2019年2月15日金曜日

日差しがあると…

今朝は青空が見えているときはホッとしたのですが
曇り空になると風が冷たかったです…
「はしか」の感染のニュースが続いています。
去年、主治医の先生にお願いして抗体検査を受けると陽性でした。
私の世代では保育所や小学生のころに
麻疹に感染することが多かったので抗体ができていると思います。
でも、若い人は抗体がない人がほとんどだと思いますので、
予防接種を受ける方がいいと思います。
2月7日の記事で「七月九日の大地震」については後日と書きました。
この大地震は、方丈記に書かれています。
『京都<千年の都>の歴史』より転記しますφ(..)
  元暦(げんりゃく)二年の大地震
 『方丈記』が五大災難の最後に挙げた元暦2年(1185)の大地震とは、
平家が壇ノ浦で滅亡、内乱が終わって三カ月半のちの7月9日昼ごろを本震とする地震である。
いうまでもなく、日本は世界一の地震大国で、江戸初期までに、
信頼できる文献史料に書きとめられた地震は大小2700以上にのぼる。
平安京でもこれまで天長(てんちょう)4年(827)7月12日、
承平(じょうへい)8年(938)4月15日、天延(てんえん)4年(976)6月18日など、
大きな地震を経験しているが、このたびの地震の被害は、それをはるかに上回った。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
白河の法勝寺(ほっしょうじ)では八角九重塔が大破し、
阿弥陀堂と金堂の東西回廊、鐘楼、常行堂(じょうぎょうどう)の回廊、南大門などが転倒する。
平忠盛造営による得長寿院(とくちょうじゅいん)も倒れた。
尊勝寺(そんしょうじ)では講堂・五大堂・築垣・西門が転倒し東塔の九輪が落ち、
最勝寺(さいしょうじ)の薬師堂・築地も倒れた。
山科の勧修寺(かんしゅうじ)で鐘楼・経蔵などが倒れ、
その他の寺院でも堂塔が破潰(はかい)する。
里内裏の閑院(かんいん)は棟が折れた。
民家や築地の倒壊破損は数知れず。
延暦寺でも堂舎が倒壊したり、傾いたものが多く、園城寺・醍醐寺、
遠くは奈良の唐招提寺にも被害が出た。
大地震の常として、余震が絶え間なく続き、年末まで人びとは恐怖におののいた。
世間では平家滅亡を恨んだ平清盛が、竜になって地震を引き起こしたと噂しあったという。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
地震研究者の間では、阪神淡路大震災のマグニチュード7.3を上回るマグニチュード7.4の規模で、
琵琶湖西岸断層帯の堅田(かたた)断層が動いたという意見が強い。
地震が発生した元暦2年7月は、長期にわたる源平内乱が終結した直後である。
京都は、全国から上がってくるはずの租税・年貢・人夫が途絶えたため苦しみぬいた。
役所・寺院をはじめ、主だった建物の補修も後回しにされ、その傷みは想像以上だったと思われる。
これが被害を大きくした原因だった。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)

寺と神社一覧」(フィールド・ミュージアム京都)
この大地震について『平家物語』「巻第十二 大地震」に描かれています。
古文と現代語訳を転記しますφ(..)
 巻第十二
  大地震

 平家みなほろびはてて、西国もしづまりぬ。
国は国司にしたがひ、庄(しやう)は領家(りやうけ)のままなり。
上下安堵(じやうげあんど)しておぼえし程に、
(おなじき)七月九日(ここのかのひ)の午刻(うまのこく)ばかりに、
大地(だいぢ)おびたたしくうごいて良(やや)久し。
赤県(せきけん)のうち、白河(しらかは)のほとり、六勝寺(ろくしようじ)皆やぶれくづる。
九重(くぢゆう)の塔(たふ)もうへ六重(ろくぢゆう)ふりおとす。
得長寿院(とくぢやうじゆゐん)も三十三間(さんじふさんげん)の御堂(みだう)を、
十七間(じふしちけん)までふり倒(たふ)す。
皇居をはじめて、人々の家々、すべて在々所々(ざいざいしよしよ)の神社仏閣(じんじやぶつかく)
あやしの民屋(みんをく)、さながらやぶれくづる。
くづるる音はいかづちのごとく、あがる塵(ちり)は煙(けぶり)のごとし。
天暗(てんくら)うして日の光も見えず。
老少共(とも)に魂(たましひ)を消し、朝衆悉(てうじゆうことごと)く心をつくす。
又、遠国近国(をんごくきんごく)もかくのごとし。
(『全訳注 平家物語(十二)
  杉本圭三郎 講談社学術文庫 1991年)
 大地さけて水わきいで、盤石(ばんじやく)われて谷へまろぶ。
山くづれて河をうづみ、海ただよひて浜をひたす。
(なぎさ)こぐ船はなみにゆられ、陸(くが)ゆく駒(こま)は足のたてどをうしなへり。
洪水(こうずい)みぎり来(きた)らば、岳(をか)にのぼ(ツ)てもなどかたすからざらむ。
猛火(みやうくわ)もえ来らば、河をへだててもしばしもさんぬべし。
ただかなしかりけるは大地震(だいぢしん)なり。
鳥にあらざられば空をもかけりがたく、龍にあらざれば雲にも又のぼりがたし。
白河(しらかは)、六波羅(ろくはら)、京中(きやうぢゆう)にうちうづまれて死ぬる者、いくらといふ数を知らず。
(『全訳注 平家物語(十二)
  杉本圭三郎 講談社学術文庫 1991年)
 四大種(しだいしゆ)の中に、水火風(すいくわふう)は常に害をなせども、
大地においてはことなる変をなさず。
こはいかにしつることぞやとて、上下遣戸(やりど)、障子(しやうじ)をたて、
天のなり地のうごくたびごとには、唯今(ただいま)ぞ死ぬるとて、
声々(こゑごゑ)に念仏申し、をめきさけぶ事おびたたし。
七八十(しちはちじふ)、九十(くじふ)の者も、世の滅(めつ)するな(ン)どいふ事は、
さすが今日(けふ)あすとは思はずとて、大きに驚きさわぎければ、
をさなき者共も是を聞いて、泣きかなしむ事限(かぎり)なし。
(『全訳注 平家物語(十二)
  杉本圭三郎 講談社学術文庫 1991年)
現代語訳
 平家一門はことごとく滅びさって、西国も平穏となった。
国は国司の支配に従い、荘園は領家の管理のままになった。
身分の上下を問わずみな安堵の思いでいたところに、同年七月九日の正午ごろから、
大地が激しく震動して、かなり長く揺れ続けた。
京都の近郊、白河の辺りでは、六勝寺がみな倒壊した。
九重の塔も上の六層が崩れ落ちる。
得長寿院も、三十三間の御堂を十七間まで揺り倒された。
皇居をはじめとして、地位身分の高い人々の家、
諸方の神社、寺院、庶民の家々、すべてが崩壊した。
崩れる音は雷のように響きわたり、たちのぼる塵は煙のようであった。
空は暗くなって、日の光もみえない。
老人も子供も恐れおののき、官吏も庶民もすべて生きた心地もなかった。
また遠国も近国も同じありさまであった。
(『全訳注 平家物語(十二)
  杉本圭三郎 講談社学術文庫 1991年)
 大地は裂けて水が沸き出し、巨大な岩石が割れて、谷へ転がり落ちた。
山は崩れて川を埋め、海では津波が寄せて浜辺を浸した。
海岸近くを漕いでいた船は波に揺られ、陸を行く馬は足の立て場を失って転倒した。
洪水がおしよせて来たのであれば、丘にのぼって避難し助かることができよう。
猛火に襲われたら、川の向うにのがれて一時は避けることができるであろう。
しかし難を避けるすべもない大地震ばかりは、まことに恐ろしく悲しいことであった。
鳥でないから空を飛ぶこともできず、竜でもないので雲にのぼることもできない。
白河、六波羅、京中で倒壊したものの下に埋もれて死ぬ者はおびただしく、その数も知れぬほどである。
(『全訳注 平家物語(十二)
  杉本圭三郎 講談社学術文庫 1991年)
 四大種の中で、水・火・風はつねに災害をひこおこすけれども、
大地はとくに異変を起こすことはない。
これはどうしたことであろうかと、貴賤上下の人々は引戸や襖(ふすま)をとざし、
天が鳴り地が動くたびごとに、今にも死ぬかと、
声々に念仏を唱え、大声で叫ぶさまはすさまじかった。
七、八十歳、九十歳になる者も、この世が滅びるなどということが、
今日明日にさし迫っているとはさすがに思わなかったと、たいそう驚き騒いだので、
幼い者どももこれを聞いて限りなく泣き悲しんだ。
(『全訳注 平家物語(十二)
  杉本圭三郎 講談社学術文庫 1991年)
今朝の父の一枚です(^^)v
河津桜が咲いているのを見つけました♪

なお、平家物語は、方丈記の文章を若干字句の異同はあるけれども、
ほとんどそのままとりいれています。
2018年1月17日の記事にその個所を転記していますので
よかったら参照してください。