2023年1月19日木曜日

日向を歩くと

 久しぶりに朝から青空が見えて
野良ちゃんのように日向ぼっこをしているとポカポカしてきます(*´▽`*)
でも、明日から強い冬型の気圧配置となるので……

あすから北日本 日本海側中心に猛吹雪のおそれ 十分注意を」(NHK)
1月19日
 安政7年(1860.2.10) 幕府軍艦咸臨丸(かんりんまる)、アメリカ渡航のため品川を出発(軍艦奉行木村喜毅<きむらよしたけ>・軍艦操練所教授勝海舟<かつかいしゅう>ら搭乗)(維新史料綱要)。

 明治32年(1899) 〔忌〕勝海舟(77、政治家)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

勝海舟」(小学6年)
江戸城開城については、勝海舟や西郷隆盛、山岡鉄舟などが教科書で取り上げられますが…

五 王政復古に文明開化
 皇女に救われた徳川家(静寛院宮、庭田嗣子、土御門藤子)
  静寛院宮の誉れ


 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いがおこり、徳川慶喜は海路東走して、12日主戦論が沸騰している江戸城に帰ってきた。
朝敵となった慶喜は、その日天璋院に事の顚末(てんまつ)を報告したが、静寛院宮は慶喜の面会を許さなかった。
その後、天璋院のとりなしで面会ができ、慶喜は退隠の決意と後継者の選定、そして謝罪のことを朝廷に伝奏してほしいと嘆願したが、宮は謝罪のことのみ引き受け、その嘆願方法を協議した。
静寛院宮は慶喜の書いた嘆願の内容、措辞ともに厳しく訂正を加えてから、上臈土御門(つちみかど)藤子を使者に立てることにした。
嗣子(つぐこ)なきあと、宮の采配ぶりは立派であった。
(『女たちの幕末京都』辻ミチ子 中公新書 2003年)
 土御門藤子は陰陽頭(おんみょうのかみ)土御門晴親(はれちか)の四女で、和宮上臈頭として江戸に下り京方女房を勤め、庭田嗣子の没後は側近の筆頭になってよく宮をたすけた。
藤子は慶喜の嘆願書と、橋本実麗(さねあきら)・実梁(さねやな)父子にあてた静寛院宮の直書各一通をもって京都へ向かった。
2月1日、桑名光徳寺(現桑名市)に帯陣中の東海道先鋒総督兼鎮撫使橋本実梁に面会して、宮の直書を渡した。
藤子は実梁をして「其御身なり、にしきの御したたれめし御出遊し(中略)御りっぱ成事。しかし、心よからぬ事に存なげかわしく存候」(「土御門藤子筆記」『静寛院宮御日記』)と観察し、実梁が宮の願い事などは聞かない素振りに見えたので、「中々けしからぬ御事」と、藤子は心よく思わなかった。
 錦の直垂(ふたたれ)を着た実梁が手にした静寛院宮の直書には、「慶喜是れ迄、重々不行届の事ゆえ、慶喜一身ハ何様ニも仰付られ、何卒、家名立行候様、幾重ニも願度さ(ママ)、後世迄、当家朝敵之汚名を残し候事、私身に取候てハ、実に残念ニ存じ参らせ候。何卒、私への御憐愍(れんびん)と思しめされ 汚名を雪(そそぎ)、家名相立ち候様、私身命ニかえ願上まいらせ候」(『静寛院宮御日記』)とあり、徳川家が滅亡すれば、「急度(きつと)覚悟致し候所存」と述べ、「朝敵と共ニ身命を捨候事ハ朝廷へ恐入候事と、誠ニ心痛致し居候」(同前)と、朝廷と徳川家の間にあっての沈痛の思いが記されていた。
ちょうどその頃、西郷隆盛は大久保利通にこんな手紙を書いている。
「慶喜退隠の嘆願、甚(はなはだ)以て不届千万。是非、切腹迄ニハ参り申さず候ては相済まず(中略)静寛院と申ても、矢張賊の一味と成りて退隠ぐらいニて相済候事と、思し召され候わば、致方なく候に付、断然、追討あらせられ候事と存じ奉り候」(『大久保利通文書』)と。
ところが、一方では朝幕の紛争が長びけば、英仏など列強の干渉を招く恐れがあると案じる岩倉具視やは、時局収拾のために寛典論を唱え、主張が対立して結論がなかなか出せなかった。
 さて、土御門藤子は京をめざし、2月3日土山(つちやま)宿(現滋賀県甲賀郡土山町)で、「関東の男子向(むき)は草津迄にて、一人も入京を成申さず、女向はよろしきよし」(「土御門藤子筆記」)と聞いた。
戦争中には女の働く場があった。
藤子は6日に京都に着いた。
倉橋泰聡(やすとし)を通じて議定長谷信篤(ながたにのぶあつ)、参与万里小路博房(までのこうじひろふさ)に嘆願書を届けたが、すぐには返答ができないといわれ、藤子が御所へ「御ふみ」を上げたいといっても「成申さず」と拒絶された。
そのとき、新政府内では慶喜に対する寛厳両論にまだ決着がつきかねていた。
 待たされて待たされて、2月16日、藤子は「書取にて御返答」をもらいその夜は橋本邸で朝廷に実麗に与えられた「口演書(こうえんしょ)」(口頭で述べられたものを記した書)を受け取り、屋敷に帰ったのは夜明けだった。
18日「御返答」をもった藤子は京都を出立し、30日に江戸に帰った。
「御返答」の内容は、静寛院宮の願意によって朝議を尽くすというもので、「口演書」は慶喜が謝罪の実をあらわすなら、一応徳川家を存続させるであろうというものであった。
まさに重要書類が、宮の手に渡ったのである。
 静寛院宮はまず幕臣に朝廷の寛典の方針を伝え、山王社に江戸の人心鎮静を祈願させた。
そいて、いっぽう3月11日陣中の橋本実梁に再び藤子を遣わして、帰順する徳川家臣の宥免(ゆうめん)を求め、13日宮付きの侍女玉島を板橋駅の陣営に遣わし、東山道鎮撫総督岩倉具定(ともさだ)にしばらく進撃中止を願わせた。
これが功を奏し、実梁は帰順者宥免の方針を承諾、和平交渉の進んでいることを知らせた。
具定は大総督府の命令があるまで進撃を中止することを約した。
宮が幕臣の鎮撫、恭順の実をあげることに、いっそう力を尽くしたことは言を俟(ま)たない。
 表舞台は周知のとおり、西郷と山岡鉄太郎(鉄舟<てっしゅう>)の交渉で朝廷の示す謝罪条件が明らかになり、3月13、14日の西郷と勝海舟の会談で謝罪条件が合意に達し、15日の江戸総攻撃は回避された。
それでもなお静寛院宮は、徳川家家臣の真の忠義の道を諭達し、軽挙妄動を慎むように戒めた。
4月になって江戸城明け渡し、慶喜の死罪一等を宥(なだ)め、水戸に謹慎の朝旨が伝えられた。
4月9日宮は実成院(家茂の生母)とともに江戸城を出て、清水邸に移り、10日天璋院は本寿院(家定の生母)とともに一橋邸を退去した。
7月17日、江戸が東京と改められ、家督相続が認められた徳川家達(いえさと)は、8月9日駿府(すんぷ<静岡>)移封(いほう)を完了し、9月8日、慶応4年は明治元年に改元し、一世一元(いっせいいちげん)の制が定められた。
 明治天皇は京都をあとに10月13日東京に着き、11月になって静寛院宮は従姉弟(いとこ)にあたる天皇と初めて対面し、帰京の打ち合わせがあった。
明治2年(1869)2月3日やっと京都へ帰った宮であったが、遷都宣言がないまま天皇が、続いて皇后が東京へ移るという、いわゆる「車駕東幸(しゃがとうこう)」で朝廷と公卿衆、有力町人まで東京へ移っていった。
 宮は聖護院に入り、のち朝彦親王の旧邸に移り、宮の住居を「栄御所(さかえごしょ)」と呼んだが、すでに京都での宮の居場所はなくなっていた。
明治7年、宮は東京麻布にもどり、皇室の殊遇(しゅぐう)を受け、徳川家一門とも親睦をもって、文芸の道にいそしむ生活に入ったが、脚気(かっけ)を患って湯治に出かけ、明治10年9月2日、湯治さきの箱根塔の沢で薨去した。
32歳であった。
法号は好誉和順貞恭大姉、芝山内の家茂の墓と並んで葬られた。
徳川家を救った皇女和宮は、江戸を戦火から守った人物としてその名は堂々と歴史に残った。

    明治三年一月二日
    いむてふ言葉をいはしとて忍へるを
  くるしさに忍ふもをかし今日あすは
    いむてふことをいはし物をと
         「詠草 親子(ちかこ)

 江戸城では正月三ガ日でも「斎(い)む」、すなわちけがれを避けて身を浄め慎むという言葉が出せなかった。
清浄でなければならぬ和宮にとって、武家社会における生活の苦痛のほどが偲ばれる。
(『女たちの幕末京都』辻ミチ子 中公新書 2003年 紙版は品切れ)
今朝の父の一枚です(^^)/
シロハラを写していました。

 鳥はなぜ南北に移動する?

 鳥が渡りをするようになった理由はいろいろ考えられます。
 一つの説はこうです。
鳥はかつて南半球の熱帯雨林で大量に増え、ついには、土地や資源が足りなくなった。
そこで、一部の鳥が緯度の高い地域に繁殖エリアを広めることを選択。
しかし冬が到来するころには低緯度の場所に帰らざるを得なくなった……。
 あるいは、北半球の高緯度エリアに住んでいた鳥の一部が、冬が近づくと低緯度の地域に移って冬を越すようになった。
そうして毎年、行ったり来たりしているうちに、最終的には同じ経路を定期的に行き来する「渡り」をするようになった……。
そんな説もあります。

 グローバルな視点で考えたある専門家は、季節的な気温の変化が、鳥が渡りをするようになった主な理由だと指摘しています。
鳥は寒くなると、体温を保つために普段よりもエネルギーを必要とするのに、冬場は食べ物が十分に手に入らなくなるからです。
そして、それ以外の環境条件が渡りの理由になることはあまりないそうです。

 鳥は渡りの途中、「中継地(stop-oversite)」で適時食事をして体力を回復させなければなりません。
ですから陸地と海の位置関係は、飛行経路の選定にも影響します。
たとえば、シベリアや中国の東北地方、モンゴルで繁殖する渡り鳥は、カムチャツカ半島、日本、台湾、フィリピン、東アジアを経由して、最終的にはオーストラリアに飛来します。
東アジアとオーストラリアを結ぶルートを持っているのですね。
その間にある島々は、渡り鳥が羽を休める大切な中継地なのです。
(『鳥類学が教えてくれる「鳥」の秘密事典』陳湘靜・林大利著、 牧髙光里訳、今泉忠明監修 SBクリエイティブ 2023年)