2021年1月3日日曜日

風が冷たい正月三日

 風が吹くと気温以上に寒く感じます(体感温度)。

大阪でもワクチン開発が進んでいます。
時間をかけて安全性を検証しているワクチンがいいなぁ!

大阪拠点企業ワクチン開発進める」(関西NHK)
昨夜の「100分de萩尾望都」を録画しているのですが
父が箱根駅伝を見ているので見逃し配信(1月9日(土)午後11時10分まで)
見ながらといようり聞きながら、blog記事を作成中です(*´▽`*)
そのために作業が進みません(^^ゞ
妹も萩尾望都さんの作品が好きだったので読む機会がありました。
「ポーの一族」で衝撃をうけましたが、読んでいなかったけど他の作品もスゴイ!
中村哲の声がきこえる」(再放送1月7日午前1:41~)の中で「一隅を照らす」という言葉がでてきます。
これは最澄の言葉ですね。
中村哲医師特別サイト」(西日本新聞)

最澄について『梅原猛、日本仏教をゆく』より転記しますφ(..)
最澄
 旧仏教と果敢に戦った「澄んだ人」


 私は、最澄(さいちょう)という日本天台宗の祖師(そし)を、日本では珍しい果敢に戦う僧であると思う。
近江国滋賀郡(おおみのくにしがのこおり)を根拠とする渡来人系の三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれた最澄は、近江国分寺(こくぶんじ)に入り、14歳で得度(とくど)したが、19歳のときにひとり叡山(えいざん)に上った。
彼の生家は叡山の近江側の登り口にあり、当時も隠遁(いんとん)の僧が叡山に上って、庵を建てて隠棲するということがあったらしい。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
最澄もこのような隠遁の僧にならったのであろうか、人のほとんど住まない狐狸(こり)の棲み家でもあるここに庵を建てて住むのには、彼の父、三津首百枝の経済的援助があったからであろうが、19歳といえば現在でいえばまだ高校を卒業したばかり、この若年にして山棲みを決心したのは並たいていのことではない。
そのときの彼の書いた願文(がんもん)というものが残っているが、そこには、悟りを開くまでは決して山を下りないというただならぬ決意が述べられている。
おそらく彼は、スキャンダルの絶えなかった奈良仏教(*1)に強い嫌悪を感じて、この人里離れた山中で新しい仏教を模索しようとしたのであろう。
 そして彼はやがて、日本に興隆すべき新しい仏教は天台仏教であるという強い信念をもつにいたった。
当時、奈良の都で全盛を誇っていたのは華厳(けごん)仏教であるが、天台仏教は、唐で栄えていた仏教である華厳仏教より一時代前の隋(ずい)の時代に栄えた仏教であった。
 最澄が、このように歴史の流れと逆行するような旧仏教の興隆が日本に必要であると考えたのは、彼が聖徳太子の仏教の伝統を継ごうとしたからでもあろう。
日本仏教の開祖ともいうべき聖徳太子はとりわけ「法華経(ほけきょう)」を重んじた。
それで最澄は、「法華経」を根本経典として巨大な思弁(しべん)体系を構築した天台智顗(ちぎ)の教えを信奉する教団を日本につくりことが必要であると考えたのであろう。
彼がここに日本天台宗の本拠地をつくろうと思ったいまひとつの理由は、日本に戒律(かいりつ)の教えを伝えた鑑真(がんじん)が天台宗の僧であり、鑑真および鑑真の弟子たちの厳しい戒律を守る精神に共鳴した最澄が天台宗を最も優れた仏教と考えたからではないかと思う。
 孤独な隠遁者(いんとんしゃ)最澄は思いがけない好運に恵まれた。
それは僧と高貴な女性との結びつきによって腐敗した奈良の都を捨てて、新しく京都の地に都を定めた桓武(かんむ)天皇との出会いである。
私は桓武天皇に最澄の存在を知らしめたのは和気清麻呂(わけのきよまろ)ではないかと思う。
和気清麻呂は孝謙(こうけん<称徳(しょうとく)>)天皇の御代に道鏡(どうきょう)を天皇にせいよという宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の神託の真偽を確かめに宇佐八幡宮に遣わされたが、硬骨の彼は八幡宮の神官が語った神託ではなく、彼自身がひそかに八幡神から聞いたという「天つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を続(つ)げよ」という神託を天皇に奏上し、天皇と道鏡の怒りを買って、清麻呂という名を穢麻呂(きたなまろ)とう名に改めさせられて流罪(るざい)になった。
  孝謙(称徳)天皇が亡くなり、道鏡が流罪になると、清麻呂は許され高官についたが、桓武天皇が位に就くと特に彼を重用した。
彼は京都遷都の主唱者であった。
堕落した奈良仏教の命運を止めることに大きな功績があった和気清麻呂が、仏教の改革者としての最澄を尊敬したのは当然であろう。
桓武天皇も厚く最澄を崇拝し、彼を入唐還学生(にっとうげんがくしょう)に選んだ。
このとき、在唐20年の義務をもつ留学生(るがくしょう)に選ばれたのが、彼より7歳下の空海であった。
 当時、最澄と空海の身分は甚(はなは)だ隔たっていた。
最澄はすでに桓武天皇の寵僧(ちょうそう)であり、唐への旅は、通訳の仕事も兼ねて彼の弟子の義真(ぎしん)を伴うことが許された。
しかるに空海は、山野を浮浪する乞食(こつじき)僧の如き生活を長い間送り、入唐の前に急いで戒(かい)を受けて正式の僧となった無名の僧であった。
最澄は在唐わずか9か月で、天台ばかりか(*2)禅、戒律、密教(みっきょう)などを学んで帰ってきた。
 最澄は留学から帰ったものの、唐で十分真言(しんごん)密教を学んでこなかったことに不満を抱いていた。
天台仏教が奈良仏教に代わって新しい時代の仏教となるには、国家鎮護(ちんご)と玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈る呪力(じゅりょく)をもつ仏教が必要であるが、そのような仏教といえば真言密教である。
天台密教は、その巨大で思弁的な理論体系と止観(しかん)というすぐれた修行の方法をもっているが、呪力という点ではもの足りない。
 最澄が空海に興味をもったのは、空海が天皇に提出した『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』を見てからであろう。
ここに最澄がまだ見たことのない密教経典が多く記載されている。
最澄はたびたび空海から密教に関する経典を借りて、密教に強い興味をもち、ついに和気氏の氏寺(うじでら)である高雄山寺(たかおさんじ<神護寺(じんごじ)>)に赴(おもむ)き、空海から灌頂(かんじょう)を受ける。
これは少なくとも密教においては最澄が空海の弟子となったことを意味し、一躍空海の令名(れいめい)を高からしめたにちがいない。
そして最澄は愛弟子の泰範(たいはん)を、密教を学ばせるために空海の下に遣(つか)わす。
 しかし両雄並び立たずという諺(ことわざ)のように、平安仏教の両巨匠はついに相別れる。
最澄は先々代の桓武帝の寵僧であったが、今は嵯峨(さが)天皇の御代(みよ)で、嵯峨天皇の寵僧は空海である。
空海はいつまでも最澄の下手に立っていられないと思ったのであろう。
彼は「大日経(だいにちきょう)」とともに真言密教の根本経典である「理趣経(りしゅきょう)」の注釈書『理趣釈教(しゃくきょう)』を貸してほしいという最澄の要求を拒絶する。
 そして空海は、真言密教は文書だけによって理解されるものではなく、行(ぎょう)を行って初めて理解できるものであり、もし真言密教の秘儀を知りたいと思うなら、自分のところへ来て修行をしなさいという。
 これによって最澄と空海の間に大きな亀裂(きれつ)が生じるが、さらにこの亀裂を拡大する事件があった。
密教を学ばせるために空海の下に最澄が遣わしたはずの泰範がなかなか山に帰ろうとしなかった。
最澄は泰範をことのほかかわいがり、彼の後には泰範を据えようとしたほどであった。
この最澄の泰範に対する異常なかわいがりようが、かえって泰範を最澄の弟子の間で孤立させ、叡山は泰範にとって居づらい場所になっていたのであろう。
最澄は帰らない泰範に再三手紙を書き、帰山を勧める。
(*1)奈良仏教 東大寺、興福寺などの奈良にある寺院を拠点とする、奈良時代の仏教。

(*2) 梵語ドゥヤーナの音写で、瞑想し真理を観察すること。大乗仏教では修行者が実践すべきこと(波羅蜜)のひとつとされる。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)

後日、続きを転記しますφ(..)
今朝の父の一枚です(^^)v
私が写したモズ♂よりもきれいに写っています。
重たいレンズでなくてもコンデジで十分ですね(^^ゞ