2020年3月20日金曜日

春分の日で…

今朝は、風が冷たかったです…
膨らみかけた桜の蕾もすぼんでしまったかな?
今日は、春分の日でお彼岸の中日。
例年でしたら四天王寺さんにお参りに行くのですが
父は88歳で、私も心臓機能が悪く電車に乗るのが怖いので断念しました。
四天王寺さんの堂内での法要は中止になっています。
もう25年も経つのですね。
でも、遺族やまだ闘病中の方、家族の方にとって辛い日々が続いています。
私たちが伝えたかった言葉 地下鉄サリン事件25年」(NHK)
人命を軽視する思想は、今も私たちの前に現れてきます。
19のいのち」(NHK)
平野啓一郎さんのTwitter

なぜ、「一斉休校」、「一律給付」といった雑な発想しか出来ないのか? 
状況を具体的に把握し、分析して対策を練るということが出来ない。
中途半端なやってる感でリソースの無駄遣い。
1万2000円やそこらを富裕層にまで配って、それで何になる?


正直、首相の頭はどうなっているんだろうと怒りが湧いてきています。
「桜」に後援会を招待するのと同じ感覚だとしか思えません。
(「桜」をこれほど汚した人はいるのだろうか)
今、国の財政を国民の命を守るために使わなければいけない時です。
品不足になっている、医療用マスク、介護施設などのマスク。
在宅で介護している人たちのために消毒液。
人工呼吸器等医療用機器の増産などなど…
ついこの間、公立病院の再編・統廃合のリストを発表していましたが、医療を破壊しているとしか思えない。
全国の公立病院の3分の1が「統廃合」される!?地方では高齢者の「医療難民」化が起きる可能性も〟(みんなの介護)
 「五輪開催『別のシナリオも検討』IOCバッハ会長」(NHK)
と、正式には延期を認めていないのですが、
“完全な形”は「規模縮小せず観客も一緒に」〟(NHK)
と首相が仰っているのですから延期しかないと思うのですが?
岩田健太郎さんの記事に書かれた意見に賛同します。
2020年夏に東京オリンピックを開催すべきでない理由
3月20日 
 明治天皇が断髪(ちょん髷<まげ>を切ること)をした。 1873(明治6)年
 幕府からイギリスへ派遣された留学生は、1868(明治元)年に断髪姿で帰国し、人々を驚かせた。
71年8月9日には断髪の自由が認められ、その年欧米に出発した岩倉具視(ともみ)も、米国で断髪した。
天皇も、とうとうこの日、断髪した。
そのころから貿易にたずさわる人や外交官などに急速に断髪がひろがり、断髪は文明開化の象徴となり、「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という文句がはやった。
しかし庶民にはなかなか徹底しなかった。
そこで、ちょん髷に税金をかけた県やちょん髷姿をしている人を見つけると、その場でちょん髷を切った県もある。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
明治天皇が文明開化に果たした役割を『岩波 天皇・皇室辞典』より紹介したいと思います。
文明開化のシンボルとしての明治天皇
 文明開化が王政復古と結びつけられ、その正当性が確保されることによって、明治天皇は文明開化のシンボルとして浮上する。
王政復古が形式的に「天皇親政」であり、文明開化が「神武創業」への回帰と位置付けられたことから、明治天皇は文明開化の率先者となり、開明的君主として姿を現すことになる。
「軍服(洋服)を着てワインを愛飲する天皇」は「文明開化=復古」のシンボルであり、「相克する欧化と国粋は、天皇というまさしく統合のシンボルにおいて見事に統一され」たのである(西川長夫『増補国境の越え方』)。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 天皇は、文明開化の先頭に立ち、それを次々と実践していく。
上述の「服制更革の詔」は、天皇による内勅であり、女子服制に関する「思召書」は皇后からの思し召しという形ととっている。
天皇自身も1872年には洋服を着用し、5月に西日本巡幸でその姿を人々の前にさらしている。
文明開化の先頭をゆく君主としての姿は、洋装の天皇というその服装によって、まず示されたのである。
天皇の欧米化は日常生活の様式にまで及んだ。
71年には初めて洋食を口にしており、牛乳の飲用も始まる。
「肉食の禁」が解かれ、牛肉、羊肉は日常的に食卓にのぼるようになる。
さらに、73年に天皇は断髪し、その姿は女官らを驚かせている(『明治天皇紀』)。
この断髪した天皇の姿は、軍服を着て撮影された写真に収められた。
この写真は外交関係に使用され、各府県にも配布されたため、広く一般の人々の目にも入るものとなった。
文明開化が人々の身体、生活様式、風習、風俗を「抑圧」するものであり、根強い抵抗や反発が引き起こされたため、文明開化を象徴する断髪し洋服を着た天皇の姿を、人々の目にさらすことが強く要請された。
そして、断髪・洋装の天皇の姿は、人々に大きな衝撃を与えた。
 文明開化のシンボルとしての天皇像を広く流布するのに効果的だったのが、写真と巡幸である。
写真はのちに「御真影」という形をとることとなる。
巡行は、直接的に生身の天皇の姿を人々の目に触れさせた。
天皇は精力的に巡行を行い、断髪・洋装の「開明的君主」が裁判所・学校・産業施設など「文明開化の空間」を訪れるという形で、人々に文明開化を印象付けた。
また、巡行は、迎える側にそれにふさわしい作法を要請することによって、人々の身体を文明化させようとするものであった。
特に「文明開化の空間」を代表する学校での反復練習を通じて生徒たちが巡行を迎えるにふさわしい作法を身に付けることで、また巡行時に彼らのそうした作法が示されることで、人々に「文明開化の身体」が刻印されていった。
文明開化の「抑圧」は、文明開化のシンボルである天皇を媒介として内面化されていった。
 しかも、日本の国民国家形成が天皇制国家形成である以上、文明開化は近代天皇制の確立であり、天皇制イデオロギーの教化でもあった。
「文明開化=復古」という構図が立てられることで、「あらたに創出された“伝統としての天皇制”は、近代と反近代の双方から支えられ、しだいに超越的な権威性を帯びていく」(牧原憲夫「文明開化論」『岩波講座日本通史16』)。
文明開化は、近代世界システムに適応・参入しうる天皇制国家「日本」の確立に大きく貢献したのである。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
芥川龍之介の『槍ヶ嶽紀行』の続きです(最終回)。

    四

 ――雑木(ぞうき)の重なり合ったのを押し開いて、もう一度天日(てんじつ)の光を浴びると、案内者は私を顧みながら、
「ここが赤沢(あかざわ)です」と言った。
 私は鳥打帽(とりうちぼう)を阿弥陀(あみだ)にして、眼の前にひらけた光景を眺めた。
 私の前に横たわるものは、立体の数を尽くした大石(たいせき)であった。
それが狭い峡谷(きょうこく)の急な斜面を満たしながら、空を劃(くぎ)った峯々の向うへ、目のとどく限り連(つらな)っていた。
もし形容の言葉を着ければ、正(まさ)に小さな私たち二人(ふたり)は、遠い山顚(さんてん)から漲(みなぎ)り落ちる大石の洪水の上にいるのであった。
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
 私たちはこの大石(たいせき)に溢(あふ)れた谷を、――「黄花駒(きばなこま)の爪」の咲いている谷を、虫の這(は)うように登り出した。
 暫(しばら)く苦しい歩みを続けた後(のち)、案内者は突然杖(つえ)を挙げて、私たちの左手(ゆんで)に続いている絶壁の上を指しながら、
「ご覧なさい。あすこに青猪(あおじし)がいます」と言った。
 私は彼の杖に沿うて、視線を絶壁の上に投げた。
すると荒削(あらけず)りの山の肌が、頂(いただき)に近く偃(は)い松の暗い緑をなすった所に、小さく一匹の獣が見えた。
それが青猪という異名(いみょう)を負った、日本アルプスに棲(す)む羚羊(かもしか)であった。
 やがてその日も暮れかかるころ、私たちの周囲には、次第に残雪の色が多くなって来た。
それから石の上に枝を拡げた、寂しい偃(は)い松の群も見え始めた。
 私は時々大石(たいせき)の上に足を止めて、いつか姿を露(あらわ)し出した、槍ヶ嶽の絶顚(ぜつてん)を眺めやった。
絶顚は大きな石鏃(やじり)のように、夕焼の余炎が消えかかった空を、いつも黒黒と切り抜いていた。
「山は自然の始にしてまた終なり」
――私はその頂を眺めるたびに、こういう文語体の感想を必ず心に繰返した。
それは確か以前読んだ、ラスキンの中にある言葉であった。
 そのうち寒い霧の一団が、もう暗くなった谷の下から、大石と偃(は)い松との上を這(は)って、私たちの方へ上(のぼ)って来た。
そうしてそれがあたりを包むと、俄(にわか)に小雨交(こさめまじ)りの風が私たちの顔を吹き始めた。
私は漸く山上の高寒を肌に感じながら、一分も早く今夜宿る無人の岩室(いわむろ)に辿(たど)り着くべく、懸命に急角度の斜面を登って行った。
が、ふと異様な声に驚かされて、思わず左右を見廻すと、あまり遠くない偃(は)い松の茂みの上を、流れるように飛んで行く褐色の鳥が一羽あった。
「何だい、あの鳥は」
「雷鳥(らいちょう)です」
 小雨に濡れた案内者は、剛情(ごうじょう)な歩みを続けながら、相変らず無愛想にこう答えた。
  (大正9年6月)
赤沢 長野県南安曇郡。槍ヶ嶽の北東にある山。

黄花駒の爪 夏に黄色の花をつける高山植物。葉は馬蹄形。

山は自然の始にしてまた終なり 出典未詳。

ラスキン John Ruskin(1819~1900)。イギリスの美術批評家。社会改良論者。 
(『芥川龍之介全集 第五巻』編集者:伊藤整、吉田精一 角川書店 昭和43年)
父の一枚です(^^)v
父も母が好きだった場所を写していました。
父と一緒に 「インタビューここから 増田明美」を見ていて
父が大阪の時に増田さんが急に足が止まったことを覚えていました。
その時、どうしたのかな?と理由が分からなかったけれど
増田さんがその時のことを話してくれて理由が分かり、
なんてひどい言葉をかけるんだと怒っていました。
番組の中で増田さんの好きな言葉が紹介されていました。

ロスアンゼルスオリンピックで途中棄権した後、失意の増田さんを復帰させたのはオレゴン州の大学のコーチ・ルイーズ・オリベイラさんだそうです。
帰国後、増田さんにピッタリな言葉に出会った。
『論語』の「知 好 楽」という言葉です。
(成田高校の後輩、加世田梨花さんへのアドバイス)
ああ、ルイーズコーチが言っていた言葉だってもうあてはまちゃって。
どういう意味かっていうと、私の解釈は
一つのことに打ち込んでる時に
そのことをよく知ることは、すばらしいと。
でも、知っているだけの人よりも
それを好きでやっている人が勝っていると。
それよりも楽しんでいる人が良い結果につながりますよって


ルーズコーチにアドバイスされたのは
良い結果っていうのは、
自分がハッピーだって思える時に
生まれるんだよ


『論語』の読み下し文を転記します。
現代語訳は、増田さんの解釈が素晴らしいです。

雍也(ようや)第六 137
子の曰く、これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

(『論語』金谷 治訳注 岩波文庫 1963年)