2020年3月12日木曜日

天気を気にせずに歩けました。

昨日は、にわか雨が降ってきたりしたけど
今朝は、真っ青な空でした。
左耳の聴力を失聴しているので、何処で歌っているのか分からなかったのですが
ウグイスだなと分かるほどの歌声が聞こえました。
昨日も聞こえたのですが、
モズが真似ているのかなと思うような歌声だった(^_-)
モズの鳴きまね」(小学6年 動画)

3月12日 
 新島襄が遊学を企てて函館に向け品川を出発した。 1864(元治<げんじ>元)年
 欧米の和訳本を読んで海外への目を開かれ、渡航の機会をねらって英語の勉強もはじめていた新島襄(にいじまじょう)は、この日、快風丸(かいふうまる)に乗って品川から函館に向った。
 函館につくと、ロシア人の家に日本語の教師として住み込み、日本脱出の計画をねった。
英国商人の店員と親しくなった襄は、その人の手助けで夜の闇にまぎれて函館に停泊していた米国商船ベルリン号に乗り込むのに成功した。
 ベルリン号は翌日上海(シャンハイ)に向けて出発した。
その後長い航海中に聖書を読んで感銘した新島は、やがてキリスト教徒としての道を歩むことになった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

建学の精神と新島襄」(同志社大学)
WHOが新型コロナウイルス( COVID-19)を「パンデミック(pandemic)」と言えると発表しました。
COVID-19-2020年3月11日に関するメディアブリーフィングでのWHO事務局長の開会挨拶」(WHO)

センバツ高校野球が中止になり生徒が可哀そうなのですが、
オリンピック・パラリンピックもどうなるか分からなくなりました。
日本だけがコロナウイルスを終息させることができたとしても、
世界と連帯しないとパンデミックは解除されません。
国連事務総長『弱者への連帯を』“パンデミック”対応強化要請」(NHK)
若松英輔さんのTwitter

同時代の政治的リーダーなのにどうして発言がこれほどまでに違うのだろう。
メルケルは、試されているのは互いに思いやる心だという。
信頼できるリーダーの存在は民衆の潜在的な力につながる。
しかし、こうしたニュースへの日本のメディアの反応が鈍い。
意図的かと思うほど鈍い。


『人口の70%が感染する可能性』独首相 新型コロナウイルス」(NHK)
 同じ首相でもこれほどまでに違うのかは、アウシュヴィッツでの演説にも現われています。
世界 4月号』にメルケル首相の演説が掲載されています。
全文を転記できませんので、冒頭と最後の言葉を紹介したいと思いますφ(..)
訳者の三島憲一氏の解説を読むと、時代背景やメルケル首相の言葉の重みを知ることができます。
2019年12月6日、アウシュヴィッツ演説
アウシュヴィッツ=ビルケナウ財団10周年記念式典にあたって
 アンゲラ・メルケル(ドイツ首相)、訳・解説=三島憲一(大阪大学名誉教授)

 尊敬する首相閣下(以下略)

 本日この地に立って、ドイツの首相として皆様に語りかけるのは、決して容易なことではありません。
この地でドイツ人たちが犯した野蛮な犯罪を考えるとき、私は深い恥じらいの気持ちをいだきます。
これはいっさいの理解能力の限界を超えた犯罪なのです。
この地で、女性、男性、そして子どもたちに対してなされたことを思うと、驚愕のあまり、本当に沈黙している以外にありません。
どんな言葉がこの悲しみに対応できるでしょうか。
この地で、屈辱を受け、苛(さいな)まれ、そして虐殺されたすべての人々を悼む思いに対応できるでしょうか。
とはいえ、どんな地よりも、人類最大の犯罪と不可分に結びついているこの地でこそ、それがどんなにつらくても、沈黙だけが私たちの唯一の答えであっては決してなりません。
この地こそは、記憶を保ち続けるように、私たちに義務を課しているのです。
私たちは、この地で犯された犯罪を思い出し、そしてこの犯罪を明確に言葉で言わねばなりません。
(…略…)
(『世界 2020年4月号』岩波書店)
 生き延びた方々は、遭遇した恐怖に打ちひしがれ続けていました。
マルゴット・フリートレンダーは、回想録のなかでそれについてこう書いています。
「彼らは、自分たちが人間であることを学びなおさねばなりませんでした。名前を持った人間であるということを」。
 多くの方々は、なぜ自分が生き延びたのか、なぜ自分の代わりに妹が生き延びなかったのか、なぜ、親友が、あるいは自分の母親や夫の生き延びなかったのか、と問い続けました。
また多くの方々は、自分の近親者がどこでどのようにして虐殺されたのか、長いことわからなかったのか、あるいはわからないままでした。
こうした傷が癒えることは決してありません。
 それだけいっそう私は、そのことについて語るに至った方々、苦痛と追憶を分かちあうために、そして和解をはじめるために語り出した方々すべてにお礼を申し上げたいと思います。
こうした方々すべての前で私は深く頭を垂れる者です。
ショアの犠牲者の前で、そしてその方々のご家族の前で深く頭を垂れる者です。
 今日ここに出席させていただけたことに感謝いたします。

マルゴット・フリートレンダー( Margot Friedländer 1921-)。
 テレージエンシュタットの強制収容所の生還者。戦後アメリカに渡りアメリカ市民となったが、2010年、故郷のベルリンに戻り、ドイツ各地の学校で、自分の経験を語り続けている。
(『世界 2020年4月号』岩波書店)
ブログを訪問している方が記事の中で新美南吉の「里の春、山の春」を紹介してくださった。
重苦し今だから、この話を転記したいと思いますφ(..)
いつものことですが、原文通りではありません。
里の春、山の春

 野原にはもう春がきてゐました。
 桜が咲き、小鳥はないてをりました。
 けれども、山にはまだ春はきてゐませんでした。
 山のいたゞきには、雪も白く残つてゐました。
 山のおくには、おやこの鹿がすんでゐました。
(『校定 新美南吉全集 第四巻』大日本図書株式会社 1980年)
 坊やの鹿は、生まれてまだ一年にならないので、春とはどんなものか知りませんでした。
「お父ちやん、春つてどんなもの。」
「春には花が咲くのさ。」
「お母ちやん、花つてどんなもの。」
「花つてね、きれいなものよ。」
「ふウん。」
 けれど、坊やの鹿は、花を見たこともないので、花とはどんなものだか、春とはどんなものだか、よくわかりませんでした。
 ある日、坊やの鹿はひとりで山のなかを遊んで歩きまはりました。
 すると、とほくのはうから、
「ぼオん。」
とやはらかな音が聞えてきました。
「なんの音だらう。」
 するとまた、
「ぼオん。」
 坊やの鹿は、ぴんと耳をたててきいてゐました。
やがて、その音にさそはれて、どんどん山をおりてゆきました。
 山の下には野原がひろがつてゐました。
野原には桜の花が咲いてゐて、よいかほりがしてゐました。
 いつぽんの桜の木の根かたに、やさしいお爺さんがゐました。
 仔鹿を見るとお爺さんは、桜をひとえだ折つて、その小さな角にむすびつけてやりました。
「さア、かんざしをあげたから、日の暮れないうちに山へおかへり。」
 仔鹿はよろこんで山にかへりました。
 坊やの鹿からはなしをきくと、お父さん鹿とお母さん鹿は口をそろへて、
「ぼオんといふ音はお寺のかねだよ。」
「おまへの角についてゐるのが花だよ。」
「その花がいつぱい咲いてゐて、きもちのよいにほひのしてゐるところが、春だつたのさ。」
とおしへてやりました。
それからしばらくすると、山のおくへも春がやつてきて、いろんな花は咲きはじめました。
(1941年末~1942年2月・推定)
(『校定 新美南吉全集 第四巻』大日本図書株式会社 1980年)
今朝の父の一枚です(^^)v
メジロを写していたら
まるで私を写してというふうにジョウビタキ♀が現われたそうです(*´▽`*)

プロフェッショナル 仕事の流儀「~コメディアン・萩本欽一~」
の録画を一緒に見ていた父が感動していました。
プロフェッショナルとはね
 おもしろくない仕事について
 おもしろい仕事にしてしまう人

前にも書いたけど「24時間テレビ」を
欽ちゃんが総合司会をしていたときは、見ていたけど…