2023年1月16日月曜日

1月16日

空に黒い雲…
時々、パラパラと降ったけど傘をささずに歩けました。

子どもたちに震災語り継ぐ 竹下景子さんが詩の朗読会」(兵庫NHK)
御浜町で農作物の作柄占う「試粥会(ししゅくえ)〟(三重NHK 1月15日)

このような占いは、今では寺社などで行なわれるのみになったようです。

粥占(かゆうら)
 粥の中に筒や管を入れて、その中に入る米粥の具合によってその年の吉凶を占うものであり、12本の細い竹管で各月の天候を占うものや、農作物の数だけ竹管を粥の中に入れて、それぞれの作物の豊凶を占うものなどがある。
以前はムラで共同で行なったり、一族の本家で行なったりしていたのであろうが、現在残っているものの多くは神社で催されているものである。
(『図説 民俗探訪事典』大島暁雄他編著 山川出版社 1983年)
  藪入り

 翌明治26年元旦というと、「いとのどかなる日かげにあらはれて門松のみどり千歳(ちとせ)といはひて例の雑煮もたべ終りぬ」。
 昔は三が日といえば年始の客ばかりで台所仕事に忙しく、羽根つく暇もないと文句をいったものなのに、いまや父のいないこの家には来る人も少ない。
母たきが近所を一まわりしてくると、こちらへ来る答礼者もすべて女。
年賀状は野尻理作ほか三人から、こちらから出したのは15通。
このころはまだ年賀状より年始の礼に出る方が普通であった。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
 二日、三枝、藤林、山下、安達など親類といっていい年頭客あり。
みな故郷を同じくする人びと。
年の始めとて家族の歳を数えれば、姉ふじ三十七、兄虎之介二十八、なつ二十二、くに二十、みなで集い歌留多をとる。
「いづれも子供にてすむまじき年輩なるを、打寄れば斯(か)くまでおさなきか」。
いい年をして、と一人こたつに入ってたきがいう。
ここまで育ったかの感慨もあろう。
その様子が楽しそうなので一葉までうれしくなる。
この情景は小説に活かされた。
 「初春(はる)の三日(みつか)、年始まはりの屠蘇の酔(え)ひ、目もとにあらはれて心は夢ところげこみし谷中のやどに、うつくし人(びと)の寄り合ひて今宵は歌留多の催(もよお)し、お迎ひの使ひもあげたかりしに、ようこそ御入来(おいで)と喜こばれて、若きものゝならひ与之介いやならぬ心地のして、遂(つ)ひ其(その)まゝにお中間入(なかまい)りの源平合戦……」(「花ごもり」)。
 三日、田中みの子、四日、大嶋みどり子が来た。
八日、はじめて一葉は年始に出、猿楽町、西小川町、下二番町の三宅雪嶺と花圃の新所帯へ行き、夫君とも少し話す。
三宅は嘱望(しょくぼう)された評論家で、のち大成するが、このときなぜ元老院議官田辺太一の令嬢があのような貧乏書生に嫁ぐのだとの声もあった。
 十五日は成人の日。
昔は初冠(ういこうぶり)などといい通過儀礼として大切にされたが、今年から1月の第二月曜日が成人の日となり、役所の催す成人式に出かけるくらいになってしまった。
 「十五日 早起。小豆がゆの節(せち)行ふ。午前髪あげをす。午後より作文」と一葉は前年の正月の日記に書いている。
十五日は小正月、あるいは、女正月ともいう。
女たちは年越しの支度や来客の接待から解放され、女同士、家の中で、ようやくのんびりおしゃべりをする。
 中国ではこの日を上元、七月十五日を中元、十月十五日を下元、あわせて三元と呼ぶ。
日本では夏の「お中元」にしかこの言葉は残っていない。
斎藤月岑(げっしん)『東都歳事記』に、「貴賎今朝小豆粥を食す」とある風習は一葉のころ、まだ生きていたのであろう。
 明くる十六日は藪入り。
明治26年の日記には「十六日 早朝秀太郎藪入に来たりて我家にも寄る」とある。
お盆と共に奉公人の、年にたった二度しかない休日であった。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)

東都歳事記』(22/34 早稲田大学図書館)
藪入で思い浮かべるのは与謝蕪村の「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」です。
2022年5月31日の記事で萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』から転記しました。
今日は、藤田真一さんの解説を一部転記します( ..)φ

第6章 春風のこころ
 (ⅰ)藪 入

 全十八首のあゆみは、つぎの句で第一歩がきざまれる。

  やぶ入(いり)や浪花(なにわ)を出(いで)て長柄川(ながらがわ)

 本句によって、まず舞台が設営され、同時に、主人公の立場が手短かに明かされる。
長柄川は、中津川の古称で、淀川の本筋にあたる。
大坂の市中を出たところでこの川に行きあたる。
主人公は、奉公づとめのわかい女性で、藪入のため、これから親里に帰省しようというのだ。
奉公先のある浪花の町を抜けて、ようやく淀川堤にたどりついたところである。
(『蕪村』藤田真一 岩波新書 2000年)
 奉公人は、正月十六日ごろ、主家から二、三日の休暇をもらえることになっていた。
藪入である。
ふつうは実家に帰省することをいうが、そればかりでなく、寺社に詣でたり、山野にあそぶことも藪入という。
 蕪村は、この「藪入」という季題のもと、こんな愛すべき発句をのこしている。

 やぶいりや鉄漿(かね)もらひ来(く)る傘(かさ)の下(した)

 「鉄漿」は、歯を染めるお歯黒の液のこと。
結婚前に、知人近隣の家七軒をまわり、これをもらい歩くという風習があった。
七所鉄漿(ななとこがね)という。
婚儀のととのったむすめさんが、ちょうど藪入を機に、鉄漿をもらいにやってきたのだ。
春雨がやわらかく降り、傘をさして、顔は隠れてみえない。
むすめは、よろこびと気恥ずかしさがあい半ばする。
そのむすめの顔をあらわにしないところに、この作者のこまやかな気づかいが感じられる。
 またこんな句もある。

  やぶ入(いり)のまたいで過(すぎ)ぬ几巾(いか)の糸(いと)

 藪入で帰る途上、空のあちこちに凧(たこ)が揚がっている(上方では、たこ・たこ揚げを「いか・いかのぼり」といった)。
ふと見ると、地上に凧の糸が落ちている。
糸をまたいで過ぎた瞬間、たちまちこころは幼少期の自分に帰る。
凧の糸は、いまとむかしを隔てる境界線であった。
現実と夢を隔てる象徴として、一本の糸が横たわっていた。
これを一歩越えるだけで、幼いこころの風景をとりもどすことができるのだ。
 このように、「藪入」ということば自体、奉公づとめのいまの現状と、幼少期のいにしえの記憶という、ふたつの様態を渾然としてもっていた。
現実と過去、日常と非日常のふたつの世界を背中合わせに抱えているのが、「藪入」という季語である。
凧の糸にふれて、その交じり合っていたものが截然(せつぜん)と分かたれたのだ。
 「春風馬堤曲」の第一首では、川が、つとめの辛苦とふるさとの安らぎを分けるはたらきをなした。
ここまでくれば、あとは、歩行(あゆみ)を進めて、なつかしい両親のふところに飛び込めばいい。
里までは、ひたすらたのしい、こころ浮かれる道のりが待っているだろう。
(『蕪村』藤田真一 岩波新書 2000年)

「仮の親子」形変え継承―明治期以前の「お歯黒」〟(三重県県編さん班)
ここまでわかった!
 シジュウカラの言葉

  地鳴きは鳥の〝言葉〟


 スズメ目の一部の鳥では、さえずり以外の鳴き声もよく発達しています。これらの声は「地鳴き」と呼ばれ、オスもメスも発します。
エサを見つけたときや天敵に出くわしたときなど、さまざまな文脈で用いられ、ヒナやつがい相手、群れの仲間など、さまざまな相手に対して情報を伝えます。
鳥たちの地鳴き声の鳴き交わしは、まるで私たちの会話のようです。
さえずりを「ラブソング」と例えるならば、地鳴きは「言葉」と言うことができるでしょう。
…後略…
(『日本野鳥の会のとっておきの野鳥の授業』日本野鳥の会編、上田 恵介監修、山と渓谷社 2021年)