2021年1月13日水曜日

今朝も白いけど…

公園に着くと真っ白。
昨日は雪で、今朝は霜です。
大阪は一日で雪が解けたけど…

大雪で立往生相次いだ富山 除雪車出動の判断に遅れ 状況が悪化」(NHK)
中島岳志さんのTwitterに

15年前に座談会でご一緒させていただいて以来、大変お世話になりました。
1年半ほど前、半藤さんのご自宅近くの飲み屋でご一緒させていただいたのが最後でした。
凛として、背筋の伸びた方でした。
ご冥福をお祈りいたします。

半藤さんとお目にかかると、その快活な振る舞いに感化され、
「こんな気持ちのいい人間になりたい」という思いが沸き上がりました。
半藤さんのように歳を取ることを目標にしたいと思います。
半藤さん、ありがとうございました。
作家の半藤一利さん死去 90歳」(NHK)

今の人たちは正直に言って本当に歴史を知らない。
丁寧に話さないといけないなぁってところがある。
丁寧に話すとくどくなりますから、
あまりくどくなりすぎると、視聴者の飽きられてしまう。
この辺の加減が非常に難しいと思いますね。


去年、歴史を主に紹介していて、今年は、別の事も記事にと考えたのですが、やはり、歴史の事も書かないといけないな思いました。
1月13日
 江戸幕府が玉川上水(たまがわじょうすい)の工事開始を許可した。 1653(承応<じょうおう>2)年

 幕府はこの日、江戸の町人が強く望んでいた新しい上水の建設を許可した。
すでに60年以上前から、江戸の中心地や北部には、神田(かんだ)上水がひきこまれていたが、幕府は武家屋敷やその他の町々にも、上水道をひかせようとした。
工事は、玉川庄右衛門(しょうえもん)、清右衛門(せいえもん)の兄弟や技術者安松金右衛門(やすまつきんえもん)の指揮で4月から始められ、多摩川(たまがわ)中流の羽村(はむら)から江戸の入口四谷大木戸(よつやおおきど)まで52キロが、11月15日に開通した。
武蔵野(むさしの)の農民が大勢汗を流したおかげであった。
翌年6月、江戸市内に流れこんだ清水に、人びとはおどり上がってよろこんだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
玉川兄弟と玉川上水(先人の働き)」(小学3~4年)
 
用水の整備は農業だけでなく、百万都市江戸の飲用水の確保は非常に重要でした。
当時の環境衛生の問題などについて
文明としての江戸システム 日本歴史19』より「用水整備と都市衛生の実情」を転記しますφ(..)
第4章 人間を取り巻く環境
 用水整備と都市衛生の実情


 百万都市となった享保期の江戸は、武家地と寺社地その他を除く12パーセントの町方に人口の半分が居住していたから、町人地の人口密度は1平方キロメートル当り5万人以上となっていた(内藤昌『江戸と江戸城』)。
(『文明としての江戸システム 日本歴史19』鬼頭宏 講談社学術文庫 2010年)
 実際に前近代の都市環境は、どのようであったのだろうか。
奈良の東向北町の宗門改帳からは、濃尾平野の農村と比べると、男女ともほとんどすべての年齢階層で、死亡率が高かったことが明らかにされている。
こうした傾向は明治前期に持ち越され、一般的に各府県とも市域の死亡率は郡部よりも高く、反対に出生率は低い。
しかしこのような都市の蟻地獄的状況は、明治30年代に上水道・病院・公衆衛生管理など、近代的なインフラストラクチャー(infrastructure)が都市部において農村部よりも早く整備された結果、解消していく(伊藤繁「近代日本の都市における疫病と人口」『講座 文明と環境7 人口・疫病・災害』朝倉書店1995年)。
そして日露戦争後には、各県を通じて郡部の死亡率を市域の死亡率が下回るようになった。
 江戸時代には城下町ができると、河川上流部から用水を掘り、城下に用水を供給する事業がおこなわれた。
たとえば金沢藩の辰巳(たつみ)用水、別名金沢水道もそのような例のひとつである。
この用水は寛永8年(1631)の大火を機に、翌年から小松町の町人、板屋兵四郎(いたやひょうしろう)の指揮の下に掘削が開始されて、短期間で完成した。
上辰巳(かみたつみ)村の犀(さい)川からいくつものトンネルを掘り抜いたり、サイフォンの原理を利用して城内へと導水したものとして名高い。
 江戸においては、全国から集住させられた大名と膨れ上がる町方人口に水を供給するために、初めは赤坂溜池の水と神田上水が利用された。
神田上水は、徳川家康に命じられた家臣の大久保藤五郎(おおくぼとうごろう)によって開削されたといわれる。
武蔵野の井(い)の頭(かしら)池を主要な水源として、これに善福寺(ぜんぷくじ)池・妙正寺(みょうしょうじ)池の水流も集めた江戸川の水流を、目白台(めじろだい)下の関口(せきぐち)で分水し、水道橋で懸(かけ)により神田川を渡したのち、地中に木管を通し、江戸下町の北半分に配水したものである。
また玉川上水は、市街の発展にともなって水不足になったため、承応元年(1652)に計画が立てられ、翌年、江戸町人の庄右衛門・清右衛門の兄弟が幕府から工事請負を命じられて造ったものである。
羽村に堰(せき)を設けて多摩川の水を取り込み、掘削水路により四谷大木戸まで、市街に入ってからは木樋(きどい)・石樋(いしどい)で配水管が張り巡らされて給水された。
給水範囲は江戸城内・四谷(よつや)・麹町(こうじまち)・赤坂から、芝(しば)・京橋までの広い範囲に及んだ。
神田川・多摩川の二大系統の水道は、明治34年(1901)まで市内給水が続けられた。
 このように都市には町内や屋敷内の井戸のほかに、用水路による給水がおこなわれたが、水は濾過(ろか)はもちろん、消毒されたものではなかったから、衛生上、大きな問題をはらんでいた。
下痢・腸炎・赤痢などの消化器系病気がいったん流行すれば、広範囲に伝染し、命を落とす人が多かった。
 19世紀になると、さらにコレラが猛威をふるった。
日本での初めての流行は文政5年(1822)であった。
このときの流行は西日本を中心としたものであった。
しかし安政5年(1858)に長崎から始まったコレラの第2次流行は、三都でも流行し、大きな災厄となった。
この流行は長崎に停泊していたアメリカの蒸気船ミシシッピ号の乗組員が発生源であった。
一説によると江戸では、安政5年7月から9月までの間に、江戸市中の寺院で取り扱った死者だけで28万6964人を数えたという(『虎列刺(コレラ)予防史』)。
事実とすれば、わずか二ヵ月間で江戸人口の四分の一が死亡したことになる。

(『虎列剌予防史』国立国会図書館)
 コレラほど劇的な症状をもたらす病気でなくとも、暖房がじゅうぶんでない住環境では、肺炎・気管支炎、たびたび流行したインフルエンザで死亡する者も多く、白米に片寄った都市特有の食事は重篤な脚気による死亡をもたらしていた。
また江戸時代の日本では、梅毒が国民病といってもよいほどに、全国に蔓延していた。
梅毒は、16世紀初期の永正9年(1512)に京都の医師竹田秀慶(たけだしゅうけい)の記した『月海録(げつかいろく)』に、「唐瘡(とうそう)」「琉球瘡」の名で病気が流行したことが記載されている。
その翌年には早くも、関東でも梅毒と推定される病気が流行していた。
旧江戸市街から発掘された人骨を調査した鈴木隆雄氏は、江戸の成人人口の半数程度が梅毒に罹患(りかん)していたと推計している(『骨から見た日本人』)。
結核もまた慢性的な伝染病であった。
日本では弥生時代から流行があったことが確実であるが、江戸時代には「労咳(ろうがい)」「肺労」などの名で広く流行していたことが記録されている。
とくに都市では高い人口密度によろ感染源との接触機会の多さ、タンパク質の不足する食事、家屋の規模、日照・換気などの住条件の悪さも、結核の高い発生率の原因となった。
 江戸で起きた「振袖火事」と呼ばれる有名な明暦3年(1657)の大火と結核との、奇妙は結びつきを語るエピソードは有名である(立川昭二『近世病草紙』)。
それによると、ある良家の子女が、たまたま宮参りに出た際に、道すがらふと目にした若者に心を奪われ、恋煩いの果てに労咳となって19歳で死んでしまった。
その娘の供養にと寺に寄進された振袖を、強欲な住職が古着屋に売り払い、それを買った娘が同じような運命をたどる羽目となった。
さらに同様にして三人目の犠牲者が出るにおよんで、本妙(ほんみょう)寺で供養のためにその振袖を焼いたところ、一陣の風が吹いて、そこから火事が発生したという話である。
ここで注目したい話の要点は、古着の振袖を媒介にして娘たちに労咳が伝染したという事情であり、ここにはあるいは、当時の人々が結核の伝染性を感じ取っていたことが示されているのかもしれない。
(『文明としての江戸システム 日本歴史19』鬼頭宏 講談社学術文庫 2010年)
昨夜の「サラメシ シーズン10」で
弁当ハンターの阿部了さんが訪ねたのは福島県西会津。
江戸時代から武士の内職として赤べこ作りが盛んだった土地。
工房の野沢民芸を訪ねました。
赤べこの柄には赤は魔除けの色。
そして胴体の黒い斑点は人に代わって疫病を背負ってくれた痕といわれています。

(明日、昼に再放送があります)

福島県 赤べこ
 福島県柳津町の福満虚空蔵尊圓蔵寺には、400年前の大地震のときに、赤毛の牛が寺を再建する資財を運んでくれたという、赤べこ伝説がある。
疱瘡除け
 疱瘡(ほうそう)は天然痘のことです。
その昔、かかると子どもは失明したり、亡くなってしまう怖い伝染病でした。
中国にも赤いものを身近に置くと、疱瘡を避けてくれたり、疱瘡を取りこんでくれるというおまじないがありました。
全身真っ赤な会津若松の赤べこは、病気除けや魔除けのお守りとされてきました。
(後略)
(『全国厄除け郷土玩具』中村浩訳 誠文堂新光社 2020年)

赤べこ発祥の伝説」(福満虚空蔵尊圓蔵寺)
本当は、午後から心臓リハビリに出かけているのですが、去年から自粛しています。
心臓リハビリを再開する時に主治医の先生と感染が拡大したら自粛しましょうと話していました。
本来は今月いっぱい出来たはずだけど、感染が拡大しているので通院できません。
半年ほど開けて、再開できたらいいなと思っています。

大阪・兵庫・京都に緊急事態宣言」(関西NHK)
今朝の父の一枚です(^^)v
この時期、ツグミが群れで行動するのをよく見かけます。

[つぐみ]
語源が不明な身近な鳥
(前略)
 ここで浮上するのが「突く実」説です。
木の実を突っついて食べるから「つくみ」と呼び、濁ってツグミとなったと考えます。
これなら実際の生態に照らしてすんなりと理解できます。
ツグミが木の実をよく食べる季節は冬であり、季節感もぴったり合います。
ともあれ、ツグミほど身近な鳥でも語源の定説さえないのが現状です。
(『日本野鳥歳時記』大橋弘一  ナツメ社 2015年)