2021年1月16日土曜日

小雨の土曜日

ポツポツと雨が降っていました。
傘をさしながら歩ける程度の小雨。
カンヒザクラが高知の方で咲いたというニュースを見ていたので
どうかなと見るとハラビロカマキリの子どもたちが春を待っていました。
今日から大学入学共通テストが始まった。
受験生たちが無事、受験を終えますように…

高知 牧野植物園 一足早くサクラ咲く」(RKC高知放送 1月14日)

初の「大学入学共通テスト」始まる コロナ禍の異例の状況の中〟(NHK)
1月16日
 唐の高僧鑑真(がんじん)が日本に来た。 754(天平勝宝<てんぴょうしょうほう>6)年

 奈良の唐招提寺(とうしょうだいじ)に残されている盲目の鑑真和上(わじょう)像を見ると、澄みとおった高僧の心が、じかに伝わってくるおもいがする。
 鑑真は742年、日本からの入唐僧に懇請されて渡海を決心したが、前後5回にわたって海上で遭難、失明した。
しかしその後また日本の遣唐船の帰国便に弟子たちとともに乗りこみ、この日ついに日本の土をふんだ。
東大寺の大仏開眼(かいげん)の翌々年のことである。
 鑑真は律宗(りっしゅう)を伝え、東大寺に戒壇院(かいだんいん)を創建して聖武上皇(しょうむじょうこう)や光明皇太后(こうみょうこうたいごう)に授戒したほか唐招提寺の基礎をきずいた。
また唐の彫刻や薬草の知識も伝えた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
鑑真和上と唐招提寺」(中学・高校)
753年12月20日に薩摩国秋妻屋浦に到着)

日本に渡るのに何度も失敗して、その間に両目を失明します。
病が語る日本史』より鑑真和上について転記しますφ(..)
第一部 病の記録 
 四 光明皇后と施療
 3 鑑真の来日


 光明皇后の深い慈悲心と厚い崇仏心から施薬院が設けられた天平時代に、後世に大きな影響を与えた、医療史から見逃せない事件が相次いだ。
そのひとつに唐招提寺にまつられている鑑真和上の来日がある。
鑑真が来日するまでの苦労は井上清の小説『天平(てんぴょう)の甍(いらか)』でよく知られるように、742年に日本からの僧栄叡(えいえい)と普照(ふしょう)の要請を受けて来日を決意してから、度重なる遭難にもめげず、来日したのは天平勝宝5年(753)であった。
志しを立ててから12年目にようやく成功したのであった。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
 鑑真は仏教だけでなく医薬にくわしく、来日するに当たって珍しい薬をたくさん持参して、医学を教えた。
それに鑑真の処方集『鑑真秘方』などの書物となって残されている。
後述する正倉院(しょうそういん)薬物には外国産のものがたくさんあるが、その中に遠くはアラブ産のものもある。
鑑真が来日時に持参したものであろうといわれるものもある。
たとえば、正倉院薬物の目録に載る阿伽陀薬(あかだやく)である。
これはインド産であるが、『鑑真秘方』に阿伽陀薬を使う処方がある。
 鑑真和上は薬品の真偽の鑑定が確かであった。
遭難を繰り返しているうちに盲目となった鑑真は匂いだけで薬を鑑定することができた。
それは書物だけを頼りに医薬を学んでいた当時の医師にとってきわめてありがたいことであった。
 鑑真はまた名医であった。
聖武天皇の母、太皇太后(藤原宮子)の病が悪化したとき、鑑真が喚(よ)ばれて、治療した。
そのとき差し上げた医薬が大いに効果をあげたことによって鑑真に大僧正(だいそうじょう)の位が授けられたのであった。
 また聖武天皇の重体が伝えられたとき、鑑真のほかに多くの僧が心力を尽くして看病に当たった。
しかし、その甲斐(かい)もなく聖武天皇は崩御されたが、そのあと鑑真と良弁に大僧都(だいそうず)が授けられ、慈訓(じくん)には少僧都を授け、法進(ほうしん)と慶俊(けいしゅん)はそれぞれ律師に任じられたのである。
法進は鑑真に従って来日した僧で、のちに大僧都に進んでいる。
 また、良弁、慈訓、安寛(あんかん)の三僧医は父母の租税が免除されたのであった。
ここに見るように、この時代の看病に名を連ねたものはすべて僧医であった。
医疾令で定める典薬寮(てんやくりょう)の医師の名前は出てこない。
鑑真など僧侶(そうりょ)への信頼が、典薬寮の医師より厚かったことを物語っている。
第二部 時代を映す病 
 二 江戸時代に多い眼病
 2 鑑真和上の眼病


 天平勝宝5年(753)12月に唐から来日し翌年平城京に入った鑑真和上(688~763)は日本に着いたときは失明していた。
鑑真和上は天平14年(742)に日本渡海を決意してから、たびたび渡海に失敗して、6度目でようやく悲願を達成したが、困難をきわめた航海のため疲れと塩水で目をやられたのだといわれる。
 しかし、眼科の歴史にくわしい福島義一氏は、鑑真和上が盲目になったときの状況を正伝『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』の記事に、鑑真和上がひどい炎熱の中で視力が徐々に衰えていき、眼の治療にすぐれた胡人(こじん)に出会い、治療を受けたが、最後には失明したとあることや、和上が63歳ぐらいであったこと、この年齢と眼痛など特別な自覚症状の記録がないこと、両眼の視力がしだいに落ちていったことから、老人性白内障であったという。
 ここに出てくる胡人とはペルシャ人かインド人である。
白内障の手術は古代インドで生れた。
そこから西へ行ったのが、アラビア、ペルシャを経て、ヨーロッパに伝わった。
東へ出たのは、チベット、中国を経て日本に伝わった。
『病草紙(やまいのそうし)』に描かれた治療法は中国を経て日本に伝わったにちがいない。
鑑真和上が出会った胡人も同じような手術を行ったであろう。
しかし両人とも不幸なことに失明してしまった。

(「病草紙(F)」国立京都博物館)
 鑑真和上が日本に到着する1年前、天平勝宝4年に奈良の大仏開眼が行われていたが、また、和上のために創建された唐招提寺も見ることができなかった。
 いま唐招提寺に秘蔵されている鑑真和上座像は晩年の御姿の生き写しだといわれる。
閉じた両眼は失明の人であったことを物語っている。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
今朝の朝刊に
コロナ病床増、「勧告」可能に 病院へ要求、強める 拒否なら公表も 感染症法改正案〟(朝日新聞)
とあったのだけど
病院でクラスター発生 入院患者31人死亡 感染310人 埼玉 戸田」(NHK 1月16日)
どれだけ病院への援助をしようとしているのだろう
今の政府の新型コロナへの対応は、GoTo…などで医療崩壊の危機を招きながら、病院への負担を軽減する智恵が見えないのだけど。
今朝の父の一枚です(^^)v
父もヒヨドリが水を飲んでいる場面を写していました。
野鳥が水を飲んだり、水浴びをしている様子を見ていると、
必ず誰かが周りの様子を見ています。
いつ危険が迫ってくるやも知れない。
集団で行動する意味は

■群れの鳥
 冬越しの仕方には2つのタイプがあります。
1つは群れをつくるもの、もう1つは1羽ずつ単独で生活するものです
 ムクドリやカモ類は群れを作ります。
夏の間、繁殖のためにつがい単位に分散していたシジュウカラも、冬は群れになります。
たくさん集まることで、食べ物が見つけやすくなり、危険も早く察知できるようになるからです。
 群れは、同じ種類だけで作るとは限りません。
カモはふつう何種類かが集まっていますし、森や林の小鳥の中にも、何種類かが集まって群れをつくるものがいます。
混群といって、シジュウカラ、ヒガラ、コガラなどシジュウカラの仲間がそのメンバーです。
時にはエナガ、ウグイス、メジロ、コゲラ、アカゲラなどが加わっていることもあります。
(『野鳥ブックス1 BIRD WATCHING―野鳥と出会うために』 日本野鳥の会 1981年)