2021年1月15日金曜日

暖かい…

今朝も青空が広がり、暖かいというより暖かすぎる…
明日、土曜日も気温が上がるのに、日曜日からグーンと下がる(-_-;)
もう「黄砂」が観測されている…

15日も晴れ間広がる 日中暖かい」(えりの気象日記 1月14日)
1月15日
 双葉山70連勝ならず。 1939(昭和14)年

 この日、69連勝中の横綱双葉山が前頭三枚目の安芸海(あきのうみ)に敗れ、日本中がわきかえった。
 双葉山は関脇だった1936年春場所七日目から勝ち続け、大関・横綱になっても無敗で過した。
新鋭安芸海はこの無敵の王者の胸に頭をつけ左上手をとり、強引な右掬(すく)い投げで攻めつけられるのを外掛(そとが)けで防ぎつつ土俵中央に浴びせ倒した。
 当時の大相撲(おおずもう)は1月と5月の1年2場所制だったので、今日の1年6場所制と条件がちがっていてそのまま比較はできないが、双葉山のこの連勝記録は、大鵬(たいほう)や北の湖によってもまだ破られていない。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
大相撲 双葉山 対 安藝ノ海」(NHKアーカイブス 1939年)

双葉山定次(ふたばやまさだじ)」(NHKアーカイブス)
双葉山は右目を失明していたのですね…

初め『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』に双葉山のことが書かれている意味があまりピント来なかったのですが
先日亡くなられた半藤一利さんの『B面昭和史 1926-1945』を読んで、当時の庶民の生活を知ることも大切だと思いました。

<半藤一利さん死去>非戦の思い…歴史の大河に立つ知の巨人逝く」(東京新聞)

続けて梅原猛さんの「行基  衆生を救済した民衆のカリスマ」の続きを転記しますφ(..)
第6話「対米英蘭戦争を決意」したとき――昭和14~16年
 ●双葉山と無敵皇軍

 私事になるかもしれないが、当時のわたくしは熱烈な相撲ファン、それも二所ヶ関部屋の玉ノ海のファンであった。
それで昭和14年となればここはやっぱり、B面としては、双葉山70連勝成らずの話からはじめねばならないことになる。
ときに1月15日の春場所四日目、〝ヤブ入り〟といってお店勤めの人びとは一斉休日、それに日曜日であり大安の佳日が重なって両国国技館は満員御礼。
さりとて、わたくしがその満員のマス席にいたわけではない。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 1月16日の東京朝日新聞の記事。
 「行司式守(いきもり)伊之助の軍扇サッと安芸ノ海に揚がった瞬間、鉄傘下(てつさんか)の埋めつくした二万余の大観衆は一時アッと息をのんだ。
やがて〝アキノウミー、アキノウミー〟の声一杯の怒号、その声は合して〝ゴーッ〟という嵐になって、あとは何が何やら――蒲団が飛ぶ、アナウンサーは〝安芸ノ海、安芸ノ海嬉し涙で泣いて居ります。
泣いて居ります。
蒲団が飛んでいます〟とすっかり興奮して声をしぼる」
 そして新聞の大見出しがすさまじい。
 「〝不抜(ふばつ)の双葉城〟陥落す」
 この「陥落」という言葉が当時の世の中の空気をすべて物語っている。
戦前は1月場所が春場所で、5月の夏場所と1年二(ふた)場所であった。
しかも一(ひと)場所は11日間(昭和12年夏場所から13日間)。
すなわち双葉山の69連勝は昭和11年の春場所からはじまり、まる三年半かかっている。
連続五場所全勝優勝、そしてその間に日中戦争がはじまり、南京陥落、広東陥落、徐州陥落、漢口陥落と、わが皇軍は連戦連勝。
「無敵双葉」もまた連戦連勝、まさしくこの横綱は「無敵皇軍」を象徴するかのような存在であったのである。
  その旭日(きょくじつ)昇天の勢いを示してきた双葉山が〝陥落〟した。
新聞記者は日頃かき馴れた軍事用語をつい使ったのかもしれないが、まさしく時局の推移を見事にいい当てていた。
無敵皇軍もいまや無敵ではなくなっている。
中国大陸の奥へ奥へと引きこまれ、武器や食料の補給輸送ままならず、やむなく攻勢作戦は打ち切り、点と線を守って持久作戦に入らざるを得なくなった。
かなり牽強付会(けんきょうふかい)の説やもしれないが、マルスは双葉山の敗北をしてのぼせている大日本帝国にそれとなく教訓を垂れ給うていたのでもあるまいか。
 ところでその日のわたくしである。
この四日目の大相撲は双葉山倒るですべて終ってしまったかのように思われてしまうが、じつはまだあとに結びの一番、横綱男女(みな)ノ川(がわ)にたいするわが玉ノ海の対戦があったのである。
もう日本中が興奮してわんさかわんさかとなって、だれもそのあとの実況放送なんか聞いていない。
恐らく日本中でただひとり、ラジオの前で固唾(かたず)をのんで、ただ一途に玉ノ海の勝利を祈りつつ、心のうちでわたくしは精一杯の大声を張りあげていたのである。
 「タマノウミィー、ガンバレェーッ」
 そんなけなげな(?)少年には、双葉山の勝敗なんてどうでもよかったのである。
 もう一つ、大きな歓声があがった挿話もここでかいてしまうことにする。
別にラジオ中継があったわけではないから日本中が、というわけではない。
岐阜県各務原(かがみはら)に集まったただ少数の関係者のみの歓声であるが、その感激の度合いとなると、両国国技館のそれに負けず劣らずといっても過言ではないであろう。
  3月17日、海軍の零式艦上戦闘機すなわちゼロ戦の試作第一号機が完成した日のことである。
もう少しくわしくかけば、試作機の完成検査が行われた日で、第一回の社内試験飛行成功となればその日を試作機完成という区切りにするのが、習わしとなっていた(公式には4月1日が試験飛行実施成功の日とされる。さらに海軍当局による試験飛行成功は7月6日)。
  「飛行機は、真一文字に、軽い砂煙の航跡を残しながら、次第にそのスピードを増した。
やがて、軽く大地を蹴ったかと思うと、飛行機はふんわりと空中に浮かんだ。(中略)
 飛行機は、初の飛行を楽しむように、約10メートルの高度を保ったまま、真一文字に500メートルほど飛んだ後、無事に着陸した。
人々がほっとして、互いに顔を見合わせている間に飛行機は軽快な爆音を立てながら、元の位置に帰ってきた。
 こうして、第一回の社内試験ジャンプ飛行はめでたく終了した。
待望の赤ん坊は五体が完全であったのである。
生みの母親も助産婦の操縦士も、これを取り巻く人々も、ともに歓声をあげたことはいうまでもない」(堀越二郎・奥宮正武『零戦』)
  恐らく、ほんのつかの間の喜びを味わうために、堀越をはじめ多くの関係者は、寝食を忘れるほどに智恵をしぼり、ありったけの努力を傾注したのであろう。
そのときの歓声は彼らにだけ許される、また彼らだけにわかりあえる喜びの証しであった。
それは、鉄傘をゆるがすばかりの歓声とはまったく別の、声にもならぬ声であったかもしれないが……。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
(「行基  衆生を救済した民衆のカリスマ」)

 しかし寺や道場には仏像がなければならない。
その仏像は何で造られていたのであろうか。
仏像は短期日で造り上げねばならないので、金銅仏(こんどうぶつ)乾漆仏(かんしつぶつ)ではあるまい。
そうかといって塑像(そぞう<粘土で造った像>)でもあるまい。
塑像仏は壊れやすく、日本にはほとんどない。
日本にたくさんあった巨木を切って仏像を造るのがいちばん手近であろう。
布施屋や道場を造った行基集団に属する工人のなかには、仏像を彫ることに巧みな人がいたにちがいない。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
 行基及び行基集団によって造られた道場には、やはり彼らによって彫られた木彫仏が多数坐(ざ)し賜(たも)うたにちがいない。
それが行基の伝記からも当然推察される説であるが、日本美術史界には、奈良時代に日本で造られた木彫仏はほとんどないという通説が支配していた。
この通説は各寺にある資財帳(しざいちょう)や『日本霊異記』の記事などの誤読から生じたものであるが、仏教美術史家の井上正(いのうえただし)氏はこの通説を否定し、それまで平安初期の作とされてきた、主として近畿地方に残る行基仏という伝承の仏像のなかには、行基あるいは行基集団によって造られたものが多くあるとする。
 その仏像の特徴は、ほとんどすべて素木(しらき)でできていて、その風貌は薬師寺本尊(ほんぞん)の薬師如来(にょらい)のように端正ではなく、鼻が異常に巨大であったり、耳が異常に長かったりする異相である。
そしてその仏像は必ずといってよいほど神像が伴っている。
日本においては、古くから蔵王権現(ざおうごんげん)のような恐ろしい相をしているものであった。
その異相の形相(ぎょうそう)が新しい神というべき仏にも移ったのではないか。 
  木は昔から日本人にとって神の宿るものであった。
その神の宿る木から新しい神である仏が出現したのである。
行基仏と称される仏像のなかには、背後が荒木のままのものや、眼がつむったままのものすらある。
それは、仏がまだ完全な仏になって現れる前の聖なる姿を表しているとみるべきではあるまいか。
 行基あるいは行基集団がこのように多数の素木の仏像を畿内のあちこちの寺に残したことは疑い得ないと私は思うが、行基が仏像彫刻を誰に習ったかが問題であろう。
それは泰澄(たいちょう)からではないかと思う。
泰澄は白山(はくさん)信仰を広め、神仏習合(しんぶつしゅうごう)思想の先駆けとなったが、近江(おうみ)の岩間寺(いわまでら)を中継地にして都に通い、元正(げんしょう)天皇の病を癒した。
また彼はその寺の近くに群生している桂(かつら)の木から仏像を彫ったという。
泰澄を木彫仏製作及び神仏習合思想の先駆者、行基をその発展者、空海をその完成者とみるとき、空海の思想的位置がよく理解される。
 行基はこのような民衆のカリスマであり、ひととき国によって厳しく非難されたが、後には国が彼を認め、ついには大僧正(だいそうじょう)という最高の僧位を授与されている。
それを行基の転向ととらえる歴史家もあるが、私は、行基そのものは少しも変わっていないと思う。
変わったのは国の方である。
どうして国は行基に対する態度を変えたのであろうか。
 聖武(しょうむ)天皇は東大寺という巨大な寺を建て、そしてその本尊のビルシャナ仏という金銅の大仏を建造しようとした。
そのためにはやはり民衆の協力が必要であり、カリスマ、行基が利用されたのであろう。
しかしその前に、聖武天皇や光明皇后(こうみょうこうごう)及び阿部内親王(あべないしんのう<後の孝謙(こうけん)・称徳(しょうとく)天皇>)などの行基に対する厚い崇拝があったからであると思う。
行基は泰澄のように天皇などの病気を治したことがあったのかもしれない。
 そして東大寺建造に行基が関わったのは行基と良弁(ろうべん)の出会いゆえであったと私は思う。
良弁もまたその生まれは卑(いや)しく、山岳修行者として厳しい修行の時を送った。
そのような修行の時において良弁は行基を知り、行基を深く尊敬するようになったにちがいない。
そして良弁は華厳の思想に共鳴して、東大寺にビルシャナ仏を造ろうとした。
行基は法相(ほっそう)の僧であり、華厳仏教をどれほど理解したかは分らないが、日本の民衆の底辺にまで仏教を浸透させた行基は、どんなに小さな生命の中にも巨大なビルシャナ仏が宿っているという華厳仏教のもつ平等の思想に共鳴したにちがいない。
 749年(天平<てんぴょう>21)、大僧正行基は82歳にして死んだ。
大仏開眼(かいげん)という、仏教移入以来最大の盛儀が行われる3年前であった。

(注)
金銅仏 銅で鋳造した後、金でメッキをした金属の仏像。日本では飛鳥時代・奈良時代に多く製作された。

乾漆仏 乾漆法とよばれる方法で造った仏像。木や縄を芯として土で作り、その上から何度か麻布を巻いて漆を塗りながら表面を仕上げ、金箔や彩色を施す。漆が乾いたら土を取り出し、中を空洞にする。

神仏習合思想 日本古来の神を信仰する思想と、仏教の思想が融合して生じた現象。神は仏教を守護しているという考え方(護法善神説)や、神は仏や菩薩の仮の姿であるという考え方(本地垂迹説)などがある。

ビルシャナ仏 毘盧遮(舎)那仏。「ビルシャナ」はサンスクリット語のヴァイローチャナの音写で、「響きわたるもの」という意味。大乗経典の「華厳経」の教主。

華厳の思想 大乗経典「華厳経」(正式名は「大方広仏華厳経」)に書かれている思想。すべての存在は互いに関連し合って成り立っているという「重重無尽」の思想や、ビルシャナ仏は世界のあらゆるところに等しく存在しているという世界観などを説く。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
アトリを写していました。
駐車場に戻ると、先に帰っていた父が老人会(?)なのか20~30人の団体に出会って
大勢で行動しているしマスクをしていない人もいたとボヤいていました。

大阪の死者 累計で全国最多に」(関西NHK)