2020年3月21日土曜日

午後には…

昨日と違って暖かい春の陽気でした。
サクラを見るとポツリと咲いている(^^♪
午後には咲き出しそうな蕾が幾つかありました♪
コブシの花が咲き出し、紫雲英(げんげ)の蕾も膨らんでいました。
今年の花見は静かに桜を愛(め)でることができそうですね(^_-)
上野公園 例年とは違った花見に」(NHK)

著名な俳優や歌手 リレーで「イマジン」歌う動画 ネットで話題”(NHK)
言葉は分からないけど伝わってくるものがあります。
イマジンは、心に響く何かがあります。
ガル・ガドットさんのInstagram

今朝のサワコの朝に角田光代さんが登場して
RCサクセションの「多摩蘭坂」を1曲目に選んでおられました♪
角田さんは、小説を書きはじめた19歳の時に友達からチケットをもらって、
日比谷野外音楽堂にライブを見に行き、
ライブを見た瞬間に「これだ!!」この人みたいな表現者になりたいと決意されたそうです。
RCサクセッションの「ぼくの好きな先生」のエピソードを転記しますφ(..)
ぼくの好きな先生 RCサクセッション〔1972年2月5日〕
 RCサクセッションは1970年3月5日に「宝くじは買わない」でデビューしたが、まるで売れなかった。
なぜなら、当時のフォーク・シーンは反体制のプロテスト・ソングから生活に根ざしたメッセージ・ソングに変わりつつあったが、主流はまだシューベルツ、トワ・エ・モワ、ベッツィ&クリス、Kとブルンネンなど歌謡曲っぽいさわやかなフォークだったからだ。
そんな中でもボーカルも、詞、曲も、演奏もユニークできわめてアクの強い彼らは〝異質〟だった。
当然浮いてしまいパージされてしまうことになる。
その結果シングル第2弾「涙でいっぱい」が同年12月1日に発売されて以来、1年2カ月間にわたってレコードが発売されなかった。
つまり、出しても売れないのでレコードは作らないと宣言され、ダメだとラク印を押されたというわけだ。
(『フォークが聴きたい 青春のマイ・ソング210曲』 富澤一誠 徳間書店 1999年)
 しかし、彼らはライブで頑張った。
いや、ライブで頑張るしかなかったのだ。
そのころ彼らがライブの拠点としていたのは、渋谷・宮益坂にあった音楽喫茶〝青い森〟だった。
音楽喫茶と名前はついているものの、今でいうライブハウスではない。
ライブハウスは初めから音楽を聴かせる目的で作られているのが、青い森はふつの喫茶店でたまたまライブをするという感じだった。
だから、音楽をめあてに来ている人は多くなかった。
 そんな中で彼は演奏した。
ほかのグループは「ようこそ、おいで下さいまして」とおとなしかったが、彼らは客がしゃべったりしていると、いきなり「うるせえ! てめえら聴かないんだったら、とっとと帰れ!」と怒鳴っていつもケンカ腰だった。
それでさっさと帰ってしまう客も多かった。
が、そんな彼らのアクの強さを支持する人たちも少しであったが増えてきた。
そんな状況を背景にファースト・アルバム『初期のRCサクセション』が作られることになった。
そしてこの中からライブで人気のあった「ぼくの好きな先生」が72年2月5日にシングル・カットされた。
これは小ヒットとなる。
 新田和長ディレクターは述懐する。
「アルバムを作っている最中にぼくは交代したんだけど……とにかく清志郎は初めからアーティストだった。いいたいことはいうし、やりたいことは絶対に妥協しないでやる。そんな個性的なところが魅力だったんじゃないかな……」
(『フォークが聴きたい 青春のマイ・ソング210曲』 富澤一誠 徳間書店 1999年)
ハナズオウ( Cercis chinensis Bunge )
花の色がスオウ染めの液の色に似ているのでこの名前がつきました。
春、葉のでる前に紅色の花を咲かせます。 (マメ科)
(「蘇芳染<すおうぞめ>」草木染の色辞典)

今朝の「NHK映像ファイル あの人に会いたい
吉岡幸雄(染色家)さんの言葉

簡単にやりたいと人間は思う
近道通りたい
それをやったらだめ
世の中の人生と同じ

3月21日
 高松塚古墳の内壁の彩色壁画が確認された。 1972(昭和47)年
 奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村の一隅にある高松塚(たかまつづか)古墳は、直径18メートル、高さ5メートルの、貧弱でくずれかけた古墳である。
それでも江戸時代からそれは文武(もんむ)天皇陵と伝えられていた。
ところが国は、明治になって別の古墳を文武天皇陵と決めてしまった。
 それ以来この古墳は荒れるにまかされてきたが、1972年3月、破壊の危険がせまったので調査が実施された。
その結果、この日、それまで誰も見たことのない極彩色の美人などを画いた壁画が発見された。
この報道は日本の国民を興奮のるつぼにまきこみ、古代史ブームをよびおこした。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

 「高松塚古墳」(国営飛鳥歴史公園)
1972(昭和47)年は、高校を卒業した年で発見のニュースに感動した思い出があります。
また、発病前は京都よりも奈良をよく歩いていました。
高松塚古墳も訪ねたことがあります。
でも、その時のブログはサービス終了となりました(T_T)
歴史散歩(29) 奈良県の歴史散歩下 奈良南部』より「高松塚古墳」について転記しますφ(..)
高松塚古墳
 江戸時代には文武天皇陵とされ、墳丘に大きなマツの古木が描かれた絵図が残されている。
墳丘の現状は直径約20m・高さ約5mの小円墳だが、1972(昭和47)年の発掘調査によって彩色壁画が発見されたことで一躍有名になった。
尾根を利用してつくられた墳丘は版築(はんちく)によって築造されており、内部には凝灰岩製の切石組み合わせ式の横口式石槨(せっかく)をもつ。
内側の寸法は長さ2.66m・横1.04m・高さ1.13mで、天井周囲を家形に成形している。
(『歴史散歩(29) 奈良県の歴史散歩下 奈良南部
 奈良県高等学校教科等研究会歴史部会 山川出版社 2007年)
 石槨内部の天井と側面に漆喰(しっくい)が塗布され、その上に彩色の高松塚古墳壁画(国宝)が画かれている。
奥壁(北側)に玄武(げんぶ)、東壁中央に青龍(せいりゅう)と日輪(にちりん)、西壁中央に白虎(びゃっこ)と月輪(がちりん)が、中国から伝来した四神(ししん)思想に基づいて描かれている。
扉石(南壁)に朱雀が描かれていたかどうかは、漆喰の剝落のため確認できない。
東西の側壁にはそれぞれ女性群像・男性群像が4人ずつ、朝堂(ちょうどう)儀礼の様式で描かれており、当時の服装や髪型などを知る資料となる。
 天井には金箔と朱線で星宿(せいしゅく)が描かれている。
星宿の中心には天帝(てんてい)の宮中である紫微垣(しびえん)が描かれ、黄道(こうどう)に沿った28星座が東西南北の4官に分けて配置され、天子の支配する世界を示している。
 木棺には漆が塗られ、金箔が貼られていたとみられ、また透彫(すかしぼ)り金具で四方を縁取られていた(金銅製透飾金具、国重文)。
副葬品として海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)や銀荘唐様(からよう)大刀金具(ともに国重文)も出土している。
熟年男性の可能性が高いとされる人骨片も出土し、壁画や副葬品の状況から高位の被葬者が想定され、数多くの見解が出されている。
 高松塚古墳の石槨内は、1976年に石槨の前面に保存施設が完成して以来、空調による壁画の保存処理が施されてきたが、近年、カビの発生などにより壁画の劣化が懸念される事態となった。
そのため、今後の保存対策に向けた墳丘の発掘調査が2005(平成17)年に実施された。
その結果、墳丘裾をめぐる周溝の発見により、直径23mの円墳であることが判明した。
また、版築の観察から、墳丘が上下2段に分かれ、上段の直径が18mになる可能性が考えられる。
墳丘は中世以降に徐々に削り取られ、とくに下段の墳丘はほとんど失われている。
また、出土品として、古墳の下の遺物包含層から7世紀中頃の土器が、版築の最下層から藤原宮期(694~710)の須恵器(すえき)が出土し、古墳の築造時期を推定する手がかりとなっている。
 壁画の保存に関しては、壁画の現状の検討と論議の結果、現状での保存を断念し、石槨を解体・移設して修復保存するという、例のない方法が決定された。
入念な準備と作業が進められているが、恒久保存に向けては、今後も多くの課題が残されている。
 古墳の西側には高松塚壁画館があり、出土遺物の複製と模写壁画が展示されている。
古墳の内部構造と壁画の状況、終末期古墳の築造技術などについても、わかりやすく紹介されている。
(……以下略……)
(『歴史散歩(29) 奈良県の歴史散歩下 奈良南部
 奈良県高等学校教科等研究会歴史部会 山川出版社 2007年)
朝日新聞の夕刊に「ありのままの武漢、作家がつづる 日記をブログで公開 新型コロナ
武漢から発信される方方さんのレポートを読んでいて、
国家権力が情報を操作し、人命を軽視する姿は、今の日本となんら変わりないと思いました。
記事の最後に記されていたのが
 《一つの国が文明国家であるかどうかの尺度は、高層ビルや車の多さや、強大な武器や軍隊や、科学技術の発達や卓越した芸術や、派手な会議や絢爛(けんらん)な花火や、世界各地で豪遊する旅行客の数ではない。唯一の尺度は、弱者にどう接するか、その態度だ。