辟易して、午餐や夜会に明け暮れる毎日に疑問を覚えた。
海外で暮らしている日本人コミュニティーでつくられる日本社会の雛型にもほとんど絶望的な違和感を覚え、まわりの夫人から嫉妬され憎悪されても気にしなかった。
 そんな女性だからこそ、写真にあるように、混血孤児に手を差し伸べ、温かく抱擁し、彼らを収容する施設をつくろうと思ったのである。
しかし、進駐軍に誰ひとり立ち向かえなかったアメリカ一辺倒のあの時代、米兵のおとし子のための施設をつくることはGHQに歯向かうことにほかならなかった。
GHQとの戦いとはどんなものだったのか。
その戦いに沢田美喜はどう立ち向かったのか。
さまざまな疑問が頭のなかを駆け巡った。
五冊の著書や多くの雑誌記事、インタビュー、対談などを残した美喜がほとんど語っていない占領期の米軍情報機関との関係にもわたしは大いに興味をもった。
当時、澤田廉三・美喜夫妻の麹町の自宅が「サワダ・ハウス」として参謀第二部の民間諜報局に接収され、美喜が生れ育った本郷茅町の岩崎本邸も悪名高いキャノン機関によって「本郷ハウス」として使われていたからである。
 大磯を何回も訪ねるなかで、鯛茂から美喜本人の話を聞かせてもらっただけでなく、藤村美津施設長の許可を得て、「R・SAWADA」という表札のかかった日本家屋内にある「ママちゃまの部屋」でホーム資料も閲覧させていただいた。
 米国立公文書館では、GHQ公衆衛生福祉局の資料や「サワダ・ハウス」「本郷ハウス」に関する参謀第二部の資料を探し、ついには総合特殊作戦本部A・C・レイシー大佐宛「本郷ハウスにおける事件」という美喜の手紙も発見した。
「サワダ・ハウス」を接収した民間諜報局のポール・ラッシュについては、彼の開拓した清里高原に出かけ「ポール・ラッシュ記念館」の資料にも当ってみた。
同じ頃、シロアリに食われた澤田廉三の毛筆の手紙を燻蒸処理するため、多くの資料が鳥取県の公文書館に送られていたが、鳥取にも足を運んでそれらを閲覧する一方、浦富の澤田家の別荘や、海にちかい澤田家の墓にも詣でることができた。
 この間、数十に及ぶ関係者のインタビュー・テープや膨大な資料が集まっても、わたしのペンは止まったままだった。
何故、沢田美喜はエリザベス・サンダース・ホームを始めたのかという問いかけに、まだ十分な答えが得られなかったからである。
 連合国による占領期について調べたいと考えたのは、自分の生れた時代の実像を知りたいと思っていたからである。
GHQの支配した時代というのは未だ不透明で、深い闇に閉ざされたまま姿をあらわそうとしないように思える。
しかし、テーマにそって執拗に調査を進めていくと、僥倖に恵まれることがある。
 エリザベス・サンダース・ホームのリサーチにつまずいていた頃、ワシントンへ取材に出たわたしは思わぬ宝物を発見した。
占領期にニューズウィーク東京支局長だったコンプトン・バケナムの日記である。
四百ページにもおよぶ手書きに英文日記には昭和天皇とワシントンとを結ぶ密かなチャンネルの存在など、明かされていない戦後の裏面史が記されているようだった。
わたしはパケナム日記の解読を始め、およそ3年間これに没頭し、『昭和天皇とワシントンを結んだ男』(文庫版『占領史追跡』)を発表したのである。

 …つづく…

(『GHQと戦った女 沢田美喜』青木冨貴子 新潮社 2015年)