2020年3月7日土曜日

青空が広がって…

日一日と暖かくなる(^^)v
散歩の後、歯科を受診しました。
知覚過敏症もだいぶましになりました。
夏に冷たい飲み物を飲んだりすると再発するかもしれませんと教えていただいた。
もっと早く受診したよかったと思わず呟いたら歯科衛生士さんが笑った(^^ゞ
歯と口のトラブルとその原因 知覚過敏」(ライオン歯科衛生研究所)
嬉しいニュース(^^)v
映画を見ることができなかったけど
日本アカデミー賞は、実力のある俳優を選んでくれましたp(^^)q
『新聞記者』が三冠/日本アカデミー賞 原案は本紙・望月衣塑子記者の同名著書」(東京新聞)
WHO新型ウイルス『夏場に消えるというのは誤った期待』」(NHK)
WHOのメッセージの中に、
両国の渡航制限は有益ではないしけんかをするべきでない
自国だけで新型コロナウイルスを封じ込めようとしても現実的でないと思います。
世界が協力しないとできないこと。
それができなかったらオリンピック・パラリンピックの開催は無理だということを
夏場になれば消えるというのは誤った期待だ
というメッセージの中に込めていると思います。
3月7日 
 後醍醐天皇が隠岐に流された。 
   1332(元弘<げんこう>2、正慶<しょうきょう>元)年
 正中(しょうちゅう)の変(へん)の後、後醍醐(ごだいご)天皇は再び討幕計画をねり準備を進めた。
しかし意外にも信頼をよせていた吉田定房(よしださだふさ)が、この計画を幕府に密告した。
1331年5月、幕府はただちに首謀者の日野俊基(ひのとしもと)らを捕らえ、真相の解明にのりだした。
天皇は8月24日ひそかに内裏(だいり)をぬけ出し、笠置寺(かさぎでら)に入り兵を集めた。
大和・河内(かわち)・伊勢など近国の武士がこれに応じた。
その一人には楠木正成(くすのきまさしげ)もいた。
しかし幕府軍によって、9月28日に笠置は攻め落とされ、天皇も翌日捕らえられて、翌年3月この日、流刑地隠岐にむけて六波羅(ろくはら)を出発した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
岩波 天皇・皇室辞典』より「後醍醐天皇と建武の新政」を転記しますφ(..)
足利尊氏は明治政府によって逆賊にされてきました。

武将の心を支えた仏像 祈りよ届け ~義経も、尊氏も、秀吉も~」(みちしる)
後醍醐天皇と建武の新政(今谷明)
 14世紀前半に登場した後醍醐天皇(1288-1339、在位1318-39)と彼の樹立した天皇親政を旨とした特異な政権を指す。
戦前は「建武中興」の称で呼ばれたが、いわゆる皇国史観、あるいは水戸学的名分論の立場からするもので、現在では客観性に欠け、不適切とされる。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 持明院統と大覚寺統
 鎌倉後期に皇統が二分して両派が交替で皇位に就くという両統迭立(てつりつ)は、1272(文永9)年後嵯峨(ごさが)上皇が没したとき後継の治天(じてん)の君(きみ)(執政上皇・天皇)を定めず、故上皇の嫡妻大宮院(おおみやいん)の裁定で亀山(かめやま)天皇が治天に就任し(亀山親政)、悲観した亀山の兄、後深草(ごふかくさ)上皇が出家せんとし、75(健治元)年これに同情した執権北条時宗(ほうじょうときむね)が、後深草の嫡子煕仁(ひろひと<のちの伏見天皇>)を亀山の子後宇多(ごうだ)天皇の皇太子としたことに端を発する。
以後数年から10年の間隔で両統が交互に治天と皇位を襲ったが、後深草の生前は、彼が温和な性格で相手方皇統に配慮していたため、両派の対立は表面化せず済んできた。
しかるに1304(嘉元2)年後深草が没し、翌年亀山も逝去するに及んで、両統の対立はにわかに険悪化、公卿も両派に分れて互いに幕府の援(たす)けを得んとした。
 その間1317(文保元)年、幕府は両統対立を懸念して調停案を出した(文保<ぶんぽう>の和談)が成功せず、翌18年幕府の奏請で後醍醐天皇が践祚(せんそ)し、当座御宇多法皇が院政を聴いた。
しかし法皇に政務の熱意はなく、21(元亨元)年末には後醍醐の親政が実現した。
天皇は「関東は戎夷(じゅうい)なり、天下の管領然るべからず」と幕府政治の正統性に疑念を表明し、また承久の乱(1221年)以来皇位決定権を幕府が掌握している事実にも大いに不満で、わが子に皇位を伝えるためには幕府を討つ以外に方策はなしと思い詰める至った。
後深草・伏見の持明院統(じみょういんとう)が親幕的、亀山・後宇多の大覚寺統(だいかくじとう)が反幕的傾向を有するという説もあるが、公平に記録を眺めればその事実はなく、倒幕運動は後醍醐の個人的思想・信念によると思われる・
一方幕府は戎夷の内乱や畿内近国における悪党の跳梁を鎮圧し得ず、御家人(武士)統制力も弛緩し、しかも「関東万人、大略東宮(後醍醐)の方人(かたうど)か」と称された程鎌倉では後醍醐贔屓(びいき)の要人が多く、そのような関東の油断を奇貨として、天皇は討幕計画を勧めた。
 討幕への過程
 後醍醐は御宇多の第2子で、生母は談天門院(だんてんもんいん)忠子(参議五辻<いつつじ>忠継の娘)であり、この時期の天皇が多く西園寺氏女の所生であるのに比し、生母の出自が低く、これが彼の討幕志向の背景の一をなしている。
天皇は吉田定房(よしださだふさ)・万里小路宜房(までのこうじのぶふさ)・北畠親房(きたばたけちかふさ)(彼らを三房<さんぼう>と呼ぶ)らの能力ある廷臣(ていしん)を登用し、日野資朝(ひのすけとも)・俊基(としもと)らを抜擢、宋(朱子)学の講書会にかこつけて討幕の密謀をめぐらした。
しかし密計は事前に漏洩し、1324(元亨4=正中元)年9月、六波羅探題は土岐頼兼(ときよりかね)らを捕らえ(正中の変)、頼兼は誅殺、資朝は佐渡に流された。
天皇は干与せずとの弁明は幕府に認められたが、この反乱には六波羅引付頭人(とうにん)の伊賀兼光(いがかねみつ)のような有力御家人も参与していたことは注目される。
天皇はこの挫折にもめげず、護良(もりよし)親王を天台座主に任じ、畿内近国の寺社勢力の糾合を企て、さらに中宮禧子(きし)の安産修法に仮(か)りて関東調伏の呪詛を行った。
31(元徳3=元弘元)年4月、吉田定房は天皇の再度の討幕計画を幕府に密告し、幕府は大軍を上洛させ俊基や僧円観(えんかん)・文観(もんかん)らを捕縛した。
8月天皇は内裏を脱出して笠置に籠城し、河内の楠木正成と呼応して諸方に飛檄した(元弘の乱)。
 幕府は即座に後醍醐を廃し光厳(こうごん)天皇を践祚させ、10月には後醍醐を捕縛、ついで隠岐へ配流した。
しかし翌年秋頃から諸国の悪党が蜂起し、畿南では熊野三山を中心とした反幕騒動が再燃。33年閏2月に後醍醐は隠岐を脱出して伯耆(ほうき)の船上山(せんじょうさん)に籠城、4月には幕府に最も忠実とみられていた足利尊氏(あしかがたかうじ)が丹波で叛旗を翻し、赤松則村(あかまつのりむら)もまた播磨で蜂起し、5月には六波羅・鎌倉・博多がほぼ同時に陥落して鎌倉幕府はここに滅亡した。
建武の新政
 1333年5月25日に重祚した後醍醐は、幕府の廃絶はおろか院政・摂関まで廃し、「延喜天暦」の往昔に戻るという復古的親政をしいた。
還俗した護良が将軍に宣下されたが、倒幕に大功のあった尊氏・則村らは中央政府の実権は与えられず、尊氏はわずかに武蔵守、則村に至っては播磨守護さえ与えられず、一介の地方武士に捨て置かれた。
さて幕府・院政・摂関の廃止は、鎌倉期の親政とは異なり、天皇権力の独裁を指向するもので、律令制本来のあり方をも超越し、大臣不設置の天武朝皇親政治の復古を指向したものといえよう。
八省卿に上級公卿を配置する等、院政期以来の官司世襲請負制を崩し、公卿の伝統的家格観念を蹂躙する人事を頻発したことは、武士の不満よりも先に、緒公卿の怨嗟を招いた。
数十年後、三条公忠(さんじょうきんただ)が「後醍醐院の御行事、この一事に限らず毎事物狂の沙汰等なり」と吐き捨てたことはその表われである。
 中央官制には記録所と武者所を置いたが、裁判機関としては結局「雑訴決断所」を新設して鎌倉幕府の引付制を踏襲せざるを得なかった。
むしろ地方機関としての国司・守護併置策を採った事実こそが、時代の趨勢を見越したものとして注目される。
両地方官の併置は、かつて後醍醐すら封建制の進展を無視し得なかった妥協策と評価されたことがあったが、中国宋朝の地方官制(節度使・制置使や知州事・通判の併置)を模倣し、宋朝型君主独裁制を指向したという説が有力視される。
また関東については鎌倉に成良(なりよし)親王を据え、尊氏・直義(ただよし)の兄弟を武相両国の国主として副え。陸奥へは多賀城に義良(のりよし)親王(後の後村上<ごむらかみ>天皇)を下向させて北畠親房父子を添え、「小幕府」体制が形成された。
このように「武家を立てらるまじき」との天皇の理想(政権構想)は、早くも頓挫したことになり、他方新政に不満を募らす武士たちは、関東の尊氏兄弟に希望をつなぎ、鎌倉が反新政の拠点を形成することになった。
 天皇の復古主義は、所領安堵の綸旨に、平安初期の官符(かんぷ)・国宣(こくせん)・縁起等を引用する等、余りに観念的で、さらに紙貨幣の新造や僧服を黒から黄に替える等、宋元朝の模倣に終始する政策もあり、一貫性や現実性を甚だしく欠いた。
大内裏造営を強行して農村から公事(くじ)を課徴し、34(建武元)年5月には東寺領若狭太良庄(たらのしょう)の百姓らが「御所務曾て以て御内御領(北条得宗<とくそう>領)の例に違はず、剰(あまつさ)へ新増せしめ、巨多の御使を付せられ、当時農業の最中呵責(かしゃく)せらるゝの間、愁吟に堪へず」と愁訴する始末で、新政は発足当初1年未満のうちに早くも各界総スカンの状を呈した。
(……後略……)
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
今朝の父の一枚です(^^)v
空に浮かぶ雲を何枚か写していました。
もうじき天気が悪くなるなと話していました。