2023年1月31日火曜日

1月も終わり…

今日で1月も終わり…
久しぶりに風もなく陽ざしが暖かったです。
でも、帰るときには雲が空を覆って冷たい風が吹きました。
 「軍のクーデターから2年 ミャンマーの現状伝える展覧会」(京都NHK)

ミャンマーとアフガニスタンとの関係を深めているのが中国。

中国、ミャンマーやアフガン関与強化 安定化主導で浸透図る」(産経新聞 2022年3月30日)

そしてロシアは、今後、中国の援助が必要になるだろう。
中国の属国になるかもしれないとも思う。
「異次元」といえばインパクトがあると思っているのかな?
深刻な少子化 「異次元」の対策どうまとめる〟(読売新聞 1月21日)
 だが、従来の現金給付を拡充するだけで、子供を産みたいと思う人がどれだけ増えるのか。
効果に疑問を抱かざるをえない。


現在の日本は子育てをするのが、困難な国になっていると思う。
でも、そんな子育てに対して江戸時代や明治の中頃までは
 第十章 子どもの楽園

 日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。
彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の愛用するところとなった。
(『逝きし世の面影』渡辺京二 平凡社ライブラリー 2005年)
 事実、日本の市街は子どもであふれていた。
スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわている」のだった。
1873(明治6)年から85年までいわゆるお傭い外国人として在日したネットー( Curt Adolph Netto 1847~1909)は、ワーグナー( Gottfried Wagener 1831~92)との共著『日本のユーモア』の中で、次のようにそのありさまを描写している。
「子供たちの主たる運動場は街上(まちなか)である。……子供は交通のことなどすこしも構わずに、その遊びに没頭する。かれらは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬夫が、独楽を踏んだり、羽根つき遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、紙鳶(たこ)の糸をみだしたりしないために、すこしの迂り路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者(うまののりて)や馭者を絶望させうるような落着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する」。
 1872年から76年までおなじくお傭い外国人として在日したブスケもこう書いている。
「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたはいろいろな形の凧をあげており、馬がそれをこわがるので馬の乗り手には大変迷惑である。親は子供たちを自由にとび回るにまかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が馬の足下で子供を両腕で抱きあげ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」。
こういう情景はメアリ・フレイザーによれば、明治二十年代になってもふつうであったらしい。
彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって坐っている太った赤ちゃんを抱きあげながらわきへ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ」のだった。
 明治4年、静岡学校教師として招かれた米人クラーク( Edward Warren Clark 1849~1907)は、6年の末に東京へ移ったが、「街頭で最も興味ある光景は、子供の遊戯」だった。
「米粉で化粧され、唇は真赤に染められ、頭髪は甚だ異様に結いあげられた」少女たちが、五、六人輪を作って羽子板遊びをしていた。
彼女らの歌っているのは、羽根つきの邪魔をする風を鎮める歌だった。
男の子たちは凧あげに夢中だ。
クラークは最初、ブーンブーンという「空から聞えてくる不思議な音」が何だかわからなかった。
竹馬に乗って競争する子たちがいるかと思うと、6歳くらいの子が角力をとっている。
「彼らの身体は頑丈で丸々と太っていて、その赤い頰が健康と幸福を示していた」。
クラークの見たのはむろん正月風景である。
 エドウィン・アーノルドは1889(明治22)年来日して、娘ととともに麻布に家を借り、一年二ヵ月滞在したが「街はほぼ完全に子どもたちのものだ」と感じた。
「東京には馬車の往来が実質的に存在しない。
四頭立ての馬車はたまにしか見られないし、電車は銀座とか日本橋という大通りしか走っていない。
馬にまたがり、鞍垂れをつかんで走る別当を連れて兵営を往き帰りする将校にときたま出会うくらいだ。
こういったものは例外だ。
従って、俥屋はどんな街角も安心して曲ることができるし、子どもたちは重大な事故をひき起す心配などこれっぽちもなく、あらゆる街路の真っただ中ではしゃぎまわるのだ。
この日本の子どもたちは、優しく控え目な振舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、見るものを魅了する。手足は美しいし、黒い眼はビーズ玉のよう。そしてその眼で物怖じも羞かみもせずにあなたをじっと見つめるのだ」。
 子どもが馬や乗物をよけないのは、ネットーによれば「大人からだいじにされることに慣れている」からである。
彼は言う。
「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子供たちが結構家族全体の暴君になっている」。
ブスケにも日本の「子供たちは、他のどこでより甘やかされ、おもねられている」ように見えた。
モースは言う。
「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。
いちいち引用は控えるが、彼は『日本その日その日』において、この見解は文字通り随所で「くりかえし」ている。
 イザベラ・バードは明治11年の日光での見聞として次のように書いている。
「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている。毎朝6時ごろ、12人か14人の男たちが低い塀に腰を下して、それぞれ自分の腕に2歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集りでは、子どもが主な話題となっているらしい」。
彼女の眼には、日本人の子どもへの愛はほとんど「子ども崇拝」の域に達しているように見えた。
 男たちが子どもを腕の中に抱いている光景にはオールコックも注意をひかれた。
「江戸の街頭や店内で、はだかのキューピッドが、これまたはだかに近い頑丈そうな父親の腕にだかれているのを見かけるが、これはごくありふれた光景である。父親はこの小さな荷物をだいて、見るからになれた手つきでやさしく器用にあやしながら、あちこち歩きまわる」。
このくだりはワーグマンのスケッチがついている。
モースも父親が子どもと手をつなぎ、「何か面白いことがあると、それが見えるように、肩の上に高くさし上げる」光景を、珍しげに書きとめている。
 カッテンディーケは長崎で安政年間の見聞から、日本人の幼児教育はルソーが『エミール』で主張するところとよく似ていると感じた。
「一般に親たちはその幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」。
親は子どもの面倒をよく見るが、自由に遊ばせ、ほとんど素裸で路上をかけ回らせる。
子どもがどんなにヤンチャでも、叱ったり懲らしたりしている有様を見たことがない。
その程度はほとんど「溺愛」に達していて、「彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない」。
 日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも16世紀以来のことであったらしい。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロン( Avila Giron )はこう述べている。
「子供は非常に美しくて可愛く、6、7歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである」。
日本人は刀で人の首をはねるのは何とも思わないのに、「子供たちを罰することは残酷だと言う」。
かのフロイスも言う。
「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責(けんせき)するだけである」。
 ヒロンやフロイスが注目した事実は、オランダ長崎商館の館員たちによっても眼に留められずにはおかなかった。
ツュンベリは「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書いている。
「船でも」というのは参府旅行中の船旅を言っているのである。
またフィッセルも「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対して寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」と述べている。
 このことは彼らのある者の眼には、親としての責任を放棄した放任やあまやかしと映ることがあった。
しかし一方、カッテンディーケにはそれがルソー風の自由教育に見えたし、オールコックは「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっている」と感じた。
「すなわち日本の子供たちは自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることがない」。
…後略…
(『逝きし世の面影』渡辺京二 平凡社ライブラリー 2005年)

江戸時代や明治の中頃までは、男も子育てをするのが当たり前の時代だった。

現在の首相の認識は…
育休中は暇じゃない!!…岸田首相の「育休中にリスキリング」答弁に批判殺到……〟(東京新聞 1月30日)
今朝の父の一枚です(^^)/

アトリ 獦子鳥

…前略…

 このように、さまざまな漢字が用いられている。
まず、(1)『大言海』に「蠟子鳥の漢字は蝋嘴なるべし、嘴の色は黄白にして、蝋の如し」とあるとおりであろう。
(2)『角川・漢和中辞典』によると、「猟は、また獦を作り、猟犬の種類をいう。借用して、かり。臈は俗字でその正字は蠟」である。
(3)澤瀉(おもだか)久孝『万葉集注釈』では「獦は蝋の俗字であるが、当時は獦を用いることが例になっていた」という。
  *
 アトリを表す漢字名として、ひとつは上の(1)から「蝋觜(=嘴)鳥」。
ほかの一つは天武天皇紀や『和名抄』にあるように、この鳥の山林に満ち溢れるような大群が見られることと、その動きを狩猟の列卒すなわち勢子に見立てた、「獦(または猟)子鳥」である。
 次に「あとり」という和名の語源については、『大言海』に「集鳥(あつとり)の略なるべし」とある。
この説は漢字名「猟子鳥」にも結びつく。
江戸時代初期に発行された『日葡(にっぽ)辞典』には、「Attori、獦子鳥」とあり、アットリと促音である。
(『野鳥の名前 名前の由来と語源』文:安部直哉、写真:叶内拓哉 ヤマケイ文庫 2019年)