2021年1月5日火曜日

小寒

どんよりとした曇り空でした。
今日は、「小寒(しょうかん)
これからさらに寒さが厳しくなります。

今週後半 再び寒波」(えりの気象日記 1月4日)
今朝のニュースの中で「〝きつ音の大統領〟就任への期待」(44分30秒頃)
リハビリに出かける準備をしながら見たのですが、以前、紹介したことがあります。

またロバート・キャンベルさんが2020年8月21日のTwitterに

滑らかに喋ることができない13歳の少年ブレーデン君が民主党大会で1番雄弁なスピーチを☆
小さい時から吃音で苦しんだバイデン氏が彼と出会い、
「僕ら同じクラブのメンバーだね」と言い抑えるヒントを与えていました。
経験に基づく他者への共感に、ホッとさせられます


大学時代、吃音の教授がおられました。
教授の講義は、一つ一つの言葉を真剣に発せられていて、聞く方も集中していました。

一方、言葉が出ないのでなく、内容がない方がいる…
 平野啓一郎さんのTwitterに

首相の余りにも乏しい記者会見の機会に、メディアは絶対に、
緊急事態宣言と同時に、補償をどうするのか、
検査・保護・隔離へと戦略転換するのか、
ワクチンのスケジュールがどうなっているのかを質問し、
その場ですべて「具体的に」答えさせるべき。
それをせずに逃げさせるなら報道機関の意味はない。

 以前読んで、何カ所も線を引いていた本
(私は、軽度のADHDの注意欠如があるようで、そのまま読んでいるといつのまにか読んでいる個所が分からなくなる。
そのために線を引きながらとか、紙をあてたり、栞をあてたりして読んでいます)

ものの見方のヒントがつまった本。
青柳昌宏さんの『テオリア 自然を知る50のヒント』。
絶版になっているようなので、その中から幾つか日をおいて紹介したいと思います。
今日は…
1 感覚

 nihil est in intellectu quod prius non fuerit in sensu.
 感じとったものでなければ智恵になりえない――ラテン語のことわざ

 1 じっと見る
    テオリア


 胸にしみる詩と美し曲で、ぼくの心を捉えて放さないおじさん――小椋佳が、新しいアルバム〝テオリア〟(*)を出すとテレビで語っていた。
ぼくは、次の日からCD屋へ立ち寄って店員に聞くのだが、「さあー」という答えが帰ってきて、まだどんな曲が収まっているのか聴けないでいる。
(『テオリア 自然を知る50のヒント』青柳昌宏 ちくま学芸文庫 1999年)
 テオリア。
これは、ぼくが大学や社会教育の場で自然観察について行なう講義に、かならず出す言葉なのである。
《ギリシア語で〝テオリア〟という言葉がある。
これは、「じっと見る」という意味なんだ。
じっと見ていると、何かが「見えてくる」。
ハハーン、そうだったのか、と納得できる瞬間がある。
「わかる」ということだ。
この体験は、人生にとって一種の「よろこび」なんだね。
「じっと見る」⇒「見えてくる」⇒「わかる」⇒「うれしい」。
このひとつづきの体験が、自然の観察ということなんだと、ぼくは思っている》
とまあ、こんなことをしゃべる。
 人類は、ずっとこういう自然観察をつづけて、身の周りの自然を理解し、その中で自然とともに生きてきたのではないだろうか。
何が食べられる草だとか、何が毒草だとか、この草は病気に効くとか、いつ頃どこに行けば獣の群れに出会えるとか、そういう狩猟の時代を通過して、こんどは、あの山のどの雪渓がどいう形になれば種を播(ま)くとか(北アルプスの白馬岳は、苗代を掻<か>く馬=代馬<しろうま>の意味で、麓の農家の人々はこの山の雪が解けて、その斜面に残る雪渓が馬の形になると苗代の準備をしたという)、また今年もあの鳥が鳴いたから畑に野菜の種を播くとかいった自然のサインを、つねに受けとめて生きてきた。
このような自然の観察は、生活のためではあっても楽しいことだったと思う。
季節に合わせて農業を営むための暦――自然暦――はこのようにして生まれ、それは今日の桜前線や、モンシロチョウの初見日(しょけんび)といった気象観測に引き継がれている。
生物季節学という学問もある。
じっと見ることから、一種の法則性に気づくことができる。
つまりtheoriaからtheory=法則という言葉が生まれた。
これで、ぼくが小椋佳のニューアルバム〝テオリア〟に惹かれた理由を理解していただけただろうか。
 じっと見る。
子どもの頃、曾祖父に連れられて毎週のように動物園に行った。
その頃からぼくは、特定の檻(おり)の前で「じっと見て」いて離れない子供だったと、母によく話していたらしい。
ぼくだけがそうではなく、子供というのは、きっと気に入った動物の前では、いつまでも見ていたのではないだろうか。
じっと見ていたい子供を、そのままにしておける大人が少なく、たいてい「さあ、ゾウさんよ」「はい、早くおサルさんのところへ行こう」と、子供をひきずって歩くのがふつうである。
実は曾祖父は自分がひ孫にとっていい大人だということを自覚せずに、「この子はえらいよ。ひとつの動物をいつまでも、じっと見てる」とぼくをほめていたのだった。
 その後、ぼくは実にさまざまなものをじっと見てきた。
ヤツデに集まるハエやハチを待ち構えるオオカマキリを一日見ていた中学生時代。
アオオビハエトリというクモを半日見ていた高校時代。
そして、大人になってからは南極のアデリーペンギンを、二度24時間継続で、じっと見つづけてしまった。
「じっと見れば、見えてくるものがある」ということを信じてぼくは生きている。
じっと見ることを体験してみてほしい。

 *「テオリア<観想>」1994年5月25日キティ―レコードからリリースされた。
(『テオリア 自然を知る50のヒント』青柳昌宏 ちくま学芸文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♂が藪の中を動き回って写すのに苦労したそうですp(^^)q