今日で5月も終わりですね…
歩いていると霧のような細かい雨が降ってきました。
昨夜の雨で涼しかったのですが、気温が急に変化すると体調も変化して悪くなりがちです。
今朝も腹痛があったり、体が重いです。
薬を飲んでいても体調が悪くなるのですから…〝“薬不足”「いつまで続くの?」薬が変わって体調不良…なぜ?〟(NHK 5月13日)
私も経験していますが、薬が変わると慣れるまでに時間がかかります。
中には、記事にあるように容態が悪くなる人もいます。
日本では、なんらかの薬が手に入るのですが…
「“薬が底をつく” ウクライナの高齢者 避難できず」(NHK 4月22日)与謝蕪村の「春風馬堤曲」について萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』から転記します( ..)φ
この本を読んでいっそう蕪村が好きになりました。
いつものことですが、原文通りではありません。
漢文の序は省かれ俳体詩(俳詩)から始まっています。
なお、個人雑誌「生理」に発表されたのが昭和8年6月からで、出版されたのが昭和11年です。
「萩原朔太郎年譜」(前橋文学館) 春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)
〇やぶ入(いり)や浪花(なにわ)を出(いで)て長柄川(ながらがわ)
〇春風や堤(つつみ)長うして家遠し
〇堤ヨリ下(おり)テ摘芳草(ほうそうをつめば) 荊与棘塞路(けいときょくみちをふさぐ)
荊棘何妬情(けいきょくなんのとじょうぞ) 裂裙且傷股(くんをさきかつこをきずつく)
〇渓流石点々(いしてんてん) 蹈石撮香芹(いしふみてこうきんをとる)
多謝水上石(たしやすいじょうのいし) 教儂不沾裙(われをしてくんをぬらさざらしむるを)
(『郷愁の詩人 与謝蕪村』萩原朔太郎 岩波文庫 1988年)〇一軒の茶見世(ちゃみせ)の柳老(やなぎおい)にけり
〇茶店の老婆子儂(ろうばしわれ)を見て慇懃(いんぎん)に
無恙(むよう)を賀(が)し且(か)つ儂が春衣(しゅんい)を美(ほ)ム
〇店中有二客(にきゃくあり) 能解江南語(よくこうなんのごをかいす)
酒銭擲三緡(さんびんをなげうち) 迎我譲榻去(われをむかえとうをゆずりてさる)
〇古駅三両家猫児(こえきさんりょうけびようじ)妻を呼び妻来らず
〇呼雛籬外鶏(ひなをよぶりがいのとり) 籬外草満地(りがいのくさちにみつ)
雛飛欲越籬(ひなとびてりをこえんとほっし) 籬高堕三四(りたかくしておつることさんし)
〇春艸路三叉中(しゅんそうのみちさんさなか)に捷径(しょうけい)あり我を迎ふ〇たんぽぽ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
三々は白し記得(きとく)す去年この道よりす
〇憐(あわれ)みとる蒲公茎短(たんぽぽくきみじかく)して乳を浥(あま)せり
〇昔々しきりに思ふ慈母の恩
慈母の懐袍(かいほう)別に春あり
〇春あり成長して浪花(なにわ)にあり
梅は白し浪花橋畔財主(きょうはんざいしゅ)の家
春情まなび得たり浪花風流(なにわぶり)
〇郷(ごう)を辞し弟(てい)に負(そむき)て身三春(みさんしゅん)
本(もと)を忘れ末を取る接木(つぎき)の梅
〇故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく)
楊柳長堤(ようりゅうちょうてい)道漸(ようや)くくだれり
〇矯首(きょうしゅ)はじめて見る故国の家
黄昏(こうこん)戸に倚(よ)る白髪の人
弟(てい)を抱き我を待つ 春又春
〇君見ずや故人太祇(たいぎ)が句
藪入(やぶり)の寝るやひとり親の側 この長詩は、十数首の俳句と数聯(すうれん)の漢詩と、その中間をつなぐ連句とで構成されてる。
こういう形式は全く珍しく、蕪村の独創になるものである。
単に同一主題の俳句を並べた「連作」という形式や、一つの主題からヴァリエーション的に発展して行く「連句」という形式やは、普通に昔からあったけれども、俳句と漢詩とを接続して、一篇の新体詩を作ったのは、全く蕪村の新しい創案である。
蕪村はこの外(ほか)にも、
君あしたに去りぬ夕べの心千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君を思ふて岡の辺(べ)に行(ゆき)つ遊ぶ
岡の辺なんぞかく悲しき
という句で始まる十数行の長詩を作っている。
蕪村はこれを「俳体詩」と名づけているが、まさしくこれらは明治の新体詩の先駆である。
明治の新体詩というものも、藤村(とうそん)時代の成果を結ぶまでに長い時日がかかっており、初期のものは全く幼稚で見るに耐えないものであった。
百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体詩より遥(はる)かに芸術的で高級で、かつ西欧詩に近くハイカラであったということは、日本の文化史上における一皮肉と言わねばならない。
単にこの種の詩ばかりでなく、前に評釈した俳句の中にも、詩想上において西欧詩と類縁があり、明治の新体詩より遥かに近代的なものがあったのは、おそらく蕪村が万葉集を深く学んで、上古奈良朝時代の大陸的文化――それは唐を経てギリシアから伝来したものと言われている――を、本質の精神上に捉(とら)えていたためであろう。とにかく徳川時代における蕪村の新しさは、驚異的に類例のないものであった。
あの戯作者的(げさくしゃてき)、床屋(とこや)俳句的卑俗趣味の流行した江戸末期に、蕪村が時潮の外に孤立させられ、殆(ほと)んど理解者を持ち得なかったことは、むしろ当然すぎるほど当然だった。 さてこの「春風馬堤曲」は、蕪村がその耆老(きろう)を故園に訪(と)うの日、長柄川(ながらがわ)の堤で藪入(やぶい)りの娘と道連れになり、女に代って情を述べた詩である。
陽春の日に、蒲公英(たんぽぽ)の咲く長堤を逍遥(しょうよう)するのは、蕪村の最も好んだリリシズムであるが、しかも都会の旗亭(きてい)につとめ、春情学び得たる浪花風流(なにわぶり)の少女と道連れになり、喃々戯語(なんなんけご)を交(かわ)して春光の下を歩いた記憶は、蕪村にとって永く忘れられないイメージだったろう。 この詩のモチーヴとなってるものは、漢詩のいわゆる楊柳杏花村的(ようりゅうきょうかそんてき)な南国情緒であるけれども、本質には別の人間的なリリシズムが歌われているのである。
即ち蕪村は、その藪入りの娘に代って、彼の魂の哀切なノスタルジア、亡き母の懐袍(ふところ)に胸を結んだ、子守歌の古く悲しい、遠い追懐のオルゴールを聴(き)いているのだ。
「昔々しきりに思ふ慈母の恩」、これが実に詩人蕪村のポエジイに本質している、侘(わび)しく悲しいオルゴールの郷愁だった。
(『郷愁の詩人 与謝蕪村』萩原朔太郎 岩波文庫 1988年)
つづく… 今朝の父の一枚です(^^)v
オオスズメバチかな?
ダーウィンが来た!「最強軍団!オオスズメバチの真実」
「◎制作こぼれ話 ちょっとディープなミニ情報」にあった
「栄養交換」を幼虫と成虫の間で行われているのを知らなかったです。
番組の中でミツバチがなすすべもなく餌食になっていたのですが
それはセイヨウミツバチです。
一方、在来種のニホンミツバチは抵抗しますよp(^^)q
「ハチの王者 スズメバチの死」(小学3年)
オオスズメバチの巣は、地中にあるために行楽シーズンに刺される事故が起きます。
大勢の人が歩くと、振動が巣に伝わってスズメバチの攻撃を受けることがあるのです。
「教えて『ハチ博士』ハチとうまく付き合うために」(八王子市)