2020年3月24日火曜日

ツバメが帰ってきた(^^♪

今朝は、風が冷たかった…
ピンとも露出も合ってないけどツバメに出会えました(^^♪
父は昨日、出会ったそうです。
2020年 初めてツバメを見た日」(ツバメ観察全国ネットワーク)
ハナズオウを見ていると、「今年は咲くのが早いですね」と女性が声をかけてこられた。
暖かいのでサクラも早いですねと話していて
「コロナが早く終わればいいですね」と話していました。
それにしてもハナズオウの花言葉は可愛そうです…
自然体験観察園の田んぼでゲンゲを写しているとスタッフの方が話しかけてこられました。
スタッフの方は、子どもたちがレンゲで昔遊びをしてほしいと種を蒔いたそうです。
よく見かけるのが写真撮影に入り込んで踏み荒らしている人がいますが、
子どもたちに体験させるためにマナーを守ってほしい。
花の首かざり」(16~18 愛媛県重信町<現東温市>)
日本の感染者数はもっと多いはずだと思います。
一方、
ドイツ 感染者2万人超で死者86人 大規模検査で早めに対応か」(NHK)
感染者数に対して死者の数が少ないのは

もともと集中治療に対応したベッドがイタリアのおよそ5倍にあたる2万8000床あり、
医療体制が整っていたことも要因だと指摘されています。

(追記:「ドイツ 感染者2万人 死者114人 死者が伊などより少ない背景は」NHK)

一方、日本は医療費削減を政策目標にしているので、医療体制が貧弱になっていると思います。

龍谷ミュージアム元館長のつぶやきさんが(3月21日)

ひどい、の一語。
死者を悼む気持ち、遺族の思いに対する気持ちなどさらさらなし。
「人としてどうなの?」と多くの人は思っても、メディアはこの大臣を甘やかすだけ。
もういいかげんにしないと。


自殺した財務局職員の妻『怒りに震える』2回目のコメント公表」(NHK)
麻生大臣にしても首相にしても国会での審議中の態度や答弁には(声を聞きたくないので記事などを読んでいるだけですが)、
人命に対する考えがあらわれていると思う。
メルケル首相の演説を読むと知性と決断力、そして国民への愛がある人は、心を打つ言葉を届けてくれる。
つくづく日本の状況はいいたくないほどひどい。
コロナウイルス対策についてのメルケル独首相の演説全文」(林美佳子さんの試訳)
3月24日
 平家一門が壇の浦で滅び去った。 1185(文治<ぶんじ>元)年
 一の谷、ついで屋島(やしま)の合戦にも敗れた平氏は、瀬戸内海を西に逃れた。
陸路を進んだ源範頼(のりより)の軍は苦戦したが、水軍を率いた源義経は屋島合戦の1カ月後、壇の浦で平氏の水軍に決戦をいどんだ。
海戦ははじめ平氏が有利だった。
しかしやがて潮の流れが変わった。
義経は安徳(あんとく)天皇の御座船(ござぶね)をめざして突進した。
平氏も奮戦したがついに敗れ、8歳の天皇は二位(にい)の尼(あま)平時子(ときこ)に抱かれて入水。
平氏一門もそのあとを追った。
しかし総領平宗盛(むねもり)は捕らえられて生き恥をさらした。
 この海戦で三種の神器の一つ、宝剣も海底に沈んだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
現代語訳 平家物語(下)』より「壇の浦合戦」を数回に分けて転記したいと思いますφ(..)
下関・赤間神宮 平家一門の墓がある神社」(みちしる NHK)
  壇の浦合戦
 義経のひきいる源氏勢は、参河守範頼(のりより)のひきいる一軍と、周防(すおう)で落ち合い合流した。
平家が長門国引島(ながとのくにひくしま)に着くと同時に、源氏が同じく長門の追津(おいつ)に着いたのは、天の配剤であったろうか。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
 紀伊国の住人で、熊野別当湛増(たんぞう)という者があった。
代々、平家に縁故浅からぬ関係にあり、このたびの戦にも、平家方が心頼みにしている水軍の一人であった。
天下の形勢が次第に平家に不利になってくると、湛増の考えも段々変り始めていた。
とても自分一人では決め兼ねたので、田辺の新熊野に七日間、参籠して祈誓をこらした。
ご託宣の結果は、白旗につけとのお告げであった。
しかし湛増は、まだこれだけで決めてしまうには、平家に並々ならぬ恩顧を蒙り過ぎていた。
そこで赤い鶏と白い鶏を七羽ずつ、権現の神前で勝負させると、赤い鶏は一匹も勝たず、みな負けてしまった。
この上はと、湛増も心を決めて一族の者を引き連れ、二千余人が、二百余艘の兵船に乗って、壇の浦へ繰り出してきた。
熊野権現の一つ、若王子(にゃくおうじ)のご本尊を乗せ、旗の横上(よこがみ)には金剛童子を書いた、この湛増の兵船が現れると、源氏も平家も、共に手を合わせて拝んだ。
ところで、湛増の兵船が、予期に反して源氏方についたのには、平家もあきれ返っているのだった。
伊予の河野四郎も、百五十艘の船を引き連れ、源氏方に加わった。
 源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘、船の数では源氏の方が群を抜いていた。
平家の船には唐船(とうせん)が混っていた。
 源平最後の決戦の火ぶたは、いよいよ切って落されんとしている。
その日、元暦二年三月二十四日、早朝を期して、豊前国田浦(たのうら)、門司(もじの)関、長門国赤間(あかまが)関、壇の浦で、源平両軍の矢合せが行われることも決まった。
 その決戦に先立つ前、義経の陣営で、一寸したいさかいがあって、危く、義経と景時(かげとき)が、同士討ちするような事件が起った。
 事の起こりは、景時が義経の前で、当日の先陣を望んだことからであった。
 「此の度の戦の戦陣、是非、それがしにお任せ下され」
 景時がそういって一歩進み出ると、義経は、ついとそっぽを向いていた。
  「さよう、この義経がいなければのう、だが残念なことに、先陣はこのわしじゃ」
 すると、景時がさっと顔色を変えてつめ寄った。
 「何と仰せらるる、殿は大将軍でござる、大将軍は先陣などつとめる者ではござらぬ」
 「何? 大将軍とな、こりゃ始めて聞いた。大将軍は鎌倉殿、わしは軍(いくさ)奉行を承ったまでのこと故、そなたたちと同じことじゃ、そなたたちと同じなら、先陣を承っても差しつかえござるまいが」
 とても先陣を与えてはくれそうもない義経の言葉に、愛想をつかした景時は、聞こえよがしにつぶやいた。
 「まったくこの殿は、生れつき人の主にはなれぬものとみえるな」
 景時の言葉を耳にした義経は、太刀の柄に手をかけた。
 「そなたこそ、日本一のおろか者よ」
 こうなれば、売り言葉に買い言葉である。
景時も、さっと顔色を変えて、同じように太刀に手をかけた。
 「何をなされる? この私、鎌倉殿よりほかには、主という者を持たぬ身じゃ」
 この様子に、景時の息子、影季(かげすえ)、影高、影家始め、家の子郎党十四、五人も、てんでに打物をとり、今にもうってかかろうとする様子をみせた。
一方、義経の方でも、伊勢三郎を始めとした側近の面々は、主君危うしとばかり、景時目がけてつめ寄ろうとして、あわや、血の雨も降ろかと思われたとき、騒ぎを聞いて、驚いてかけつけた三浦介義澄が義経に、土肥次郎実平が景時に、取りすがっていうのだった。

 「何ということをなされます、気でも狂われたのか、明日の決戦を前に控え、同志討ちなどとは、以ての外の言語道断、平家の思う壺にはまるようなものでございます。又鎌倉殿がお聞きになられましたら、どんなにご立腹の事がわかりませぬ、何分、ご両所よくお気を鎮めて下されませ」
 と心をこめて諫めたので、義経も尤もな事だと怒りを解き、太刀から手を放したので、どうにか事なきを得たのである。
しかし以後、ますます景時は、義経を忌み嫌うようになった。
義経失脚の原因はこんな所にもあったのである。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)v
シメを見つけていました。
25日と26日にいつも利用している駐車場出入口の工事があり駐車場を利用できません。
また、25日は父の歯科通院の付添いですし、
天気予報を見ると、27日と28日は雨の予報…
これまででしたらこんな時は、町歩きなどをしていたのですが
電車に乗るのは怖いので記事の更新が休みになるかもしれません。
ほぼ毎日、記事の更新をしているので休みが続くと心配されるかもしれませんのでお知らせしておきます。
休んでいる間は、記事用の資料集めをしようと思っていますし、
近所をぶらぶらしていると思います。
ただ、近所の様子を写すとどの辺に生息しているのかが知られるのでやめときます(^^ゞ