2023年1月14日土曜日

雨の中…

昨夜からの雨が降り続いていましたが、短めのコースを歩きました。
今日から二日間

「大学入学共通テスト」が始まる 関西でも受験生が試験に臨む〟(関西NHK)

新型コロナウイルスにインフルエンザと体調管理だけではなく

受験生を守れ! 「痴漢」を防ぐためにできること〟(京都NHK 1月13日)
 アワフキムシにしては大量で次々と泡が流れ落ちてきました。
他の樹でも見られたので、家に帰って「樹皮 白い泡」で検索すると、
樹幹流と泡の関係について」(日本植物生理学会 2009年9月4日)に

前の降雨からの無降雨期間が長いほど、樹幹流に溶け込む物質量は多くなります

子供が砂場で水を流して人工の水路を造って遊ぶと、ドロ水の先端に泡状のものができますが、その現象と類似したものと考えられます
こちらはオオカマキリの卵鞘(らんしょう)

 発泡スチロールに包まれた卵

 秋も終わりに近づくと、メスの腹は成熟した卵でパンパンにふくれあがる。
そして草の茎や枝、杭、木の幹、壁などに卵を産み残す。
卵はメスが腹の先から分泌する泡の中に、数十から数百個が整然と並べられ、泡は乾燥すると発泡スチロールのように軽く丈夫になって卵を保護する。
この卵のかたまりは「卵のう」または「卵しょう」と呼ばれ、種類ごとに形が違っている。
「発泡スチロール」で寒さに守られているカマキリの卵だが、寄生者はやすやすとこの障害物を通り抜ける。
カマキリタマゴカツオブシムシやオナガアシブトコバチといった昆虫が、卵のうの中でぬくぬくと卵を食べて成長する。
カツオブシムシは、卵ばかりか卵のうまで食べるそうだ。
このような天敵にやられなければ、次の年の春、小さくても立派な鎌を持った幼虫たちがぞろぞろとふ化して出てくる。
(『虫のおもしろ私生活』 ピッキオ編著 主婦と生活社 1998年)
1月14日 明治7年(1874) 右大臣岩倉具視(いわくらともみ)、高知県士族武市(たけち)熊吉らに襲われ負傷(赤坂喰違<くいちがい>の変、7月9日、犯人漸罪)
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

朝ドラ「舞いあがれ!」の主人公は福原遥さんが演じる岩倉舞。
岩倉」と言えば、源氏物語ゆかりの地、大雲寺を思い浮かべます(2016年5月16日の記事)
この時、「岩倉の地は前から訪ねてみたかったのです。
そのことについて詳しくは、別の機会に紹介したいと思います」
と書いておきながら紹介せずにいたことを思い出しました(^^ゞ
岩倉村への道

   岩倉の狂女恋せよほととぎす  蕪村

 江戸中期の俳人与謝蕪村(1716~83年)が安永2年(1771年)、今から二百有余年前、京都にきての俳句といわれています。

…中略…

 岩倉という地名は、全国各地にあり、神が降臨する依代(よりしろ)としての磐座(いわくら)より起こったものといわれ、岩に対しての信仰の地の一つで、この岩倉村には、石座神社、山住神社が今も残っています。
京都の岩倉村は、江戸時代末期に、岩倉具視が一時期閑居していた地としても知られていますが、都の中心地から北へ10キロ離れた比叡山のふもとの山岳地で、京都の上座敷(古くから別荘地、隠棲地)とされ、今でも空気がおいしく、蕪村の俳句のようにほととぎすの声を聞くことができる所です。
戦後の1949年に京都府愛宕(おたぎ)郡岩倉村は、京都市に編入され、岩倉となります。
それ以前の岩倉村は、歴史的、宗教的遺跡の多い地で〝紫雲〟たなびく大雲寺、実相院を中心とした村で、戸数450、人口3000人(1930年)、農耕、山林の他、荷造り用の縄作りを業とするまずしい地で、里子の村としても古くから知られていました。
(『京都障害者歴史散歩』藤本文朗・藤井克美編 文理閣 1994年)
  今は京阪三条から「岩倉実相院」行きの京都バスが、鴨川ぞいに上がること20分で、岩倉実相院につきます。
地域は、住宅地に変わりつつあり、マンションも多く建てられています。
いちばん残念なのは、大雲寺がつぶされたことで(1985年頃)、その後に老人ホームが建てられています。
裏地の墓地に、大雲寺開基千年にむけての大雲寺復興協賛事業のカンバンがかかげられています。
わずかに裏山のすその地に、大雲寺の霊泉の出た閼伽井(あかい)屋のお堂と井戸、その横に「不動の滝」(瀑竜に没す)だけが今は水も枯れて、さびしく残っています。
 精神病院が二ヵ所あり、地域の公園では、解放病棟の患者さんが、散歩を楽しんでいる姿をよくみかけます。
地域を歩いてみますと、新築住宅や、マンションが多く建てられ、新しい町にかわりつつありますが、古い建物の中に、かつて、精神障害者の療養所としての家(鉄格子)もみられます(前頁写真参照<省略>)。
 岩倉村は、戦前、地域で精神障害者をうけとめている地として、世界的に名が知られており、「西のゲール,東の岩倉」(呉秀三・東大初代精神科教授、スチーダ W.Stieda・ロシアの精神科医)といわれましたが、この地になぜ、精神障害者が受け入れられるようになったかを探っていきたいと思います。
  岩倉村・大雲寺より御所へ

 岩倉村の大雲寺と障害者のかかわり、その歴史的変遷は、表1(省略)のとおりです。
平安時代、10世紀末に岩倉の地に、比叡山の天台宗の宗派の一派寺門派の僧が、大雲寺・解願寺をあいついで建立します(天禄2年、971年)。
寺門派は勢力拡大のためもあって、御所とのつながりを深めていき勅願寺となり、冷泉天皇皇后の昌子内親王によって、寺内の別所に観音院が創建されます(寛和元年,985年)。
その理由は「少右記」(長保元年9月21、2日)によると、冷泉天皇の皇后昌子内親王が、御所で〝もののけ〟につかれた時、大雲寺座主余慶僧正が召されて祈祷したところ病が癒(い)えたので、内親王は大雲寺に観音院を建てて自分をこの地に葬るよう(今も岩倉に昌子内親王の御陵は残っている)遺言されました。
  また、この地に精神病院を初めて開いた土屋栄吉博士の一文では、次のように述べています(文献としては大雲寺観音寺由来、御香水之由来として残っている)。

 「此大雲寺が古来精神病者平癒の祈祷所となった其起源に就いてはそこに左の如き有名なる伝説がある。
  人皇七十一代後三条天皇の皇女は妙齢二九の御時挙動当ならず髪を乱し、衣を裂き帳に隠れて物言はず、言へば戯言(わたごと)にて心全く喪はせらる、ために聖慮穏ならず、神仏に平癒を祈願し給ひたるに、一夜霊告あり。此霊告に依り直に勅して皇女を岩倉大雲寺の篭らしめ、境内にある不増不滅の冷泉を日毎に飲用しめ給ひしに、幾何もなく疾患癒え聡明元に復し給ふ。云々」
(京都医事衛生誌第四百三十九号、昭和5年10月号)
 この時期は次頁に示す大雲寺古絵図(1021年頃<省略>)にみられるように、岩倉全体が大雲寺の敷地で三塔、七塔伽藍、四十九院など別所、諸堂があったようです(文献的には「大雲寺諸堂記、目録」があります)。
高僧もいましたが、僧兵千人、寺領十万石といわれ、皇室、御所のつながりが強く、この地には、一般の庶民は出入りできなかったと考えられます。
この時期のたたずまいは、いまも実相院から岩倉川までの道にかすかに残っています。
 大雲寺と観音院は、前に述べたように、第一期の十世紀、十一世紀時代は皇室とのつながりが強く、紫式部はその日記(「紫式部日記」寛弘5年7月20日)に「観音院の僧正ひんがしの村より二十人の僧を率いて御加持にまいりたまふ足音、渡殿の橋にとどろとどろと踏み鳴らささへぞ。ことごとのけはいには似ぬ」と、描いています。
 大雲寺観音院の僧正など二十人の僧集団が、御所にきて、密教としての加持祈祷をする様子です。
出産を前にした中宮彰子のためでした。
僧正とは僧正勝算(観音院を創建したときの餘度の弟子)で紫式部とは日常的に接している関係です。
当時御所には大雲寺、観音院の僧がたえず出入りしていたことが「小右記」「御堂関日記」などに記されています。
 また「栄華物語」(巻第八『初花』)にも次のような記述がみられます。
 「かかるほど、女二宮むけに不覚に限にておはしましけるに、岩倉の文慶阿闍梨参りて御条法仕まつりけるに、あさましましける御心地、かきさまし怠らさえ給ぬ。いはん方なく嬉しき事に内おぼしめしして、律師になさせ給へれば『仏の御験(しるし)はかようにこそ』と羨しう思う類(たぐひ)ども多かるべし」
 ここでの岩倉の文慶は、先の餘度の弟子です。
「女二宮」は媄子(よしこ)内親王で、御悩の際数日の修法によって快癒を致した時のことです。
 これらの資料からみると、第一期の岩倉大雲寺、観音院の精神障害者へのかかわりは、三つの特徴を持っていたといえるでしょう。
 一つは、大雲寺や観音院の僧が、御所に出かけていって精神障害者になった皇室の人々に、密教的「治療」を行っていたと考えられることです。
「治療」の場所は、資料でみるかぎり、御所の中ではないかと思われます。
皇族、貴族が岩倉村まで出かけることは当時としてはむつかしかったのではないでしょうか。
いわば、岩倉の僧の「出まい」の治療で、岩倉はその基地であったのです。
 二つは、私が調べてみても、皇室関係では〝もののけ〟などの精神障害者が多かったといえることです。
さらに皇女関係は文章にも多いのですが、実際は男の場合も多く、女性に転化して記述されているとも考えられます。
いずれにしても、御所、皇室の生活は、人間の生活として健康的ではなかったと考えられます。
このことは今もかわらないといえましょう。
 三つめは、大雲寺の高僧がおこなった〝治療〟(加持・祈祷、加持とは患者を抱擁したり身体をつかまえて激しくゆさぶったりして祈祷するもの)は、この時期は密教的なものですが、高僧の力に依存し(威光効果)、〝もののけ〟を追い出してもらうことでした。
 しかし一部には〝おこもり〟を岩倉の地でさせる(隠す)こともあったと考えられます。
(『京都障害者歴史散歩』藤本文朗・藤井克美編 文理閣 1994年)

大雲寺の歴史」(大雲寺HP)

北岩倉大雲寺」(都名所図会 国際日本文化研究センター)
こもりや」が記されています。
今朝の父の一枚です(^^)/

ウメ
 縁起の良い木


「梅」という漢字の旁(つくり)「毎」は「多産の母」という意味で、各枝に鈴なりの果実をつけるウメらしい字です。
そして何より新春を代表する木ですから縁起が良いものとされ、正月最初の「卯」の日に献上される縁起物「卯杖(うづえ)」の材料としても用いられました。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)