2021年1月10日日曜日

ホッとする…

今朝は、昨日と違って風があまり吹いていませんでした。
風が吹いていないと体温があまり奪われないのでホッとします。
ハクセキレイが氷の上を優雅に歩いている。
大阪では、最近にないほど厚く氷がはっていて人も乗れそうですが…(^_-)-☆
コゲラの舌がチラッと見えました。
キツツキの仲間の舌にはすごい秘密があります(^_-)-☆

キツツキの長い舌」(小学3~6年)
池の水を飲んでいたのですが、チラッと舌が見えているような…
メジロの舌は、蜜をうまく吸える構造になっています。

メジロの舌と吸蜜のお話」(大阪南港野鳥園)
  シロハラも水を飲んでいました。
野鳥はハト以外、水をゴクゴクと飲むことはできません。
 水の飲み方

(前略)

 鳥というのは、一般に、あまり水を飲みません。
というのも、飛ぶためには、できるだけ体を軽くしなくてはならないので、体に多くの水を保持しなくてもすむように進化しているからです。
たとえば、我々が、水を大量に含んだ尿をするのに対して、鳥は、いわゆるおしっこはしません。
糞と一緒にあまり水の必要ない形で排出します。
必要とする水が少ないので、鳥たちは、花の蜜や、果実(液果)から、必要な量の水を摂取できます。
肉食の鳥でさえ、必要な水を肉から摂取できると言われています。
対して、ハトは水をよく飲む鳥です。
ハトが食べるものは、堅く乾燥した種子が多いので、その分、水分が必要なのでしょう。
 ハトの仲間は、水を飲むときに、そのまま飲むことができます。
と言っても何のことやらわかりませんね。
多くの鳥は、くちばしを水につけても、そのままでは飲めません。
水を下くちばしの上に載せて、それを舌で吸い上げるか、あるいは、水を下くちばしの上に載せて、頭を上げて、喉に流し込みます。
つまり、「そろっと掬(すく)って、ごくりと飲む」ことを何度か繰り返します。
いわば、小さじを用いたスプーン方式といえます。 
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)
大阪歴史博物館のTwitterに

きょうは何の日?】
1月10日 < 織田作之助 亡くなる > 1947年(昭和22)のこと。
作家。大阪の生玉に生まれた。
「夫婦善哉」を書き、坂口安吾、太宰治らとともに ”無頼派” として活躍。
戦後、結核により喀血し、若くして没した。墓所は、天王寺区の楞厳寺
(りょうごんじ)にある。(ふ)

月は違うけど、母の月命日。
2015年9月24日に楞厳寺に織田作之助の墓を訪ねました。
この時、梶井基次郎や近松門左衛門の墓、真田山陸軍墓地なども訪ねています。
(早く、町歩きができるようにならないかなぁ…)
Shoko Egawa(江川紹子)さんのTwitterに

私もICJの判断を求めた方がいいと思います。
当事者性のない、国民情緒や面子とは離れた司法の目にはどう映るのか。

 
<独自>日本、国際司法裁へ提訴検討 韓国の慰安婦判決」(産経新聞 1月8日)

今までにも書いていますが、日本と朝鮮との歴史を見ると、友好的な関係が長い間あったと思います。
不幸な歴史の方が短いと思うのです。
韓国などへヘイト発言をされている方も先祖を辿れば大陸(朝鮮・中国)などから渡って来たはずです。
ご自身の顔を鏡て見て、弥生系なのか縄文系なのかをご覧になるといいと思います。
日本人の源流 核DNA解析でたどる』(斎藤成也 河出書房新社)にはさらに
縄文人と渡来系弥生人以外に、もうひとつ別の集団が日本列島に移住してきた可能性が見えてきたそうです。

日本と朝鮮の歴史を考えるときに朝鮮通信使について書かれた20年前の本ですが
NHK人間講座 朝鮮通信使~江戸 日本への善隣使節』より紹介したいと思います。
  朝鮮通信使がもたらしたもの 

 日本列島と朝鮮半島とは地理的には一衣帯水(いちいたいすい<わずかの海峡をへだてる>)の近さである。
また歴史的・文化的には唇歯輔車(しんしほしゃ<たがいに協力しあうこと>)の関係であらねばならない、とされる。
両者の間は、まだ歴史時代に入る前から人の交流、文化の交流が途絶えることはなかった。
だがときには権力者の発動した無益な戦争が無辜(むこ)の人命を奪い、憎悪と蔑視をかきたてることもあった。
(『NHK人間講座 朝鮮通信使~江戸 日本への善隣使節』仲尾宏 日本放送協会 2001年)
 朝鮮通信使――大韓民国(韓国)・朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)では日本へ派遣されたという意味で日本通信使(イルボントンシンサ)とよぶ――が往来した時代は双方の国家が、少なくとも善隣関係であろう、とした時代である。
朝鮮王朝は14世紀末の成立以後、文禄・慶長の役(韓国・北朝鮮では壬辰倭乱<イムジンウエラン>とよぶ)を挟んで前後5百年にわたる長期政権だったが、大筋において日本との和好を求めつづけた政権だった。
日本では足利政権が中央政権として弱体で、有力守護大名や対馬宗氏の独自の権益を認めながらも李氏朝鮮国との通交に積極的だった。
秀吉の起こした侵略戦争は一方的に日本軍が朝鮮の山野・都市を焼尽し軍民を殺戮した「無名の師(いくさ)」だった。
その傷あとは長く朝鮮の官人や民衆の恨(うら)みとなって残った。
 徳川政権は朝鮮国との国交回復、戦乱の終戦処理が新政権の東アジア外交・通商圏の確立に欠かせないと判断して朝鮮からの使節団派遣にこぎつけた。
 そして足利政権時代と同じように「対等抗礼(こうれい)」を原則として交隣関係を結んだ。
そうはいってもそれぞれの歴史認識にはちがいもあった。
日本では古代以来の「三韓蕃国観=朝貢史観」が根強くあり、朝鮮王朝においては朝鮮小中華思想にもとづく「倭人夷狄視観」がとりわけ官人層にいきわたっていた。
けれども国家と国家の関係において対等な立場での善隣関係が展開・継続されたことこそ重視すべきだろう。
多少の名分のちがいや喰ちがいを双方の都合のよい解釈でのりきったこともあった。
この間、二百数十年にわたる人と文物の交流がたがいの政情と文化を理解しあい、認めあう契機を作りだしてきた。
それは役人や学者、文人だけでなく民衆にも及んだ。
とりわけ通信使を見物する民衆のまなざしは明治以降の平均的な日本人の朝鮮人観とは明らかに異なる。
  民衆はときとして重い負担にあえぎながらも、曇りのない目で一世一代の異国風物を楽しんだのである。
 江戸時代、近世国家日本はこのように朝鮮国との通交・通商を第一義とし、薩摩藩の下に置かれた琉球王国との通交、長崎における中国とオランダ商人との通商、そしてアイヌの人びとと松前藩との交易という四つの窓口を持っていた。
その意味で「鎖国日本」という呼び名は正しくない。
自由な海外交流こそ厳禁されていたが、幕藩体制下の通交と通商の枠組み内で海外とつながっていたのである。
 そもそも「鎖国」という言葉は江戸時代もなかばを過ぎた18世紀にはじめて用いられ、幕末期に「開国」と対比して「鎖国」「鎖港」という用語が多用されるようになったにすぎない。
 江戸時代の12回の朝鮮使節団――厳密には回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)3回、通信使9回だが、便宜上、総称して通信使とよぶこともある――がもたらした影響は政治、経済、学術、文化などさまざまな面に及ぶ。
 それらの交流の遺産を探り、実物に触れてみることは日本近世史の知られざる側面を掘りおこすことでもある。
  そこから明治初年以降、1945年にいたる不幸な歴史を経験した私たちが学ぶことは少なくない筈である。
12世紀のあらたな日韓・日朝関係の枠組みを構想するとき、とりわけ通信使の時代をふりかえってみることは有益だろう。
(『NHK人間講座 朝鮮通信使~江戸 日本への善隣使節』仲尾宏 日本放送協会 2001年)
朝鮮通信使」(小学6年)

国境の島の国際交流 日本と韓国をつなぐ架け橋 対馬」(NHK みちしる)

この本は、コンパクトに朝鮮通信使のことを知ることができるのですが、
20年前の番組のテキストなので品切れになってます。
できたら日を改めて紹介したいと思います。
なお、仲尾宏さんの朝鮮通信使などの本は、他にも出ています。