2023年1月18日水曜日

曇り空で…

今朝も曇りですっきりしない天気…
帰る頃に青空が広がってきました。
今日は、寒さがやわらぐみたいだけど、来週は雪の予報も…

早咲きの菜の花が見頃 富士山を背景に 神奈川 二宮町」(神奈川NHK 1月17日)

blogを更新しようとしたら
インドネシア M7.2の地震 日本では被害の心配なし 気象庁」(NHK)
最近、多いような気がするのだけど…
1月18日 平成2年(1990) 本島等(もとしまひとし)長崎市長、市役所玄関前で銃撃され重傷。
長崎県警、右翼団体員を逮捕。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

本島長崎市長 銃撃され重傷」(NHKアーカイブス 1990年)
先日紹介したように
岩倉具視が明治7年1月14日に喰違で襲われました。
江戸城 喰違見附跡」(江戸東京歴史文化ルネッサンス)
   うちつづく内乱外征

  喰違の変と佐賀の乱


 民撰議院と天賦人権の主張は、やがて広範な人民と結びつき、これまで日本歴史上に一度もなかった革命党をうみだすが、明治7年(1874)ないし10年の政府にとっては、当面は武力をもって反抗する士族のほうが難題であった。
 明治7年1月14日夜、右大臣岩倉具視は赤坂の仮皇居から馬車で帰邸の途中、喰違(くいちがい)にさしかかったところで、不意に数人の刺客のおそわれた。
一人は場所の右の轅(ながえ)をのぼって車内に切りかけ、岩倉のみけんをかすった。
一人は後から馬車のほろを切った。
岩倉は御者台にはいこみ、そこに身を伏せていたら、また後から切りかけられた。
幸いに腰に刀をさしており、刺客の刀はそれにささえられて、わずかにかすり傷を負うただけであったが、おどろいた岩倉は馬車から溝へころげ落ちた。
刺客はかれを殺したものと思ってひきあげた。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫 2006年改版)
 政府は上を下への大さわぎ。
ただちに新設したばかりの警視庁の川路利良大警視に、犯人の厳探を命じたばかりでなく、太政官の命令で全国兇徒探索を命じた。
17日夜、まず5人が捕らえられ、ついで残る4人も捕らえられた。
犯人は武市熊吉ら高知県士族で、もと近衛の陸軍少尉ら将校・下士官であった。
かれらは岩倉が征韓の閣議を独断でくつがえしたことを憤ってこの挙におよんだのであった。
形ばかりの裁判により、7月、9人ことごとく斬罪に処せられた。
 刺客についでくるものは叛乱であろうとは、だれしも予想した。
はたして2月、佐賀の士族が前参議江藤新平・元秋田県権令島義勇(しまよしたけ)を首領として、征韓と攘夷を名として叛乱した。
 佐賀にはかねて島を首領とする憂国党という猛烈な攘夷主義党と、東京の江藤に通ずる征韓党があり、両党ははげしく対立しており、またべつにそのいずれにも属しない中立派があった。
これを中立というのは他人がつけた名で、主として無気力者の別名のように佐賀では見られた。
征韓論による政府の分裂は、征韓党と憂国党とを近づけ、両者合していまにも暴発しそうになった。
佐賀出身の江藤はそれを鎮撫すると称して、1月13日、東京を去って佐賀に帰った(したがってかれは民撰議院設立建白のときはすでに東京にいない)。
 江藤の帰県で征韓党はますます気勢をあげ、憂国党もまた征韓党に負けじとばかりに悲憤慷慨して政府をののしり、両党たがいにその反政府の過激ぶりと勇気のほどを競うありさまとなった。
江藤は旧藩校弘道館(こうどうかん)に「征韓先鋒請願事務所」を設けて、兵器を集め挙兵の準備をととのえるとともに、薩摩の西郷、土佐の林有造そのほか各地の同志と目するものに密使を送り、ともに挙兵せんことを説かせた。
そのうち2月1日、憂国党が小野組の支店をおそうてその金穀を略奪し、公然叛乱にふみきった。
 この急報が東京に到着すると、政府は2月4日、熊本鎮台に命じて佐賀県に出兵させた。
大久保は、もしここで佐賀士族をばっこさせるならば、九州一円の大騒動にもなりかねず、また逆にすみやかにこれを鎮定して政府の厳然たる威力を示せば、ほかの不平士族にもよいみせしめになるとして、みずから願い出て、2月10日、この鎮定のために軍事・裁判の全権を委任された。
この日、政府はまた熊本・広島・大阪の三鎮台に出兵を命じた。
大久保は13日東京発、横浜から船で大阪に行き、野津鎮雄少将らと軍略を打ち合わせて、17日、博多に上陸した。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫 2006年改版)

佐賀の乱」(大蘇芳年筆 東京都立中央図書館)
明治7年頃の樋口一葉(名は奈津。なつ、夏子とも自著)について

 桜木の宿

 父則義は東京府の下吏の給料だけでは食えぬので、明治7年のころから小金貸しや不動産のサイドビジネスを始め、蓄財に励み、最初はかなり成功したらしい。
このころ夏目漱石の父直克は一葉の父則義とは同僚である。
7歳の漱石金之助が2歳の一葉なつと幼どちの会話をかわすという山田風太郎の小説はあながち荒唐無稽とはいえない。
直克は漱石の兄大介となつの縁談を口にしたこともあったという。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
 一家は、下谷区練塀(ねりべい)町四十三(明治5年8月~7年2月、現千代田区練塀町3)、麻布三河台町五(7年2月~9年4月、現港区六本木3―14―10)を経て、一葉が三つ(以下満年齢を用いる)のとき、明治9年4月、第四大区七小区本郷六丁目五番地の屋敷(現文京区本郷5―26―4)に越し、14年7月まで5年あまり住んだ。
この家はようやく借家ではなく、232坪の土地に45坪の屋敷が建ち、価格は五百五十円であった。
 「上杉の隣家(となり)は何宗かの御梵刹(おんてら)さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植(うえ)わたしたれば、此方(こなた)の二階より見おろすには雲は棚曳(たなび)く天上界に似て、腰ごろもの観音さま濡れ仏にておはします」(「ゆく雲」)。
 この寺とは東大赤門前の浄土宗法真寺(ほうしんじ)
いま境内に一葉記念館をつくり、毎年11月23日の命日には一葉忌をとり行っている。
 「一葉さんのいたのは寺の門の左手前、二階よりというと総二階の立派な家と思いますが、二階とは二坪ばかりの小部屋で、屋根も板ぶきだったらしい。前が加賀様の屋敷ですから、例の十一代将軍家斉(いえなり)の娘溶姫のお輿入(こしい)れで赤門をつくるとき、町屋がこちら側に移された、その名残りである可能性がありますね」。
と住職の伊川浩永氏に聞いた。
何代か前の松浦という住職の子が一葉と幼なじみで、「たけくらべ」の信如のモデルかもしれません、とも教えて下さった。
 「かりに桜木のやどといはゞや、忘れがたき昔しの家にはいと大いなるその木ありき、狭うもあらぬ庭のおもを春は左(さ)ながら打おほふ斗(ばかり)咲みだれて、落花の頃はたゝきの池に浮く緋ごひの雪をかづけるけしきもをかしく、松楓(かえで)のよきもありしかど、これをば庭の光りにぞしける」(「雑記十一」)。
 一葉は亡くなる年の「雑記」で幸せだった少女時代を懐かしんでいる。
のちに森鴎外の親友、画家原田直次郎が住み、画塾を開いたのも、その家らしい。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 「だるまさんが転んだ」を1羽でやっている鳥

「だるまさんが転んだ」という遊びをご存じでしょうか?
簡単にいうと、鬼が「だーるーまーさーんーが……」と言っている間に、他のプレイヤーは動くことが可能で、鬼は「……転んだ」まで言い切って振り向いたときに、動いている人がいれば捕虜にできる、鬼は全員を捕虜にしたら勝ち、プレイヤーは鬼のところまでたどり着けば勝ち、という遊びです。
 ツグミという冬鳥は、草地などの開けた場所で、テテテーッと素早く歩いていたかと思うと、急にピタッと立ち止まります。
またテテテーッと歩く、立ち止まる、という動きを繰り返します。
その動きは「だるまさんが転んだ」にそっくりです。
 ツグミは、ハトやセキレイのように首を動かして歩くことはしません。
立ち止まったときに、周りをよく見て、安全を確認したり、エサを探したりしているようです。
 なお、ツグミは例年、日本に渡ってきたばかりの頃には、樹上で木の実を食べていることが多いので、あまり「だるまさんが転んだ」は見られません。
冬が深まってくると、地上に降りて、よく採餌をしているので、見られるチャンスが増えます。
(『身近な「鳥」の生きざま事典』一日一種著 SBクリエイティブ 2021年)