西福寺
「貴匠桜」
お箸がならんでいます
サラダ
スタッフが丁寧に説明してくださったのですが…
左耳が失聴しているうえに記憶力が(^^ゞ
どの料理も美味しかった(^_^)v
スープ
お口直し(* ^ _ ^ *)
メインディッシュは選ぶことが出来ます。
白い野菜は「姫大根」だそうです。
写していませんが最初にフランスパンが出ます
美味しくて,おかわりが出来るのですが…
最後にこれが出るので(* ^ー゜)
右の容器の蓋はガラスで透明なのです
中身はぜひ(*^ー゜)
遊び心があって美味しかったです(^ _ ^)V
Kazeは,体調の急変があること
月曜日なので予約をしなかったのですが
平日でもお客さんが多いので予約をおすすめします。
小野篁旧跡
小野篁(おののたかむら 802~852年)
平安時代前期の漢学者で政治家。
小野岑守(みねもり)の子で『令議解(りょうぎげ)』の編集に参加。
貴族でありながら武勇にもすぐれていた。
遣唐副使に選ばれたが,大使藤原常嗣(つねつぐ)と良船への乗船をみぐって争い,隠岐(おき)に流罪(るざい)となる。
にちに許されて参議になる。
このとき,大臣藤原良相(よしみ)の助力によって京都に復帰できた。
篁は2つの顔をもつという伝承が残されいる。
昼間は宮中で嵯峨天皇につかえるが,夜には珍皇寺(ちんのうじ)の井戸から冥府(めいふ)に出府し,閻魔大王につかえる冥官の顔である。
これは,藤原良相が重病でついに冥土にいくことになったが,閻魔大王のそばにいた冥官のとりなしで,息を吹き返した。
その冥官が小野篁にそっくりで,藤原がそのことをただしても篁は否定しなかった。
このことから,篁は冥官の顔をもつといわれるようになった。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ·ろくどうちんのうじ)
「六道さん」で親しまれる六道珍皇寺(臨済宗)。
本尊は薬師如来。
創建については空海の師大安寺慶俊説,鳥部氏開創の宝皇寺の後身説などがあるが,836(承和3)年国家鎮護所として山代淡海(やましろたんかい)らが建立したとみるべきだという。
平安・鎌倉時代は東寺を本寺とし,葬送地鳥辺野(とりべの)の入口にあたるので「六道詣り」(精霊迎え)の寺として栄えたが,南北朝時代に衰え,建仁寺45世聞渓良聰(ぶんけいりょうそう)が再興して臨済宗となった。
1874(明治7)年建仁寺塔頭大昌院に合併されたが,1910年建仁寺末寺として独立した。
本堂南東の鐘楼にある迎え鐘は,亡者をこの世によび返すといわれ,盆には早朝からついたが,今は制限されている。
鐘楼南の篁堂(たかむらどう)は小野篁を祀る。
篁は昼は朝廷に出仕し,夜は閻魔庁(えんまちょう)につとめたという伝説が広く流布され,この伝説と六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のわかれ道とが結合して,一帯は六道の辻と称された。
平素はさびれているが、盆には夜店も出てにぎわう。
木造薬師如来坐像(国重文・平安)をもち,篁堂には弘法大師・小野篁・閻魔王像を安置する。
(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)
本堂で観光ガイドさんがお話をしてくださった。
灯籠を見ると織部式灯籠(別名キリシタン灯籠、反対説もありますが…)
観光ガイドの方にお聞きすると
この庭は江戸時代にできたようです。
「冥土通いの井戸」
普段はこんなふうにのぞき込めません(* ^ O ^ *)/
小野愛宕権現(おののおたぎごんげん)
御祭神 小野篁卿
本地垂迹説 地蔵菩薩
平安の昔,この珍皇寺は,山城国愛宕郡という郡名にて「愛宕寺(おたぎでら)」との呼称もあった。
この珍皇寺の建立が小野篁卿だとする説。
(伊呂波字類抄)もあり閻魔王の化身として此処(ここ)より冥府に通ったとも伝わる。 (閑田耕筆)
こうした伝承によれば,篁卿と閻魔王とは同体であり,閻魔王は平安の昔は神仏同体の考えより,慈悲深い地蔵菩薩の一面を持つとされる。
また一方,神道では,地蔵菩薩が権(かり)に姿を変えてこの世に現われる神(垂迹(すいじゃく)神)は愛宕権現であるともされる。
そこで,このたびの「黄泉がえりの井」という聖地発見を機縁に,閻魔王の権(かり)の姿とも解せる小野愛宕権現をこの地に祀り,衆生の教化(きょうげ)とご利益(六道輪廻で苦しむ衆生救済・死とすべき者の延命)を願うものである。
平成25年 仏縁之日
当山 沙門 興道敬白
(二人連れの方が覗き込んでいるのが「黄泉がえり之井」)
金朱印「閻魔大王」を授与していただきました。
何故「閻魔大王」なのかは(*^ー゜)
「迎え鐘」を撞くことができました
普段は小さな格子の穴からしか見ることが出来ない
「閻魔大王像」「小野篁立像」を見ることが出来ます。
「薬師如来像」普段は扉が閉まっていて見ることが出来ません。
「安井金比羅宮」
安井
バスのほうはといえば,その清水坂の上がり口を右に眺め,かつての五条である松原通にさしかかる。
この松原通は奇妙な路で,とてもとても地味で細い路なのだが,東は清水坂まで通じ,西は西大路のさらに西,佐井西通まで全長5.2キロ,延々と続く。
そう、あの鳥辺野(とりべの)の焼き場への入り口でもある。
松原通を左に曲がると、すぐに六道珍皇寺。
ここは毎年夏,盆のお精霊(しょらい)さんの迎え行事でとにかくごったがえす。
もうすこし西へ行くと,空也(くうや)上人の開基,平家一門の邸宅,さらには鎌倉幕府の六波羅探題で有名な六波羅蜜寺がある。
が、そこは通り過ぎて、次の停留所というかお目当ては、安井。
左右に鳥居が見えるが,足はその猥雑さに惹かれ,まずは左の安井神社に向く。
表と裏をラブホテルに挟まれた安井神社,そのまんなかに縁切り祈願の社がある。
ここの願かけ絵馬のウォッチング,これがじつは,わたしが「哲学者」として定期的におこなっているただ一つのフィールド調査だ。
絵馬と言えばすぐに思い浮かぶ神社が二つある。
道真公で知られる北野天満宮と,安井の金毘羅さんとして親しまれている安井神社だ。
それぞれ、学問の神様と縁切りの神様が祀ってある。
北野さんには,「~高校に受かりますように」「~大学合格祈願」などと書かれた絵馬が一つの釘にどっさり,いまにも落ちそうな重い房のように吊るされている。
それがまた何列も何段にもなっていて,最下段,地べたすれすれのところしか掛けるところがなかった子どもはかえって不安になるだろうなとおもう。
一枚の絵馬に受験校がどっさり記入してあって,こんな浮気っぱい子に神様は情けをかけるのだろうかと気がかりなものもある。
でもまあ、わざわざ読みに出かけるようなものでもない。
ところが,祇園裏にある安井の縁切り祈願のほうは,どんな札が掛っているかなと気になって,通りがけによく立ち寄る。
断然多いのは、夫を愛人と別れさせたいという妻の祈りだ。
息子を恋人から離したいという母の祈りも意外に多くて,これはちょっとこわい。
縁切りということで,このほかにも病気から解放されたいという願いや,酒絶ち,禁煙,それに賭け事,盗みなど悪癖から切れたいという願いも多い。
これは男性に、だ。
先だって訪れたときは、これまでにない強烈なのに出くわした。
呪いの絵馬。
いまだ迫力でこれをしのぐものはない。
夫の若い愛人のスナップ写真数葉をぶら下げたもの。
写真の上にサインペンで,呪い,恨みの言葉がぎっしり書き込まれていて,愛人の顔がみえなくなっている。
これには思わず目を伏せた。
黒の千羽鶴。
千羽鶴を墨で染めたのか、それとも黒の色紙だけで折ったのか。
とすれば,ずいぶんお金がかかったろうに……などと見入っていると,やみつきになってまた来るはめになる。
祇園で呑んだ帰り、酔いさましにこれまで何人案内したことか。
そのひとりはここに来て、意外な反応をした。
禁煙とか禁酒なんてつまんないことを願うのはほんとうは本気で願っていない証拠。
その点、女のひとの呪いは本気だ。
信じよう,信じようとおもっているうちに,ほんとうにそのことが起こってしまうという恐ろしさを信じている,と言うのだ。
願いが届くことをほんとうに願っているのか否か,この差は,彼の言うとおり絶対だろう。
では、こんな例はどうか。
境内の宝物館にどっさり、男断ち祈願の絵馬が吊るされている。
わたし儀、是まで男さんを持ってこまりましたゆへ此度心を相あらため男さん一切御断私の心あかすため男さん相立〔断〕候ゆへ口で申候はゞ心の内しれずこれより右次第を私の心ならびに髪を奉納し今日より会〔改〕心いたし候但し三ヶ年之事
これ、54歳の明治女の願である。
本気ではないだろうが、たぶん本音である。
(『京都の平熱―哲学者の都市案内』鷲田清一 講談社学術文庫 2013年)
鴨さんの「東山安井の縁切り縁結び」
崇徳天皇御廟
当初は聖護院付近にあったが,応仁の乱によって焼亡したため,当地に移されたものです。
(2014年8月31日の記事)
おみやげに京漬け物を買うと…
なんとバレンタイン用も…σ(^^)は買っていませんよ(^_-)!
「仲原寺」(2014年11月23日の記事)
鴨さんの「眼は大切に 目疾地蔵尊」
時折雪が降る寒い京都でした。
レストラン菊水
森見登見彦さんの『聖なる怠け者の冒険』(朝日新聞出版 2016年)にも登場します。
慌てて記事を書いたので間違いがあると思います(o_ _)o