2021年1月21日木曜日

霜の朝

気温が低く池には薄い氷がはっていました。
それでも霜が降りるほど風が吹いていなかったので日ざしが暖かったです。

21日朝は真冬並みの寒さ 日中は3月並みの暖かさ」(えりの気象日記 1月20日)
カマラ・ハリス氏、アメリカの副大統領に」(BBC NEWS Japan)

米首都ワシントンで20日、カマラ・ハリス氏が新しい副大統領に就任した。
アメリカ初の女性副大統領で、アメリカ初の黒人副大統領、アメリカ初のアジア系副大統領となったハリス氏の宣誓は、アメリカ初のヒスパニック系最高裁判事となったソニア・ソトマヨール判事が司式した。


若松英輔さんのTwitterに

バイデンの大統領就任式で、若き詩人アマンダ・ゴーマンが自作を朗読した。
本当に素晴らしかった。
こうした場で詩が読まれるのは伝統的なことだが、この困難な時期に詩が、これほどのちからを持つことに改めて驚かされた。
アメリカは困難も大きい。
だが、それを潜り抜けてくる言葉もあるのだ。


BBCニュースに動画ありました。
転記しますが、間違いがあると思いますし、アマンダ・ゴーマンさんの朗読が素晴らしい!おススメです。
22歳の若き詩人、「光は常にある」 バイデン氏の大統領就任式で詩を朗読〟(BBCニュース)


 私たちが登る丘(The Hill We Climb)

私たちは朝になると
自分に尋ねる
この果てしない暗がりのどこに
光を見つけられるのか
抱えなくてはならない喪失
掻き分けて進まなくてはならない海
私たちは獣の腹に
果敢に挑んだ
静けさは必ずしも
平和ではないと学んだ
「そういうものだから(ジャスト・イズ)」の規範や考えは必ずしも
正義(ジャスティス)ではないことも学んだ
それでもなお夜明けは
気づく前から訪れていた
私たちはなんとかやってのける
なんとか耐え抜いて
壊れていない国を
目にした
壊れているのではなく
単に未完成の国を
私たちはこの国と時代の
継承者だ
奴隷の子孫で
シングルマザーに育てられた
やせっぽちの黒人の少女が
大統領になりたいと夢見れる
そして気づいたら大統領のために
詩を朗読していた
そんな国と時代の
力と慈悲を融合させ
力と正義を融合させれば
私たちは愛を
次代に残せるようになり
自分の子どもたちが生来
どういう権利を持つか変えられる
なので与えられた国よりも
良い国を残そう
銅を叩き作られた私の胸が
ひとつ呼吸をするごとに
私たちはこの傷ついた世界を
素晴らしいものに引きあげる
私たちは黄金の木々から
西の丘から立ち上がり
風吹きすさぶ北東からも
立ち上がる
私たちの先祖が最初に
革命を実現した場所から
私たちは湖が縁取る
中西部州の街からも立ち上がる
私たちは陽に焼かれた
南部からも立ち上がる
私たちはこの国の
ありとあらゆる片隅で
再建し和解し回復する
多様で美しい私たちは
痛めつけられても
美しく浮上する
朝が来れば私たちは暗がりから出る
炎となって 恐れず
新しい夜明けは
私たちに解放されて花開く
光は常にあるので
光を見るための勇気が
私たちにありさえすれば

訂正)詩のタイトルは「光は常にある」ではなく「私たちが登る丘」でした。
アマンダ・ゴーマンさんの詩の後に昨日の続きを転記するのは気が引けますが(^^ゞ

厠のいろいろ

  〇

志賀君が故芥川龍之介から聞いたと云って話された話に、倪雲林(げいうんりん)の厠の故事がる。
雲林と云う人は支那(しな)人には珍しい潔癖家であったと見えて、蛾(が)の翅を沢山集めて壺(つぼ)の中へ入れ、それを厠の床下へ置いて、その上へ糞をたれた。
つまり砂の代りに翅を敷いたフンシのようなものだと思えば間違いはないが、蛾の翅と云えば非常に軽いフワフワした物質であるから、落ちて来た牡丹餅をたちまち中へ埋めてしまって見えないようすにする仕掛けなのである。
けだし、厠の設備として古来このくらい贅沢(ぜいたく)なものはあるまい。
(『陰翳礼讃・文章読本』谷崎潤一郎 新潮文庫 平成28年)
糞溜と云うものはどんなに綺麗(きれい)らしく作り、どんなに衛生的な工夫をしたところで、想像すると汚い感じが湧いて来るものだが、この蛾の翅のフンシばかりは、考えても美しい。
上から糞がポタリと落ちる、パッと煙のように無数の翅が舞い上がる、それがおのおのパサパサに乾燥した、金茶色の底光りを含んだ、非常に薄い雲母(きらら)のような断片の集合なのである。
そうして何が落ちて来たのだか分からないうちにその固形物はその断片の堆積(たいせき)の中へ呑(の)まれてしまう、と云う次第で、先の先まで想像を逞(たくま)しゅうしてみても、少しも汚い感じがしない。
それともう一つ驚くのは、それだけ翅を蒐集(しゅうしゅう)する手数である。
田舎だったら夏の晩にはいくらでも飛んで来るけれども、今も云うような目的に使用するのには、随分たくさんの翅が必要なのである。
そうして恐らくは、用を足す毎(ごと)に一遍一遍新しいのと取り換えなければなるまい。
されば大勢の人手を使って、夏の間に何千匹何万匹と云う蛾を捕らえて、一年中の使用量を貯(たくわ)えてでも置くのであろう。
とすると、とても贅沢な話で、昔の支那ででもなかったら実行出来そうもないことである。
  〇

 倪雲林の苦心は、自分のたれたものを、絶対に自分の眼に触れさせないようにした、と云うところに存するのであろう。
勿論(もちろん)普通の厠であっても、好んで見ようとしなければ見ないで済ませるようなものの、「恐(こわ)いもの見たさ」ではなくて「汚いもの見たさ」とでも云うか、見える所にある以上はどうかした拍子に見ることがある、だからやはり見えないような設備をするのに越したことはないが、一番簡単な方法は床下を真暗にすることだと思う。
これは何でもないことで、汲取口(くみとりぐち)の蓋(ふた)をかっちり外れないようにさえして置けば、もうそれだけでもかなり光線が防げるのだが、近頃はそう云う注意を怠っている家が多い。
なおその上に、床と溜との距離を遠くして、上部からの光線が届かないようにすることである。
  〇

 水洗式の場合は、自分で自分の落したものを厭(いや)でもハッキリ見ることになる。
(こと)に西洋式の腰掛でなく、跨ぐようにした日本式のでは、水を流すまではすぐ臀(しり)の下にとぐろを巻いているのである。
これは不消化物を食べた時など容易に発見することが出来て、保健の目的には叶(かな)うけれども、考え見れば不作法な話で、少なくとも雲鬢花顔(うんびんかがん)の東洋式美人などには、こう云う便所へ這入って貰(もら)いたくない。
やんごとない上臈(じょうろう)などと云うものは、自分のおいどから出るものがどんな形をしているか知らない方がよく、譃(うそ)でも知らない振りをしていて貰いたい。
そこで、仮に私が好きなように便所を作るとすれば、やはり水洗式を避けて、昔風のものにするが、出来るなら糞溜を便所の位置から離れた所、たとえば裏庭の花壇や畑などのある方へ持って行く。
つまり、便所の床下からそこまで多少の勾配(こうばい)をつけて、土管か何かで汚物を送り込むようにするのである。
こうすれば床下は明りのさし込む口がないから、真暗になる。
瞑想的な、都雅な匂はほんのりするかも知れないが、不愉快な悪臭は絶対にしない。
また、便所の下から汲み取るのでないから、用の最中に慌(あわ)てて外へ逃げ出すような醜態を演ずる心配がない。
野菜や花などを作る家では、こうして溜を別にした方が肥料を得るにも便利である。
たしか大正便所と云うのがこの式であったかと思うが、土地をゆっくり使うこと出来る郊外であったら、水洗式よりこの方をおすすめしたいのである。
  〇

 小便所は、朝顔へ杉の葉を詰めたのが最も雅味があるけれども、あれもどうかと思うのは、冬だと夥(おびただ)しい湯気が立つのである。
それはその理屈(りくつ)で、杉の葉があるために流れるものが流れてしまわずに、悠々と葉と葉の間を伝わって落ちるからであるが、放尿中生暖い湯気が盛んに顔の方へ昇って来るのは、自分の物から出るのだからまだ辛抱ができるとしても、前の人のすぐあとなどへ行き合わせると、湯気の止(や)むのを気長に待っていなければならない。
  〇

 料理屋やお茶屋などで、臭気止めに丁子(ちょうじ)を焚(た)いている家があるが、やはり厠は在来の樟脳(しょうのう)かナフタリンを使って厠らしい上品な匂をさせる程度に止め、あまり好い薫りのする香料を用いない方がよい。
でないと、白檀(びゃくだん)が花柳病の薬に用いられてから一向有難味がなくなったようになるからである。
丁子と云えば昔はなまめかしい連想を伴う香料であったのに、そいつに厠の連想が結び着いてはおしまいである。
丁子風呂(ぶろ)などと云ったって、誰も漬かる奴(やつ)がなくなってしまう。
私は丁子の香を愛するが故(ゆえ)に、特に忠告する次第である。

(つづく)
(『陰翳礼讃・文章読本』谷崎潤一郎 新潮文庫 平成28年)
今朝の父の一枚です(^^)v
メジロがサザンカの蜜を目当てにやって来ていました。
ツバキやサザンカの花びらが斑になっているのは、メジロたちがやってきた足跡(爪痕)です。
ツバキたちと仲良し!」(東山動植物園)