2020年3月18日水曜日

枝垂れ桜も咲き出した(^^♪

出かけた時は曇り空で小雨がフロントガラスにあたったけど
歩き出すと、日差しが暖かく、汗が出そうになったので一枚脱ぎました。
暖かさに誘われたのか、枝垂れ桜が咲き出しました(^^♪
手作りマスク600枚を寄贈」(山梨 NHK)
全国放送されるといいなと思っていました。
今朝のニュースで取り上げていましたp(^^)q
中学1年生の女子生徒がマスクを作ろとしたきっかけが素敵です。

一方、「神大病院 マスク3日に1枚」(関西NHK)
先日は、「京大病院 マスク不足」(関西NHK 3月16日)のニュース。
私たちは、手作りマスクなどでもいいけど
医療崩壊させないために検査や診察を控えるようにと言いながら
すでに医療現場が崩壊しそうです。
医療現場は、感染リスクが高く(実際に感染されている医師もおられる)医療用マスクが必要です。
3月18日
 『東洋自由新聞』が創刊された。 1881(明治14)年
 10年ぶりにフランスから帰国した西園寺公望(さいおんじきんもち)は、この日『東洋自由新聞』を創刊し、その社長となった。
国粋主義者であった西園寺は、フランス滞在ですっかり自由主義者となっていた。
主筆に中江兆民(なかえちょうみん)を迎え、社員には長野県松本の松沢求策(きゅうさく)など名の知られた自由民権家が顔をならべた。
驚いたのは政府である。
天皇と相撲をとって遊んだ仲の公爵西園寺が、自由民権運動に参加するとは思ってもみなかったからである。
 政府は勅命(ちょくめい)で西園寺を退社させた。
怒った兆民は新聞で政府を激しく非難した。
松沢らも西園寺退社の内幕を書きたてたため、政府に逮捕された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

東洋自由新聞. 1号」(国立国会図書館)
西園寺公望さいおんじきんもち 1849-1940(嘉永2-昭和15)]◆吉田裕◆
 明治期から昭和期にかけての政治家。
大正天皇の即位に際して、元勲優遇の勅語を与えられて元老となり、大日本帝国憲法の下での自由主義的な議会制度の発展に大きな役割を果たした。
また、天皇や皇室をできる限り現実政治の圏外に置くことによって、天皇制の安定化をはかるという政治路線を代表する政治家であった。
和漢洋の幅広い教養を持つ文化人としても知られる。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 明治・大正期
 公家の名門、清華家(せいがけ)の徳大寺公純(とくだいじきんいと)の次男として生まれ、幼時に同じ清華家の西園寺師季(もろすえ)の養子となった。
戊辰戦争の際には、山陰道鎮撫総督などに任命され幕府方と戦い、若手の公家のなかで頭角を現した。
1871年には、フランスに留学し、急進的な共和主義者であったエミール・アコラースの下やパリ大学で学んで、自由主義思想に傾倒した。
帰国後は、『東洋自由新聞』の社長となり、自由民権運動の立場に立った論陣をはったが、天皇の内勅により退社を余儀なくされる。
その後、ヨーロッパで外交官として活躍した後、伊藤博文の信頼を得て、92年成立の第2次伊藤内閣の文部大臣、外務大臣、98年成立の第3次伊藤内閣の文部大臣、1900年成立の第4次伊藤内閣の内閣総理大臣臨時代理などを務めた。
また、同年に伊藤が立憲政友会を結成すると総務委員となり、03年には伊藤に代わって同党の第2代総裁となり、06年第1次西園寺内閣を組織した。
日露戦争前後の時期からは、政党勢力を基盤とした西園寺と、官僚勢力を基盤とした桂太郎(かつらたろう)とが交互に内閣を組織して桂園時代と呼ばれたが、2個師団の増設を要求する陸軍との対立によって、12年には第2次西園寺内閣が総辞職し、さらに14年には政友会総裁の座を原敬(はらたかし)に譲った。
元老として
 しかし、政治の直接の表舞台からは姿を消したとはいえ、西園寺は元老の1人として、依然として大きな影響力を有しており、22年の山県有朋(やまがたありとも)の死、24年の松方正義(まつかたまさよし)の死によって、残された唯一人の元老となった。
元老しての西園寺が果たした大きな役割の1つは、政党内閣制の確立である。
西園寺は元老の協議によって後継首相を天皇に推薦するという従来のやり方をあらため、元老と内大臣の協議のよって後継首相を推薦する方式を導入した。
この新方式に従って、24年には第2次護憲運動を基盤にした加藤高明(かとうたかあき)内閣が成立する。
また、この頃から西園寺は、衆議院の有力政党が内閣を組織する「憲政の常道」を支持するようになり、昭和天皇の即位に際しても、新たに元老を設けることを認めなかった。
西園寺は、自分の死によって元老を消滅させる道を選択したのである。
晩年―15年戦争期
 1931年の満州事変によって15年戦争が始まると、軍部や国家主義者のグループは、対米協調外交と政党政治を支持する現状維持派の中心人物として、西園寺に対する攻撃を強めていった。
西園寺は、これらの勢力に対する批判的見解を最後まで変えなかったとはいえ、軍部の政治的進出が急速に進むなかで、その現実の政治的姿勢はしだいに後退を余儀なくされた。
32年の5・15事件によって、犬養毅(いぬかいつよし)内閣が崩壊すると、西園寺は軍部の主張に押されて、政党内閣の組閣をあきらめ、後継首相に海軍大将の斎藤実(さいとうまこと)を推薦した。
西園寺の選択は、いずれ事態が鎮静化した後には政党内閣の復活もありうるという含みを残したものだったが、これによって政党内閣制は、息の根をとめられる結果となったのである。
さらに、37年の広田弘毅(ひろたこうき)内閣の総辞職をうけて、西園寺は後継内閣に宇垣一成(うがきかずしげ)陸軍大将を推薦するが、陸軍の強硬な反対により宇垣内閣は実現しなかった。
宇垣の推薦は、彼の政治力によって陸軍を統制しようという意図から出たものだが、この頃から西園寺は、元老としての役割を積極的に果たすことによって、危機的な局面を打開しようとする意欲を、急速に失ってゆく。
そして、後継首相の推薦権も、事実上、内大臣の手に移っていったのである。
 西園寺が後退を余儀なくされた理由の1つは、宮中グループのなかに分化が生じた事実である。
この時期に台頭してくる近衛文麿(このえふみまろ 1891年生まれ)、木戸幸一(きどこういち 1889年生まれ)などの若手は、高齢の西園寺の政治姿勢を現状維持的で非現実的なものと見做しており、宮中グループの中で西園寺は孤立を深めつつあった。
また、西園寺には、皇室を現実政治の圏外に置くことによって、天皇制の存続を確保できるという強い信念があった。
このため、西園寺は、軍部の一部や国家主義的なグループの中にあった天皇親政論に強く反対した。
一方、15年戦争期には、天皇が臨席する御前会議の開催によって、独走する軍部を統制しようとする主張が再三にわたって台頭してくるが、天皇の過度な政治関与に慎重な態度をとる西園寺は、これにも反対した。
こうした中で、西園寺は、打つ手のないまま、失意の内に死をむかえることになるのである。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)

西園寺公望(さいおんじ きんもち 1849〜1940)」(国立国会図書館)
西園寺公望氏を見ていると今の政権は政治屋ばかりで政治家がいなくなったなぁと思ってしまう。

森友学園めぐる文書改ざん 自殺した職員の遺族が提訴」(NHK)
首相周辺は、新型コロナウイルスを神風として利用している。
前川喜平さん3月10日のTwitter
今は、それどころではない、終わったことだと無視し続けるのだろう。
そのためにも検事長の定年延長が必要なんだ。

芥川龍之介の『槍ヶ嶽紀行』の続きを転記しますφ(..)
    二

 ――山の岨(そば)を一つ曲ると、突然私(わたし)たちの足もとから、何匹かの獣(けもの)が走り去った。
「畜生、鉄砲さえあれば、逃がしはしないのだが」
 案内者は足を止めて、忌々(いまいま)しそうに舌打ちをしながら、路ばたの橡(とち)の大木を見上げた。
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
 橡の若葉が重なり合って、路の上の空を遮(さえぎ)った枝には、二匹の仔猿(こざる)をつれた親猿が、静かに私たちを見下していた。
 私は物珍しい眼を挙げて、その三匹の猿が徐(おもむろ)に、梢(こずえ)を伝(つた)って行(ゆ)く姿を眺めた。
が、猿は案内者にとっては、猿であるよりも先に獲物(えもの)であった。
彼は立ち去り難いように、橡の梢を仰ぎながら、礫(つぶて)を拾って投げたりした。
「おい、行(ゆ)こう」
 私はこう彼を促(うなが)した。
彼はまだ猿を見返りながら、渋々また歩き出した。
私は多少不快であった。
 路は次第に険(けわ)しくなった。
が、馬が通るとみえて、馬糞(ばふん)が所々に落ちていた。
そうしてその上には、蛇(じゃ)の目蝶(めちょう)が、渋色の翅(はね)を合せたまま、何羽もぎっしり止まっていた。

「これが徳本(とくごう)の峠(とうげ)です」
 案内者は私を顧みて言った。
 私は小さな雑嚢(ざつのう)のほかに、何も荷物のない体であった。
が、彼は食器や食料のほかにも、私の毛布や外套(がいとう)などを堆(うずたか)く肩に背負っていた。
それにも関(かかわ)らず峠へかかると、彼と私との間(あいだ)の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。

 三十分の後(のち)、とうとう私はたった一人(ひとり)、山路を喘(あえ)いで行(ゆ)く旅人になった。
うす日に蒸(む)された峠の空気は、無気味(ぶきみ)な静寂を孕(はら)んでいた。
馬糞にたかっている蛇の目蝶と蓙(ござ)を煽(あお)って行(ゆ)く私と、――それがこの急な路の上に、生きて動いているすべてであった。
 と思うと鈍(にぶ)い翅音(はおと)がして、青黒い一匹の馬蠅(うまばえ)が、ぺたりと私の手の甲に止まった。
そうしてそこを鋭く刺した。
私は半(なか)ば動顚(どうてん)しながら、一打ちにその馬蠅を打ち殺した。
「自然は私に敵意を持っている」――そんな迷信じみた心もちが一層私をわくわくさせた。
 私は痛む手を抱えながら、無理やりに足を早め出した。……
蛇の目蝶 蛇目紋のある灰褐色の羽を持つ小形の蝶。

徳本の峠 長野県南安曇郡梓川村。大滝山と霞沢岳の間にあり、信濃と飛騨を結ぶ昔からの通路。

 日光・雨露避けの着ござ。

(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カラスがパンを食べようとしているのか?
それとも…貯食行動かな?
2018年10月9日の記事

矢野顕子さんのTwitter(3月16日)

うちのアパートの住人用回覧メールで。
明日の午後、近所のお肉屋さんに行くからついでに買ってきて欲しいものがある人は言ってね。
そしたら、私はチーズ屋に行くわよ、僕はドラッグストアへと、次々と他の住人も名乗りをあげる。
どの店も混雑しているので、特にお年寄りにはうれしい。
ここに住む幸せ


中満泉さんのTwitter(3月18日)

NY近郊でも高齢者専用時間を設けるスーパーが増えてきています。
商品が全く消えてしまうような状況下、これはとても良いことですね。


最初の方で紹介した女子中学生が、高齢者がマスクを買い求めて何軒もの店をまわる姿を目の当たりにしたことからマスク作りを始めたこととつながるよね!